Archive for the ‘音を捉えようとする言葉’ Category

逆説的な夕べ

Tuesday, June 14th, 2005

いいはわるい わるいはいい

じょうずはへた へたはじょうず

きれいはきたない きたないはきれい

まことはうそ うそはまこと

楽器を操る人にとっては、おそらく誰にも「上手に奏する」ことに対する抗し難い誘惑があると思う。(そうだろ、みんな!) ただ何を以て「上手」とするか、というのには千差万別の物差しがあろう。つまり奏者各自が持っている追究すべきテーマによって「上手」というのはさまざまに違って当然なのだ。ただ自分がここで言うところの「上手」なんてヤツは、おそらく最も保守的な定義に属するのではと思われる、多くの自由人系の方々からすれば、糞飯ものの定義に過ぎないかもしれない。でも正面切って話してみよう。

例えば、音程が合っているとか、短い音の粒が揃っているとか、音符のヌケが起こらないとか、他の楽器と「縦の線」が揃っているとか、微妙に旋律を走らせたり遅らせたりだとか、音色がきれいだとか、音が太いとか、自在に音量を変えられるとか、そういうあらゆる保守的な意味で「音楽的であろう」とする時に意識される諸々の技術のことである。もちろん明らかなことだが、こうした点において自分が理想から遠く及ばないことは言うまでもない。

そしてそれらのさまざまな演奏上の「巧さ」というのは、ひとつの方法をすべての状況に押し付けるのではなくて、持っている引き出しの中のいろいろな手法から、適材適所に最も相応しいと感じられるものを理解し、瞬時に選び出し、相応しいタイミングで提示し、それを空気の振動として再現すること、に違いない。そして相応しからざる技巧を敢えてある場面に適用するという様なフェイントも、それを自覚的にできるのであれば「上手」のうちだろう。

ま、この辺りが因習的な意味での「演奏の上手さ」を実現する要素であろう(書き忘れたこともあるだろうけど)。

何を隠そう(って何も隠さないことにしたんだが)。自分にはそういう「上手な」演奏技法というものに対して、無理は承知の上で「到達したい欲求」がどうしても拭い切れない。「ある方面」からは下らんことだと言われても、それは意識の中に深く組み込まれたある種の業だ。それは自分の現状とは全く関わりなく存在する「理想の在り方」として、身体の中に宿っている感覚なのだ(もちろん場面に相応しい理想の在り方をつねに思い描けるとも限らないが)。

それを理想の「在り方」などと呼んで、「カタチ」と呼びたくないのは、「形」と呼ぶにはあまりにも多様で雑多なパラメーターが音楽技法の中にはあるし、あるときに求められることが、ある場面では相応しくないというようなこともあり、あまりにも多くの「型」というものが存在する以上、それはもはや「カタチ」と言うに相応しくないほどに可塑的で雑多なものだと思うからだ。かくも複雑な技巧のパターンや組み合わせが音楽をつくり出すにあたって在るので、仕方なく「カタチ」などという呼び方をしたくないだけの話で、それでも、そう呼びたければそう呼んでもかまわない。(←いつもの脱線)

しかるに、昨夜の石塚トシさんの「新しいアルバム」のためのレコーディングは、あらゆることがウラメにでる実にウラメしくもウレしい挑戦なのであった。おそらく音自体をいいと思って頂けたのでお呼びが掛かったのだと思う。それは大変光栄なことである。しかし、昨夜演奏したあとの「読後感」は、正直言って「ほぼ玉砕」であった(バ苦笑)。実に学ぶことの多い所謂「入社儀礼」の様なものだった。大勢の着衣している人たちの前でたったひとりで脱衣する(すっぽんぽんになる)ということだ。

まず。数日前に貰った譜面からは、「いくらなんでもここは譜面通りに吹くことはねーだろう」と思っていたところ(ものすごくシンプルな旋律)は「譜面通りにやって下さい」と言われ、「ここでアドリブはねーだろう」(だってちゃんとギターソロが入っていたんだもの)というところで、「出来るだけ好き勝手に自由なアドリブ入れて下さい」と言われ、クソ、もっと巧く吹けるはず!と思ったところは、「最初のテイクで良いです」と言われ…という、ほとんどすべてが自分の「浅はかな考え」を見事なまでに打ち砕くものだったのだ。こういうことってきっとありがちなことなんだろうねー。

特に、ミスタッチと言うか、明らかなフィンガリングミスの痕が見えるテイクが「一番よかった」などと言われた日には「お〜い、ちっとまってくれ〜、それはないだろー」と叫びたくなるほどだったよ。ほんとにあのテイク使うんすかぁ?

