Archive for the ‘Concert Memoir’ Category

「あちら」の風(Zefiro)が吹いてきた或る「銀座の夜」

Friday, January 28th, 2005

十六分音符は、襖(ふすま)一枚を隔てた「あちら」の側から聞こえてくるようなまろやかさで、転がり始める。それは、クラリネットの1番奏者のごく控えめだが明確に奏者同士の集中を束ねる視線を2本のバセットホルンに投げかけた直後に、あたかもひとつの風琴が作り出しているような1本の有機的な息の技として眼前に提示される。そして、その有名な「フィガロ」のテーマ、その十六分音符群が最初の12小節を終えて、全楽器がトゥッティに突入するとき、たしかに13の生楽器、しかし古楽器だけが作り出すことの出来る柔らかな爆裂音が王子ホールの会場を満たした。たった最初の13小節で、自分が今立ち会っている音楽の非日常性に、思わず体が反応して、音楽の喜びが笑いに変わってくる。それは、あまりに良すぎる音楽体験のときだけ起こる情動的な痙攣なのだ。

金曜日。イタリアの古楽アンサンブル集団、Ensemble Zefiroのコンサートに縁あって行くことに。Zelenkaのアルバムを出したときにそれを知ってもうかれこれ10年経っているので、彼らの音楽を知って早10年の月日が経っていることになる。が、まさか彼らの生演奏に触れる機会があるだろうとは想像だにしていなかった。コンサート情報を前々普段からチェックしていない自分だが、このような幸運に恵まれたのは兎にも角にも得難い友人のおかげである。

今回彼らの演奏した曲目はバロック時代の音楽ではなく、全曲モーツァルト・プログラム。メインは「13管のためのセレナーデ(Serenade Nr. 10)」、すなわち「グランパルティータ」で知られる管楽アンサンブル曲である。管楽アンサンブルそのものがあまりコンサートで聴くことの出来ないマイナーな分野であるが、それが古楽器によるもので、しかもそれが13人集まると言うのは、よほどのことでない限り、ないのではあるまいか。オーケストラのメンバーから13人の管楽器奏者を抽出して演奏するということはあるだろうが、そうなると俄然モダン楽器オケのメンバーによる特別演奏会のたぐいで取り上げられるカタチというのが、もっとありそうなことである。しかも現在では事実上失われてしまった一枚リード楽器、バセットホルンはクラリネットで置き換えられがちなパートであるし、それをその時代の楽器(もちろんそれは復元されたものではあるが)での演奏を耳にすることが希である。

Zelenkaの到達しがたい高みを極めた問題作「2本のオーボエとバスーンと通奏低音のためのソナタ(全6曲)」で、嫌というほどその深い音色と卓越したテクニックを見せつけてくれたAlfredo BernardiniとPaolo Grazzi、そしてAlberto Grazzi(おそらくPaolo Grazziの兄)が、当然のことながら1番と2番オーボエ、そしてバスーンの1番を占めている。この3人を除いて残りの10名は、すべて自分にとって、ほぼ初めてその聞く人ばかりである(調べたら、今回natural hornを吹いていたDileno Baldinという人は、ZefiroによるVivaldi曲集では、トランペットを吹いていたらしいことが判明)。

言及した2本のオーボエ以外では、「13管のセレナーデ」は2本のクラリネット、2本のバセットホルン、2本のバスーン、4本のナチュラルホルン、そして1台のコントラバスという編成になる(コントラバスーンを聴いてみたかったが、そのような古楽器が現在あるのかないのか、この度はコントラバスで)。この編成で残っているモーツァルトの原譜というのは、おそらく「グランパルティータ」以外にはないから、オール・モーツァルト・プログラムをやろうとすれば、曲ごとに演奏者を変えながらということにならざるを得ない。だが、そこはZefiroを率いるBernardini氏が、モーツァルト生前の時代におそらくこのように演奏されたであろうオペラのハルモニー(管楽合奏)バージョンを復元して、グランパルティータのフルメンバーで、「フィガロの結婚」をハイライトの形で演奏したのである。冒頭の「フィガロ」はそのまさに序曲で起きた自分の驚愕と感動を記述しようと愚かにも企てたものである。