ほんとに器用だったら、いかようにも「料理」できるんだろうな、ああゆう場面でも。上手いヤツは、言われた通り「下手そう」に吹くことも出来るし「本当に巧く」吹くこともできるんだろう。しかし、上がった「テイク」は、『下手なヤツがなんとか巧く吹こうと格闘している(事実なんだけど)』ようにしか聞こえんのですよ、自分には。それって、ものすごく恥ずかしいことですよ。で、せめて4、5回の自己リハをして、なんとか自分自身がそれなりに満足いく様なアドリブが吹けたとしよう。するときっとトシさんは「どんどん詰まんなくなるなぁ」とか言うのかもしれないワケです。そんな雰囲気だったんだよね、昨日は。

それにしても、録音担当、アレンジャー、トシさん、それにベーシスト、マスター(プロデューサー)、あとどなたか分からないけど立ち会っている人、という6人もの方々が興味津々で見ている目の前で(というか、ダンボ状になっている耳の前で)、しかも録音するのは自分だけ、という状況。これがいわゆるオーバーダビングのための録音作業では当たり前なんだろうけど、そういう状況でやるというのは、何ともチャレンジングなんだよ。スタジオに入ったのが何年かぶりであまり慣れていないんですよね、こういうのは。

宅録DTM状態で、自分の好きなテイクが録れるまで何度でもやり直すというのは、楽だったね、実に。懐かしいよ。

しかし、あんなボクを暖かく迎えてくれて、「辛抱強く」付き合って頂けたのは、よかったっすよ、昨晩は(く〜っ!)。

貴重な「通過儀礼」に感謝します。APIAの皆さん、そしてトシさんに。

反精神論の音楽論 あるいは、非・霊的音楽論

Tuesday, February 22nd, 2005

今更ながらのことで、敢えて私が言うようなことでもないだろう。だが、世の中には「音楽」と呼ばれるものが実に多くあっても、「およそ音楽と呼ばれるに相応しいもの」のなかに、そう易々と作られる(演奏される)ものはない。ただ、その「難しさ」にはいろいろな種類があって、ただ音を出すのだけでも難しいという「発音」レベルの難しさもあれば、指や腕を自在に動かすことの難しさもある。また、音色や音量を操る困難がある。これらのこととも切り離せない密接な関わりのあるのが、フレージングの難しさという「音を出せる」「指を動かせる」というレベルの次に待ち構えている困難である。さらには、他人の出す音とどのように合わせていくのか(あるいは「合せない」のか)、という「アンサンブル」上の困難というものもある(「アンサンブル」については一度書いたことがある)。いずれの場合も、どのような音を目指すのかと言う、一旦身体の外部に存在したことのある、いわば「既存にみとめられたことのある音型への接近」という、演奏者にとって避けて通れない課題が存在するからこそ、起こってくる困難であるということも出来るかもしれない。換言して、これはイメージ(形)への接近という取り組みである。この「イメージ」を便宜的に私は「外在したことのあるもの」と呼んでいるのである。踏み込んで言えば、こうした一連の「困難」は、取り組むに値するものであるし、追求するに必ず喜びを伴うものでもある。つまり、この困難と喜びこそが音楽においてまさに表裏一体のものなのである。

だが「困難」か「喜び」かという議論は、この際、問題の対象ではない。それを生み出そうとしている状況や結果によってどちらにでも転び得るものだし、「どちらが真か」というような問題ではないからである。しかし、以下のことは議論に値する内容であると信じる。それは、「困難」が、容易に音楽家による「精神論」に結びついてしまうという問題について、である。

■ 「かたちから入る音楽」への反省という歴史

人によっては意外なことであるかもしれないが、音楽に関してある程度の習熟を得ている者たちにとっては、「外在する音型を目指す」ということ自体が、すでに「疑問の対象」となって久しいということがある。これは目指すものが、「外在した音のイメージ」ではなくて、あくまでも「内在的なイメージ」であるという、ある程度のまとまった数の人々が口にし始めている別の「正論」のせいでもあるのだ。つまり、外在したイメージの追求は、「かたちから音楽に入るのはどうか」といういかにも説得力のある言い方で忌避されがちなことでもあるわけだ。こうした「かたちから入る音楽」を批判的に捉えている音楽家というのは、当然あるべきイメージがわれわれに内在したものであるべきだ、と言うある種の精神主義によって支えられている。

一度外在したもの同士に存在するひとつひとつの違い(個性)はこの際、問題にならない。それは、音をイメージ通りに具現化した後で問題となる末端的な違いに他ならないからである。他のすべてが型通りに外在化できたからこそ初めて問題になるレベルの話である。

ここでひとつ忘れてはならないのは、およそ「精神主義」や音楽に関するある種の「知恵」というのは、どのようなレベルの修行者にも等しく理解されて良いものではないということだ。ひとつの教えを、あらゆるひとのあらゆるレベルに当てはめてしまうということは、実はミソとクソを区別しない勘違いと大差がない。ただし断っておくがここで言う「知恵」というのは、特定少数の人にのみ公開されている秘儀とは関係がない。

■ 模倣の非神秘 vs. 霊的神秘主義

反論を覚悟で繰り返せば、あらゆる音楽は「物まね」から始まる。つまり外在するイメージの模倣である。あるいは、「かつて外在した音のイメージ」の模倣と言っても良い。しかるに、音楽は心象風景を表現することだとか、精神的活動だとか、あくまでも人間(演奏者)の内的存在の具現化だとか、はたまた自分の属するある種の霊的存在への奉仕であるとかいう、まったくもって反論のし難しい「立派な精神論」は存在しているし、そうした事々が常に多くの演奏家たちを奮い立たせてきた一方で、大いに惑わしてきた言説のひとつようにも思えるわけである。

特に本論で問題にしたいのは、たとえば、精神論の中には音楽以前に演奏家がどんな郷土を持っているのかであるとか、どんな民族的バックグランウドを持っているのかなどという、まかり間違えば、特定の人間にはそれに取り組むこともできない(取り組む資格がない)とさえ取られかねない内容を含むことを、差別と思わずに(あるいは自己の優越意識を自覚せずに)平然と言い切れる人がいる。もちろん、音楽に取り組むにあたっての、ある特定の精神論を過小に評価しようとか、無意味だとか言うつもりもない。それについては後述する。

だが、霊的精神主義は、限られた数の儀礼通過者が、自己の存在価値を自己の作り出す音楽そのものから得ようとして得られない場合の「頼みの綱」とする、いわば選民意識(エリート意識)の様なものとして働く。おそらくたいていの場合、そのような意識を芽生えさせる本人は、そのことに無自覚なのである。

実際問題、自分の関わる音楽創作が特定の人間にだけ許された特権的な「作業」であるという考え方(思想)は、常にある程度の技術を持った人にとって抗し難い魅力であったということは理解できなくもない。それは、先達から弟子への、音楽的な、さらには音楽から観れば副次的な、ある種のイニシエーション(洗礼的な通過儀礼)を経て、今なお伝えられている可能性がある。こうした通過儀礼的体験が、音楽性そのものを深めるという可能性も完全には否定できないが、むしろそれは本人の関わっているある種の音楽へのコミットメント(献身的取り組み)を強化するための、きわめて効果的な方法のひとつと考える方が妥当なのだ。

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音楽から何が分かるか

Tuesday, February 1st, 2005

ボクの周りには、音楽を聴くとその人が分かると断言する人がいる。しかも一人や二人じゃないんだね、そういうことを言う人は。あるいはかつてボク自身もそんなことを口走ったかもしれない。

音楽を聴くと、それを創ったひとの人柄や人間性などが分かるか? ボクに言わせるとそれは、「Yes and No」だ。奏する人の音から何も全く分からないかと言うと、もちろんそういうことはない。分かる(と思える)こととそうでないことがある。だが、その人の何が分かって何が分からないか、ということをきちんと区別して自覚的に論じる言葉をそうしょっちゅう聞く訳では、ない。

[確かにこれについて語るのは難しい。だって「分かる」と言っている人が分かっている(と思っている)ことをボクがその人の身になって体験出来ないからだ。つまり、その人が、思い込みであるにしても「分かる」と思うことは出来るのであるし、万が一、「分かっていることが正鵠を得ている」可能性もある訳だし。ただ、その言葉を信頼に値するものであるかを個別に判断していくしかないんだ。]

以前、音を聴くことに関して自信がある(と自負する)人が、「音を聞けばすべてが分かる」みたいなことを言っているのを聞いて、さっそくボクは尋ねたことがある。じゃ、ボクはどんな人間なんですか、と。実は、こうしたことを断定的に論じる人ほど、こうした質問に対して案外準備ができていない。「… enteeさんは、熱いよね。音にもそれが出てる」。それがそのときボクが聞いた答えだった。

enteeさんは熱い、か…、ふ〜ん…。それはそうなのかもしれない。それに熱いヤツだと言われて悪い気もしないしね。そこで思考停止しかかる。だが考えてみれば、なんてバカげたほどに「差し障りのない」答えだろう。「熱いかどうか」なんて、別にボクの音楽を聴かなくたって分かりそうなことじゃないか。ボクの音楽を聴いて熱いヤツだってことが分かった、なんて、あまりにもお粗末な話だよな。だんだん憤慨してくるね。そんなことじゃなくて、ボクが善人か悪人か、大物か小物か、聖人か俗人か、信仰者か無信仰者か、ボクがどんな秘密を知っているか、ボクがイニシエーションを受けた入門者かそれとも先覚者か、女好きか男好きか!、etc. etc. みたいなことが、音楽からにじみ出ているのだろうか? そのあたりが、気になるところではないか。だって、もし音楽では嘘をつけないということであれば、すべてが人前でアカラサマになっているということだろう? だが、そんなことは正面切って相手に言うことじゃないためもあってか、もちろん出てきやしない。

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私のDivaは、音楽で私をさいなむ

Monday, February 12th, 2001

映画『Diva』は思い出深い作品だ。作品自体が非常に秀逸だと感じただけでなく、帰って来ないと思っていた日本に帰ってきて、初めてひとり劇場で見た映画であったことや、それ以外の「暗合」とも相まってmy favorite moviesのひとつになった。ビデオも間もなく入手した。自分は決して映画マニアではないが、滞米中に映画を映画館で見るのがそれまで以上に、やや習慣化していた。とくに帰国直前の最後の4~5ヶ月の間に知り合った映画通の日本人の友人(この人はこの人で特筆に値する重要な友人なんだが)の影響で、帰国直前のニューヨークでも幾つかの欧州映画を見たのだった。そして『Diva』はニューヨークで観たわけではないのだが、彼との話の中でも何度か話題に上った映画のひとつだったのである。