グランパルティータは、自分が聴いてきたものはアーノンクールが指揮をしているウィーンフィルのメンバーによるものや「フルトベングラーが指揮をした」ものを含めてすべてモダン楽器によるものであったが、古楽器によるグランパルティータというのは、録音のものも含めて聴いたのは初めてであったのではないかと思う。まさかこのような希有のパフォーマンスを他でもないZefiroの演奏で聴けるとは。

初めて目にしたBernardiniは、一見学者然とした研究家を思わせる風貌をしている。しかしいったん演奏を始めると、自分が楽しみ、さらに人を楽しませようという、衒いのない音楽に対する姿勢があり、音が自然と「客の方に向いている」ところもあり、絶妙なバランス感覚で嫌みでない程度にエンターテイナーとしての要素も持った芸人であることも分かる。だが何よりも、驚くような歌と技巧を同時に聴かせてくれる音楽家である。

マーラーのカリカチュアとして知られる「マーラーの影絵」というのがあるが、鳴り止まぬアンコールへの呼び声に答えて、自らがそれを思わせるような風貌とジェスチュアで「現代音楽」と題する即興演奏を12人の仲間を相手に自ら指揮をした。その12人の演奏家たちの驚くような統率性。ヴォイスパフォーマーたちを指揮をする巻上公一氏さながらにBernardiniが、即興をやる。これで、「現代音楽」の何たるかを、実践的に相対化してくれたのだ。これ以上の、批評というものがあろうか? 彼は音楽創作を通じて現代的音楽のある部分を笑いにして葬ってくれたのだ。

Zelenka録音版で大いに暗示していたBernardiniらのradical性は、今回の演奏会によって、それが単なる想像の世界にだけ存在するものとしてではなくて、「音楽を通じてのヒューモアと批評精神」というものの実在を間近に見ることが出来たのだ。

音楽が教えてくれたもの

Monday, January 17th, 2005

そいつの目は、本当に死んでいるのか?

ある人は、そいつを腐っていると呼んだ。私にとってはときに特別な人であるにも関わらず。

ある人は、そいつを嘘つきだと呼んだ。私にとってはときどきに真実の人であるにも関わらず。

ある人は、そいつを曲がっていると呼んだ。私にとってはいたって実直であるにも関わらず。

ある人は、そいつを純粋でないと呼んだ。私にとっては純粋であることなど意識したことさえなかったのにも関わらず。

ある人は、そいつをB型であると呼んで喜んでいる。

ある人は、自分を水瓶座であると呼んで喜んでいる。

ある人は、自分がある地域の出であることを誇って語っている。

ある人は、そいつがある地域出身であることを卑下して語っている。

ある人は、純粋なものが分かると断定し、また純粋こそを求めると自分のモットーを語っている。

これは、差別が当たり前だった何十年も前の話ではない。

戦前やましてや明治時代の話でもない。

いま、当たり前のように行われている区別と差別の意識である。

人の外見的な見た目や性別を、そして出生を、誕生日を、「へだたり」として、受け入れ、それを言語化することさえ厭わない現代人の姿勢である。

ある人がそのように、ある人物を評するのは、自分とそれ以外の者、あるいは自分の気に入っている人とそれ以外の者、を区別するためにそうした判定を下す。しかし、判定が絶対的であることは、ない。

(百歩譲って)そいつが腐っているとして、それを嫌うのは自分が清廉だからか?

それを好むのは自分がともに腐っているためか?

そうだおまえ自身も腐っているためだとある人は断ずるだろう。なぜかならば、その方が自分の生き道を定めるに容易だからだ。

(百歩譲って)彼自身は自分がそう言うように純粋であるかもしれない。その通りだ。彼は純粋な人だとある者は評するかもしれない。だが、それは、自分がその純粋を感知できないということを恐れるあまりに、進んでそれを分かると公言しているだけの話かもしれない。そもそも、ある人物があらゆる時間を通じて、あらゆる場所で、あらゆる状況で、「純粋である」などということがありうるのだろうか。

ある者を評する心というのは、あるがままをそのまま受け入れるというのとは異なる、ある種の「ゆがみ」「不純」「無知」を自分の中に育むことを意味する。まっすぐ見ていないと他人を評する彼自身が、自分の中の曲がった部分を見ることができない。ある嘘を以てひとを嘘つきと断定して済ませられるその心は、自分の中の嘘に気付くことをみずからに許さない。