米国で見ることのできる欧州映画の幅の狭さたるや、さすが国を挙げて「文化的鎖国」を断行している島国アメリカならでは!と言いたくなる状況だったが、そのなかでもディストリビュータの努力でもって開けられた針の目のような小さな穴からは、(たとえばそれはニューヨークのスノッブの集まるLincoln Center Theaterなど幾つかの映画館のことなんだが)幾つかのアジア映画や欧州映画が、ちょろちょろと漏れだしてきており、それらをなんとか掬い採ることができたのだった。

話は『Diva』から離れてしまうが、何でも見つけだしてきて、まとまった「ひとつの状況 phenomenon」を造り出してしまう日本の異文化崇拝傾向の方が世界の中でいかに特殊だとしても、今にして思えばアメリカに於けるこうした海外文化の紹介の程度の低さは、それはそれでまさにappallingなほどだと思えた。これについてはそれだけで「一幅のエッセイ」が描けてしまうほどの重い意味を持つことだと感じているが、(ポイントを失いがちな私のエッセイをこれ以上ひどくしないために)ここでは映画に話を限ろう。日本では、さほどマニアでなくてもちょっと映画に興味を持っている人が、欧州やアジア発の映画の存在を知っているほどには、アメリカ人が外国映画を知らないというのはかなりの程度正しいと思う。彼らの外国の文化に対する全般的無関心にも原因があると思うが、そういう海外の映画が観たくても、そのようなものがあること自体が広く紹介されないのだから、周りの人にはアクセス自体が殆ど不可能なのであって、知らなくてもおそらく仕方がない。相当のマニアでない限りそうした文化的チャンネルの確保が難しいのが、島国アメリカなのである。しかし、一度でも日本人だった人からすれば、そういう点でアメリカというところは(ニューヨークでさえ)、実に文化的に「渇き」を感じる場所であった。

そんなわけで前述の映画通の友達と話す「文化的会話」の多くが、アメリカのsickeningな文化的鎖国についての憤懣やるかたない気持ちの吐露に費やされた。日本人なら当たり前のように知っている映画が、なぜ、アメリカではかくも接触機会が狭まれているのか、と。この友人の列挙するお薦め映画の殆どが近所のビデオレンタルショップでは置かれていなかったし、East Villageなどのマニア向けのショップでなければ見つけられないなんてこともあった。そのリストされた彼の勧める映画のほとんどが、日本に帰ってきて初めて観るものだったのだ。

 まあ、いわばこうした日本の欧州文化への間口の広さのためと言っては何だが、帰国して現在の仕事に就くまでの間、いわば文化的調整期間のような時期があって、毎日のように街の中央図書館に通い、本を渉猟し、またアジア映画のビデオを借り、また都心に出て欧州映画を見たりといったことに時間を費やした。“浦島”現象を経験した「日本人知的中産階級」としては、こうして必要な調整及び挽回を一気に計る必要があったのだった。

その初めの映画が『Diva』であったのだ(長い前置きだよな)。たしか神楽坂の辺りだったと思うが、小さなその名画座にすわって、いきなり荘重に始まる冒頭のAlfredo Catalaniのアリアのシーンに椅子に釘付けにされ、映画のプロット以前に、「これは音楽と映画好きを自称する者として観ていなかったことを直ちに恥ずべきたぐいの映画である」と断定したのであった。しかも、あの音楽が一度ならず何度も何度も「さあこの音楽に感動せよ」と畳みかける。そのときわれわれは映画を見ているのではなくて、コンサートに聴衆のひとりとしてそこに居合わせているのである。したがって、『Diva』あのアリアを「聴く」ためには、映画館での観賞が必須なのである。それにしても私が「噂のDiva」とようやく出会った1994年といえば、最初に公開されたのが1981年だとすると、すでにかれこれ13年経っていたことになる。あの名画座に感謝!である。

ようやく最初のアリアへの感嘆から立ち直った頃、映画はゆっくりと不穏な感じで動き出す。それでは、音楽にフォーカスして自分の思うことを捲し立ててみよう。まず、アリアの感動を相殺しようとしているとしか思えない、駅のプラットフォームでのシーン。そのバックでかかっている、いかにもチープなカッティング・ギターをフィーチャーしたイタリアン・プログレ張りの音楽が、あのアリアと好対照を成しており、しかも「これはやはり映画なんだ」と、鑑賞しているという「現実」に鑑賞者を引き戻す(つまり音楽をメインフィーチャーとしたショームーヴィーでなく)。また、あの場違いなほどチープなロックが、この映画の全体のクラス感をうまく規定したと思えた。そんな安物の音楽しか手に入らなかったのではなく、わざと選んだということである。これがプロっぽく完璧にアレンジされた「不穏な雰囲気のクラシック」系の音楽であったなら、この映画のクラス感は反対にぐっと上がってしまい、もはやみんなの愛する「ヌーベルバーグ」ではなくなってしまっていたかもしれない。

主人公を助けることになるゴロディッシュのアパートの部屋のシーンでは、Laraajiを思わせる環境音楽(ambient music)が空間を満たしており、恋人のアルバはローラースケートで浮遊し、部屋に飾ってある「水と油の波のオブジェ」とすべてセットになって、ひとつの「音と動きのギャラリー状態」を醸し出している。アレは、理由がどうであれ、Jean-Jacques Beineixとしては絶対やりたかったことのひとつなんだろうと思う。あのような空間を演出すること自体が。

音楽の使用法に関しては、彼の後の作品(またYves Montandの遺作となった)、『IP5: L’ile aux pachydermes』における主人公の若者と彼の心の恋人である女があるダイナーの窓ガラス越しに再会するシーンでの音楽の使われ方などをみると、Beineixにとっては「最初に音楽ありき」なんだろうなと確信を深めざるを得ない部分がある。しかし『Diva』こそ、音楽が映画を成り立たせている好例となっている。このようなことを書くと、「最初に原作があったのであって、事実に反するぞ」と指摘がありそうだが、きっとすべての映画制作に先立って「あの音楽を映画化する」という意図があったんじゃないかとさえ私には容易に信じられるのである。

そんなわけで、当然ウィルヘルメニア・フェルナンデスの歌うアリアは、映画の中できわめて重要な役割を演じ続ける。それは単なる映画の一シーンとしての劇中バレエや劇中オペラの類ではなく、本質的な意味で、最初から最後までそうなのだ。音楽の創作行為を表層的に音としてだけでなく、これほどのレベルで音楽パフォーマンスに付きものの緊張感までも伝える映像というのはめったにお目に掛かれるものではない。

そして記録・再現芸術たる映画と、記録された音楽の《意味》が終盤になって明らかにされる。これは再現・再生されることが前提とされた芸術である映画の表現者として、Beineix自身が問いたい作品の最大の挑戦的メッセージであるとさえ考えられるのだ。映画の中で「録音され複製された自分の歌」を拒否し続けたDivaたる彼女が、映画の最後に、映画の鑑賞者たるオーディエンスとともに、その複製された音楽に感動する!という仕掛けが用意されているのである。

しかも映画の鑑賞者たるわれわれにとっては、彼女が「生」で歌っているものも、ジュールによって録音され再生されているものも、まったく同質のもの(両方とも複製である)として聞こえてくる(当然だが)。しかもこのプレイバック(再生)は、彼女の歌った劇場によって行われる。これは記録・再現芸術が自らを正当化する最も賢明でパラドキシカルな手法である。これは音もビジュアルも時間も含有する映画だからこそ可能だったトリックだと言える。しかもジュールの録った音源が、お粗末な音の再生に留まらない、演奏現場での緊張感をも、そして記録者の音楽への愛をも、伝える「音の記録」であったからこそ、映画を見ているわれわれは無理なく納得させられてしまうのである。かくも秀逸な映画ならではのトリック。

Beineixは終盤近くでひとつのいたずらをする。「悪徳刑事の手下2人組」のひとりが、一体全体イヤフォンで常に何かを聴いているのだが、それの内容が最後(最期)に判明する場面である。この映画のもう一つの象徴的存在でもある、このグラサンを掛けた「何でも嫌い」な小男は、相棒が話しているときもイヤフォンを付けたままだ。そして人を追うときも、殺すときも。そして、これもやはり音楽なのであった。アメリカ映画ならさしずめ、この小道具はWalkmanだったかもしれない。その音楽がわれわれには聞こえてこない「彼の見た世界」のsoundtrack(背景音楽)として常に機能していたのであり、おそらく彼の「嫌いでない」唯一のものであったのであり、「彼の世界」における音楽のすべてだった。そしてついに死んでしまった彼の耳からイヤフォンが外れ、そこから漏れだしてきた(血ならぬ)音楽とは何か? それは「タンゴ」だったのである。

(げげ~っ!)

パット・メセニーをどこまで支持し続けるべきか

Friday, January 17th, 1997

これは、もうかれこれ3年以上前に書いたパット・メセニーに関する短い評論の試みである。

筆者は、そもそもどのような方法で「意味のある評論」が可能かを考え続けていたが、こと音楽に関するものとなると、俄然筆が進みにくくなる。ひとつには、音楽を造る側に身を置こうとしている自分が、容易に人の作るものをあれこれ言うのはどうかと思う、といういわゆる心理的抵抗がある。加えて、雑誌やレコードのライナーノートなどを通して、あまりに多くの「プロの評論家達」のお粗末な「評論」を読むにつけ、そんなものに関わってたまるか、という気持ちにもよくなるわけだ。そして、それとも関わりがあるが、そんな評論行為に費やす時間があったら、何か自分で演っていたい、と言うのが2つ目の、そして「正当な理由」だ。

しかし、他でもないアマチュアだからこそ、実は評論に関わるべきなのだ、という考えもある。いや、評論こそ、素人の独壇場だ。CDやレコードを買う側である、一般オーディエンスこそ、音楽を売り物にしている人たちに対して、色々注文を付ける権利こそ持っているものの、遠慮しなければならない謂われはないのである。つまり、アマチュアや一般消費者だけが、公平、かつ、他の一般オーディエンスのためになる真の評論が可能なのである。「評論家は勝手なことを言う」と人は言う。プロがそれを言うのは、ひとつには自分のやっていることを評価して貰えないと、即飯の食い上げになる、という深刻な状況を考えれば、理解できないことではないが、そのプロ自体が日常的には、プロの評論家達によって喰わしてもらっているのが悪い、とも言える。「アマチュアは勝手なことを言う」と誰かが言うなら、「当たり前だろ、バカ」と言われてもしかたがない。あくまでもプロの音楽家に対して、金を払う側にいる一般オーディエンスこそが、勝手なことを言っても何ら罪にならない人々なのである。