そいつの目が腐っていると感じる自分の目は、それを腐っていると捉える自分自身の淀みに気づかない。あるいは腐敗を単に嫌うだけの潔癖性の現れだとは気がつかない。潔癖性とはそもそも自らの腐敗に対する恐れにほかならない。真の潔癖は腐敗さえ恐れない心だ。

ことによると彼は非常に腐っている自分を嫌悪している。嘘に敏感で、ある嘘を決定的な人の性質であると断定する人は、自分の中の嘘に気づいていて自他をだましているか、自分の中の嘘にも気がつかない鈍感者である。

そしてそうした一刀両断の芸術家まがいの断定的言辞を弄するものは、決して物事を個別に語ろうとしない。具体的に語ることを恐れる。根拠なき断定で人を驚かせ、その断定を基に自分や人を判断する。その害毒たるや「人を頷かせるに十分な権威」として発動するために広まりこそすれ、自ら沈静化することは滅多にない。

嘘があり、腐敗があり、曲がったものがある。あらゆる人に両面が潜んでいる。

可逆性を許さない断定、引き返せない判定、そして回復不可能な関係の破壊。裁きは自分にこそ最も強烈に下されるものでありながら、それにはなかなか気づかれることがない。

腐敗から芳香や味わいは生まれる。

あるいは、腐敗そのものが、味わいであることがある。

まがった幹から自然の力強さを感じ取ることができる。

ねじれた体に力が宿る。

そして一見した嘘の裏に見定めの付きがたい真実がある。

排除の中ではなくて、共存の中にこそわれわれの生きる道がある。

いったいわれわれの誰が、悪なくして善を語り得るのか。

いったいわれわれの誰が、死なくして生を語り得るのか。

いったい、悪なくして、どうして善悪を超えられようか?

いったい、死なくして、どうして生死を超えられようか?

そして、いかに私は、言葉に左右され、付和雷同し、容易に賛同したものだろうか。いよいよ自分の言葉をしゃべるために、簡単にまとめられた、一刀両断の分かりやすい、あらゆる断定に対して、その断定を行うものの中にこそ、「不純」や「曲がったもの」を見て取らなければならない。

それは、自分の近しくしている友人や、師と仰ぐような尊敬すべき人の心の中にも滑り込む。そして、そうした時折彼らの中でおこる曲がった心を通じて、自分自身の中にも曲がった考えが伝わってくる。だがそれは、自分の言葉なのか? 自分が真に自覚した言葉か?

友人を取り巻かせ、賛意を呼び起こすその言葉は、その返す刃で人を傷つける。そして、何よりも「人と人とを分つ」...

そんなことを久しぶりに考えさせてくれたのだ。言葉でなく、音楽が。

(中川龍也と黒井絹の善悪すべて併せ呑み込むような二重奏を聴きながら。)

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sonica mundi、その他

Sunday, November 28th, 2004

黒井さんが去った後の午後は、吉祥寺まで買い物。例の如く、神田川沿いを井の頭公園まで徒歩で行く。途中の三鷹台で「軽く」ブランチ。途中でかなり紅葉しているところがあってビデオの静止画モードを使った幾つかのショットを。

オーディオユニオンでサウンドインシュレータなどを見たあとで一旦家に戻るが、1時間ちょっとでまた外出。今度はヴィオロンにsonica mundiを聴きに出たのだ。途中で古本屋に寄り、鈴木大拙の本(『日本的霊性』)とドゥルーズの『スピノザ─実践の哲学』を見つけて購入。まだ散財。ちょうど読んでいる「ある本」にずいぶん言及があったのと、共演者のひとりが私に勧めてくれたためスピノザの「エチカ」などに興味を持ち始めていたため。

著者のドゥルーズはソーカルの「知の欺瞞」で徹底的に批判されている当の本人。いわゆる「ポストモダン」のおひとりらしいが、自分で読むのはこれが初めて?…だろう。スピノザの入門書として良いのかどうかも分からない。これも一つの縁。ソーカル批判の対象になるようなbullshit-makingな「変な文章」だったら途中で止めるかも知れない。