そして、公平な評論家たろうとしたら、決してプロの評論家になってはいけない。プロということは、「評論家」=「プロの創作家」のがっぷり組んだ互いが互いを利用する利害関係の抜けがたい関係に参入しなければならないからである。良いことを書いてくれるプロの評論家には、プロの音楽家やその関係者から原稿の依頼がある。正直に思うところを書くばかりの評論家のところに、どうしてライナーノートの仕事が行くものか。評論家にはプロの音楽家の需要に応える機能がなければならず、音楽家の世間での広い成功には、名のあるプロの評論家のお墨付きが必要なのである。

さて、このパット・メセニーに関する評論の試みは、あくまでも筆者のパットへの個人的思い入れと、むしろさまざまな期待があったからこそ可能なことであって、そこここに見出される辛辣な批判も彼へのかつての過剰な期待の裏返しに他ならない。そして、ましてやこんな短い論考で、パットを語り尽くすことになったとも思っていない。「過去の記録に戻ってつねに鑑賞することが可能な今日の音楽状況」を考えれば、今のこの瞬間の彼のありかたを全く視野に入れずに、過去のある時期の彼の音楽に対する愛着を表明したりするだけで済ませてしまう「評論」も十分に可能だ。つねに公平な批評家たろうと考えるのであれば、現在存命の創作家が今何を考え、何に努力を傾けているかを把握せずにそれはできないはずだ、という正統的かつ良心的な観点は欠かせないものになる。

その点で言うと、ここで私が試みようとしていることは、そうした正統的観点を欠いたものであるとのそしりは免れまい。誤解を恐れずに言うと、結局のところ、この論評だけを読めば、私が「今の彼より昔の方が良かった」と信じる部類の人間だと思われてしまうだけのものかもしれないが、パット・メセニー氏が現在も続けている(と信じたい)音楽的冒険のひとつの時期に過ぎなかったある時期の、私の不満を正直に吐露したものであるとまとめてしまうこともできよう。しかし、私はいわゆるECMでの「デビュー作」“Bright Size Life”が唯一の代表作である、と思うほど保守的なリスナーでもない(現にそのように主張する人を私は知っている)。パットの音楽との個人的な思い入れやライブ体験を長大な時系列的な作文にすることも可能だが、「他人に役立つ評論」を目指すなら、それをする意味があるかどうかはきわめて疑わしいのである。(July 20, 2000)


パット・メセニーをどこまで支持し続けるべきか (January 17, 1997)パット・メセニーの音楽が商業主義的であると言い切るのは簡単だ。しかし彼が商業主義者であるかどうかを状況からだけで論証するのは簡単なことではない。じつはこうした断定自体がパット・メセニーに限らず、どんなミュージシャンに関しても難しいのである。たいていの音楽の発信者は、良心的に言って、多くの方々に「聴いて貰いたい」と思っている。本当に「たくさん売りたい」とだけ思っているかどうかは判らないのである。したがって、いわゆる商業的にすでに「売れている」ミュージシャン達に関して、彼らの商品としてのCDなどの録音媒体が、それを提供する側にとって、何を意味するのか、動機はなんなのかという一般的な疑問を抱くのは、聴取者にとってある種当然の態度である。

しかし、敢えて挑戦的に断定するなら、私はパット・メセニーが、ここ数年の間に世に問うてきた一連のアルバムの中で、『Zero Tolerance For Silence』や『Quartet』ほど商業主義におもねた作品もないと思う。一見すると私が主張していることは、ちょっとした「天の邪鬼」な発言にしか聞こえないかもしれない。が、正直に私はそのように思えるのである。私は、彼が今まで世間に発表してきた、いわゆる「売れた」アルバムほど商業主義から遠いのではないかと常々思ってきた。彼の本当に「恰好がよい」と思える音楽への追求が、一般聴者の感性との幸運な一致で、うまいこと商業的な成功を見てきたのではないか、ときわめて肯定的に捉えていたのだ。

果敢にもECMを去り、ゲフィンに移ってからも、彼の音楽がより一層のメセニー色を押し進めることで、自身の究極的スタイルの獲得へと到達してきた、と、このように私が彼の変遷を好意的にさえ見ていたことを考えれば、私が単なる[Metheny=ECM](本当のメセニーはECMに限るよ…)派、すなわち[メセニー-マンフレット・アイヒャー-ヤン・エリク・コングシャウ]によって創られたサウンドこそが、パット・メセニーの本質であるかの主張をするものでないことが分かるであろう。

もちろんこのことは、ECM時代のパット・メセニーが、グループとして当時考えられる最高峰とも評価すべき作品をレコード、もしくはCDの形でまとまった数発表していたことを否定するものではない。憶測だが、私はパットのサウンドの一部がこの頃の録音セッションを通じて確立されたという意見をむしろ積極的に支持するが、それよりも、ECMに在籍できたことが、彼を経済的に安定させ、生活の保証、ひいては新たな創造への集中を容易にしたということが大きいと思う。彼はレーベルを移籍しても自分の「これだ」という音楽(サウンドではない)が創作できるということにこだわったから、あるいは、「ECMサウンド」というたぐいまれなる録音に関わるファクターが、故郷カンサスとオスロのスタジオを年に何度も往復してまで優先することではない、と少なくとも天秤に掛けて考えたと憶測する。ある意味では、彼のゲフィンへの移籍はむしろ彼の中では、録音の質を含むトータルな意味を持つ商品としてというよりは、彼自身の音楽自体の質と創作環境を優先して考えた上での判断だったかもしれないのだ。

加えて、ヨーロッパの老舗(しにせ)より、新興の人気レーベルのゲフィン氏が約束した契約金のほうが高かったハズである。確かに「冷たい闇の中で熱く黒光りする」ような「オスロからのサウンド」は、もはやゲフィンへ移籍後の彼のアルバムからは望めなくなったわけだが、それで彼の音楽の質が落ちたかというと、私はそのようにはツユほども思わない。もちろんジャケットデザインや録音状態など、商品総体としての好みに関しては云々できるだろうが。(好みでいうなら、ゲフィンへ移籍後のアルバムジャケットは、それはそれでユニークなものであり、淡泊なECMのデザインより良いと思う人さえいても、驚きはしない。)

そう、私は彼が特にECMの時代に残した数枚の作品を依然として特に愛聴し続けている一方で、ゲフィンに移籍してからの作品もそれに勝るとも劣らない、いやある意味で、より一層「彼の音楽」に磨きがかかるきっかけとなったのではとさえ想像してきた。むしろ移籍後の彼の作品は、ECMのレーベル下では作成できなかったものであろうと思っている。これは、単に地理的に彼の住む場所が南米に近いということと、彼が追求したサウンドがいわゆる「ブラジリアン・サウンド」であるからとかいうことではなく、彼が得た精神的余裕みたいなものが、サウンドに大きなスケールの音楽として反映されている、といった趣であり、当然、同じ方向性の音楽をECMでつくったとしたら現在我々が聞くようなものとは異なったサウンドになっていたはずである。そうした歴史上の「If」には意味がないとしても、ここ数年ゲフィンを通して彼が達成してきた音楽の内容というのは、私にとって、単なる「商業主義」という一面的レトリックでは評価し捨てることができないものであった。

結論から言うと、『Quartet』を聴いたときに私が思った正直な感想は、その音楽を「ゴミ」とまでは言わないが、「お蔵入り」しても仕方がない類の‘Second Best Takes’集、「疲れたちょっとひと休みしたい」という印象だった。確かに全て今回初のオリジナル曲集であるには違いがないものの、ちょっと録ってそのままほとんど加工せずに出した「パット・メセニーの最新作なら何でも売れるわさ」式の安易さを嗅ぎ取らないではいられなかったのである。私は今回のこのアルバムが好きだという人の意見を否定しはしない。私もこれから数度、好きになろうと努めつつ聞き返しもしよう(だって、自分でお金を払ったんだからね)。そのうち好きになるかもしれない。実際、良い部分がないわけではない。

しかし、どんなにひいき目に見ても、これが彼の「到達した新境地」(ディスクユニオンの店頭での宣伝の仕方)であるとは信じられない。飽くまでも佳作のレベルである。ここ数年押し進めてきたパット・メセニー・グループの方法が、遂に袋小路のどん詰まりに来て、それを彼は「まともに闘って乗り越えよう」としたのではなく、「楽なセッション一発取り!」で、「また1枚(年に1枚ペースの?)ノルマをこなしました」というのが真相であろう。しかもそれを「好きだと思う人がいればラッキーさ」という、謙虚な態度からはほど遠い、あの一流企業となったゲフィンを通して、これがパット・メセニーの達した新境地、これがわからん奴はバカだ、と言わんばかりの鷹揚な態度で、流行(はやり)のクリアケースに立派なジャケットの最新の衣で身を固め、一見して完璧な商品としてリリースされたのである。そのマーケティング戦略にあの良心のユニオンも乗ってたくさん売ったに違いない。私も買った。それは彼に期待していたからである。でも明らかに「買った者負け」「売った者勝ち」である。

加えて4人という小編成というのも何か深遠なコンセプト状のモノを感じさせるのに一役かっている。パット自身がスリーブの中で語っているように、「あちらこちらの状況で録られた」、というのはおそらく本当だろう。むしろそのような説明がなくても音を聴けば凡そのところは分かる。しかし、それで今回の『Quartet』は「なるほどだから良い」とはならないのである。むしろ「だから最高のものとはなり得なかった」のだ。ツアーやノルマは忘れて、ちょっとここらで彼には休息でもとって貰った方がいいかもしれない。

さて時間が前後するが、『Zero Tolerance For Silence』に関してさらに辛らつに批評させて頂ければこういうことになる。すなわち、ゲフィン発のこのアルバムは最高に洗練された(と思われた)マーケット戦略物資であった、ということだ。これはパット・メセニーが単なる「商業主義的なポップ・ミュージックの量産者」ではない、という態度を表明するツールなのである。そうすることによって、いわゆる長年のパット支持者の自尊心をキープアップすることができるわけである。しかし私は、まったく感動できなかったばかりか、パット支持者として、このようなモノを商品として流通させることにパットが賛同したというズルさに情けないとさえ思った。この音楽は、パットが「ある夜、パワーステーションに現れ一気に録音した」云々のエピソードがあってはじめて意味を持つ、パットという「芸術家」を正当化するアルバムなのである。そこには何の音楽的なオリジナリティも発想も存在しない、むしろ彼の「フリー」な即興性の限界とアイデア自体の貧弱さを露呈する以外の何ものでもない作品なのであった。誰かが「王様は裸だ」と言わなければならない。