ヴィオロンで聴いたsonica mundiは、6人とか7人という大所帯の「即興グループ」もんじゅ連の池上さんも参加している。こう言ってよければ、聴いていて肩の凝らないある種の調和を大事にする人たちの集まり。大所帯の即興で陥りがちな「音の飽和」を誰ともなく上手に避け、常に音の間がある。幾人かはミニマリスト的なアプローチをし、それが音の分裂を引き留めている。環境音楽的で室内楽的な即興と言ったら叱咤されるだろうか? とにかくこの人達が集まってこそ起こりうることが起こっていて、しかもそれが絶妙のそこでしか食べられないエスニック料理のようでもあるのだ。わたしなんぞ、ひっくり返ってマネをしたって出来そうもない、彼ら独自の音楽なのである。

本を読みながら聴くという行儀の悪さだったが、それが出来る心地よい音楽であるのだ。もちろん、最後はどうなるか少しハラハラしたので、本を閉じてじっと聴いていた。

東野さんとの再会/ギリヤーク尼ヶ崎さんのパフォーマンス

Sunday, November 28th, 2004

土曜から、日曜に掛けての長いお話。現在東京でベンガル式巻物紙芝居“ポトゥ”の原画展をやっている語り部“ポトゥア”の東野健一さんの最新作品を見るのと、昨年のコラボレーション・パフォーマンス以来1年以上ぶりの再会を果たすために新中野へ赴いた。場所は無寸草という知る人ぞ知ると言われる「画廊」である(この場所についてもいろいろ書けることはあるのだ)。昨年のコラボレーションで共演をお願いした盟友・黒井絹さんにあらかじめこの「イベント」のことを告げてあったので、現地で落ち合うことにもなっていた。

イベントというのは、今回の「原画展」開催中、この土日の2日間やることになっていた東野さんの企画のこと。自分の行った土曜日は、噂に名高い「大道芸人」ギリヤーク尼ヶ崎さんの「映画とお話」、というものだ。私は昨年のパフォーマンス録音の音源をコピーして手渡ししたいという希望を直前になって無理矢理実現しようとしたために、予定より遅れて現地に着いた。そのため、ギリヤークさんの映画はすでに始まって20分ほど経っていたようだ。

到着して初めて来た無寸草の雑然とした土間を通って暗い階段を登りきったが、闇で現場の様子が右も左も分からない。どうやら思ったよりこじんまりしたスペースであり、一角に小さなスクリーンを設置して件の映画を映写している。しばらく映画を観ていて目が暗闇になれてくると、その場所の突出したユニークさと、まるでそこにずっと飾ってあったかのような原画展作品の演出の両方に驚く。しかし、すでに最初を見逃している映画を観ることに神経を集中することにした。ギリヤークさんの踊りの素晴らしさは、連れ合いと熱烈な東野さんの話で聞き及んでいたが、映画とは言え記録となっているその踊りを観ることで、ギリヤークさんの生き方や一つの作品を追究する姿勢などに感動を覚えていた。やはり話でその内容を聞くのと観るのとでは大差がある。

良く時間を掛けて作られているギリヤークさんの『祈りの踊り』というドキュメンタリー映画が終わると、普段数百人の見物人相手にパフォーマンスをする彼自身が10人弱の鑑賞者に向けて自分の踊りと半生を振り返る話を始めた。「トーク」というのを勝手に対談のように思っていたので、東野さんが聞き役となってギリヤークさんとの会話が聞けるのかと思っていたが、実際は1時間くらいに及ぶギリヤークさんの語りの独壇場であった。それ自体が聞く者を引き寄せる魅力的なものだった…

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Botti-Hayashi Collaboration tonight!

Monday, October 25th, 2004

類い希な至福のひととき。9時過ぎ、麻酔に掛かったような余韻に浸りながら音友ホールを出て、飯田橋の駅に向かい家路につく。今宵のコンサートをどう語ることが出来よう? 2本のオーボエと弦楽が織りなす至上のハーモニー。いまだにある種の多幸感のリバーブレーションの中にいる。このようなオーボエの響きに再会したのは、一体何年ぶりだろう。

もう何年も前に、ハートレンチングで共演した盟友、音楽上の欠かせない理解者のひとり、林憲秀と、彼の在米時代の師匠ロバート・ボッティ(ニューヨーク・フィルのオーボエ奏者)とのコラボレーション・コンサート。そして、室内楽的な丁寧な弦楽アンサンブル。テレマンのタフェル・ムジークやビバルディの四重奏、アルビノーニのコンチェルト。どれもが、天国的なアンサンブルとなって、音友ホールの高い天井まで浸すように広がった。

そして...

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