彼がオーネット・コールマンを尊敬しているというのは周知の事実らしい。そして同じゲフィンで録れた『Song X』という比較的秀逸な作品もそれを裏付けるように見えるが、そうしたオーネットに対する彼の逸話も、実は単なる態度(スタンドプレイ)に過ぎなかったのではないか、本当かよ、勘ぐってしまいさえする結果になっている。つまりせっかく良いと思っていたその『Song X』でさえも、その真意とはなんだったのか、といぶかしくさえ思わせる原因になっているのが、この『Zero Tolerance For Silence』の失策なのである。

私はこのような即興が彼の日課として独りでしばしばやっていることであるならば、彼にとって精神衛生上大変結構なことだと思う。本当にそうであってほしいものだ。が、おそらくメセニー氏はそのようなことはやっていないのである。商品化するのが目的で彼はパワーステーションに入ったのである。このような作品は、しかるべき人がしかるべきレーベルから命を張って発表するのが筋である。それでも厳しい選択の目をかいくぐって音楽の内容だけで支持されるというのが、こうした「フリーミュージック」のあるべき姿である。しかるに、どうしてこれがゲフィンから出されると、人々は騙されて買ってしまうのか? それはそのパッケージに‘パット・メセニー’のブランドが銘打たれているからなのだ。そんなわけで、これがホントーの商業主義だ、と私は主張するのである。

考えにくいことだが、百歩譲ってこれがパットの日課的作業で、本人には売るつもりもなく、勝手にゲフィンが売ったというなら、それはそれでパットの「爪の垢」でも商品化すれば売れるというCD量販屋の許されざる読みがあり、何かを生み出し人を感動させることができる職人、「アーティスト」パット自身のためにも、人々の時間や財布のためにも何にもならない。(もっとも、ゲフィンの社員、パットのセービングアカウント、パワーステーション、そして大量に中古市場に出回ることになって利益を受けるディスクユニオンのためにはなったかもしれない。いやはや数あるパットの名作を中古レコード屋で見つけるのが難しい一方で、何と簡単に見つけられる『Zero Tolerance For Silence』であることか。それはつまり、買ったのは良かったが二度と聴きたくないと言うことだよ。)

パット・メセニーに一言あり、ということで彼にこれから何を期待するかを書くことが、この拙論を単なる不平不満として終わらせない方法だろう。「金を払って、受動的に聴くしかないパット・メセニーの音楽の一聴取者に他ならない」人間の勝手な言いたい放題に過ぎないとの考え方もあるが、その通りだ、何の反論もない。でも何しろ、商品に対してわれわれは客なんだからね。言わして貰うよ、ここは。

50年代なら10年間くらい問題作を立て続けに連発して死んで名を残すということができたが、タバコも酒も断ってしまうようなあの健康大国アメリカでは、あの青年にはそのような夭折という蛮行に走らせる余地も残されてはいないにちがいない。彼に残されているのは、人から飽きられようともお構いなしに、いままで確立してきたメセニー流の音楽を、これまでのペースではなく、「このところのピンク・フロイド式」に6、7年位の長いサイクルで「待ってました」とばかりにリリースし、それに併せてワールドツアーを敢行し「ああ、やっぱパットはこれじゃなきゃ」とファンを喜ばすのが、本当に誠実な商売人(兼アーティスト)のできることかもしれない。

あるいは、ある時代のマイルス式に「いま本当にカッコ良い」音楽様式を次々に取り入れて、常に時代を反映した(それでいて、その中でも人をして「一番カッコ良い」と言わせるような)音楽を発信しつづけるのも手だ。また、別の時期のマイルスのように、まったく新しい音楽を次々に「発明」し、それを世間に問い続けて追従者をひとかたまりこさえて時代を創ってしまうのも一つだろう。いずれにしてもこれのどれも簡単だとは、これっぽっちも思わない。私にはひっくり返ったってそんなことはできやしない。

そこでだ。パット君にはもう少し悩んでもらって、もう少し自分の本当にしなければならないことを見つめて貰おう。それに成功しなければ、知らず知らずに(知ってて選ぶのではなく)ハービー・マンの二の舞になるのは避けられないだろう。特にパット君のように一時代を築いてしまった上に、一流レーベルと恐ろしくdevotedな聴取者達によって甘やかされた彼にとってはキツい試練になるかもしれないが、挫折なき永遠少年、天才ジャズギター弾きのパット君にとって、これからが本当のショウネン場となることを知って頂き、これからは‘Second Best Take’集モドキではない本当の彼の新しい音楽を創って貰おうではないか。それに臨み、この次は、『Zero Tolerance for Himself』なる題の下に、この際、まったくマイナーなインディレーベルから、変名してまったくの無名の新人としてアルバムをリリースしてもらって生まれ変わるのもテかもしれない。