Archive for the ‘Jの陰謀’ Category

秘儀(密教)は顕教によって伝えられる

Monday, August 6th, 2007

言葉や名前の由来というものは、時に教科書的な教養として広く受け入れられた類の理由付け、そして歴史的裏付けを伴う「正統的な」理由付けによって、「顕教」的に因果関係が説明され、納得が得られる側面と、そうした史的事実の如何に関わらず、結果的にある名称によって定着せられ、その由来についての知識(事実の伝承)が途切れてもなおそれが継続することによって醸し出される「二次的な暗示」という、言わば「密教」的な側面の、二面性を持つことが多い。

例えば、われわれの属するこのエイオンにおけるキリスト(救世主)の名前が“Jesus”であるという経緯は、「彼の生きた時代と場所において、きわめてありふれた名前であって、なんら珍しいものではなく、その名前が“Jesus”となったのは単に偶然に過ぎない」とするような、史的事実のみを勘案して説明できる面があるだろう。これは言わばもっとも広く受け入れられるだろう理由付け(歴史的裏付け)による「正統的」かつ「顕教」的な説明の方に当たる。かつて筆者が拙論「Jの陰謀」のシリーズを通して説明を試みたように、あるアルファベット記号についての「秘教的な意味合いの暗示」という観点からすれば、救世主の名前が「Jから始まる特定の記号でなければならなかった必然的な理由がある」あるいは「特定の意味合いを含むものでなければならなかったためにその形象(かたち)Jに変容した」ということになろう。これは名称の意味の「密教」的、「秘教」的な側面である。

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Jの陰謀
〜 新しいアルファベットを巡る仮説的表象論《目次》

Saturday, April 28th, 2007

#1. Jの陰謀〜 新しいアルファベットを巡る仮説的表象論 [1]

■ 綴り全般の話
■ 歴史的に若い記号“J”

#2. Jの陰謀〜 新しいアルファベットを巡る仮説的表象論 [2]

■ 「J祖型」──ひとつの仮説
■ 聖書における“J”

#3. Jの陰謀〜 新しいアルファベットを巡る仮説的表象論 [3]

■ クリスマス装飾の象徴性
■ 祖型的「自己犠牲」の象徴としての“J”

#4. Jの陰謀〜 新しいアルファベットを巡る仮説的表象論 [4]

■ 20世紀最大の犠牲者“J”
■ 神の名としての“J”:Jah/Yah

#5. Jの陰謀〜 新しいアルファベットを巡る仮説的表象論 [5]

■ 日本──もうひとつの“J”
■ 順列の機能としての“J”
■ 反復される“J”
■ “J”に引き続く“K”
■ “J”に対する概念としての“M”

#6. 関連文:秘儀(密教)は顕教によって伝えられる

Jの陰謀
〜 新しいアルファベットを巡る仮説的表象論 [5]

Thursday, March 15th, 2007

JR Logo JA Logo JT Logo JCOM

J Wave

J-League

■ 日本──もうひとつの“J”

日本が英語で“Japan”と表記されることには、覇権国アメリカの母国語である英語と、その言語文化圏およびその周辺における「日本の宿命的役割」の歴史的真相と不可分である。

日本に“J”の記号が付けられていることは、偶然と決めつけるにはあまりにも象徴的である。象徴研究の立ち場からは、図像形状の決定理由については、少なくとも歴史的経緯からだけでは説明できないある種の「申し合わせ」の暗示があるように思われる。ただしそれが最初から最後まで人為的な努力や制御によって可能であったと断じるには証拠が不十分であることは確かだ。

さて、もし英語などの表記が偶然であるとしても、今日日本人自身による“J”の扱いはきわめて意識的かつ恣意的であることに違いはない。仮にそれを選択する理由や重要な真相について、日本人自らが無自覚であったとしても、ここまで検討してきたさまざまな事情、そして英語が事実上の世界言語になった経緯を踏まえると、特定の国名の「頭文字」や「省略記号」が世界に向けて発信するイメージについて、われわれは改めて意識を向けるだけの価値があるということが、少なくともできるであろう。

■ 濫用/過剰使用される聖文字“J”

おそらく一番古くまで溯れる“J”をイニシャルとする日本の国際的に通用する記号の代表格は、放送局のコールサインかもしれない。コールサインとは国際電気通信条約に基づいて発行されるもので、商業ラジオ放送とテレビ放送には頭二桁が“JO”で始まるものが充てられている。“J”はJAPANの“J”であるが、“O”は「明朗な音が放送の将来にふさわしい」との理由で充てられたという説明もある*。ここで注意すべきなのが、「コールサインの頭文字が当該国名の頭文字を充てるのは必ずしも当然ではない」ことである。現に放送業のパイオニアであった合州国内の放送局のコールサインのほとんどは、“K”や“W”から始まるものであるし、英国では“G”や“M”が充てられている(“G”は“Great Britain”の“G”か?)。また例えばインドは“AT〜AW”で、中国は“X”や“BAA〜BZZ”であって、まったく国名のイニシャルを反映していない。放送コールサインに国名を反映させることが必ずしも普遍的でないことがここからも諒解できよう。だが、日本の商業放送局のコールサインが“JO”であることは特筆すべきであろう。

参考サイト

コールサイン基本的情報

通信用語等の基礎知識

Call sign @ Wikipedia

現在、日本に関わるもの、日本発の諸事物に付けられている“J”から始まる名称や愛称というのは容易に把握し切れないほどである。“Japanese”ないし“Japan”と呼ぶ代わりにそれを大々的に「J-」に置き換えるのがトレンドでさえある。幾つかの有名な事例を挙げてみよう。

日本の国鉄分割民営化で作られたのは「JR: Japan Rail」である。日本専売公社は「JT: Japan Tabacco, Inc.」となった。その他に「JA: Japan Agricultural Cooperatives(農協)」、日本プロサッカーリーグが「J-League: Japan Professional Football League」。ちなみに、国際通用性はないだろうが、和製ポップスの愛称は「J-Pops」である。

その他にも企業名で日本発の会社や「日本を代表する」を標榜する大企業に“J”が付くものが実に多い。J:Com, J-Phone(旧), J-Wave, J Sports, JOMO, J-Cast, J-Debit, J-Naviなどと枚挙に暇がない。そしてそれらのほとんどが80年代後半ないし90年代初頭に出現しているものである。現に最初の“J○”は、1987年の国鉄分割民営化の時期頃に始まる。また、1989年から日本タバコ産業の愛称が「JT」と呼ばれるようになり、また「J-League」が正式名称に代わる愛称として採用すると発表された1991年頃を境に、“J○”表記のブームは日本国内で一気に開花する。

この3−4年の間でも日本発の企業、イベント、サービス名など諸々を「J○」で統一し、いわば“J Brand”として世界に認知してもらおうという申し合わせがあったような勢いがあるのも事実である。これらが依然として“J Brand”の世界的認知を実現したものではなく、あくまでも日本国内に限定された、やや独り善がり的な動きに留まるものとしても、最近の目立った動きとしては、昨年紹介された日本発の日本の伝統や工夫をアピールできるすぐれた発明や開発製品に贈られる名誉的称号が、「新日本様式: Japanesque Modern」という協議会によって作られたことは特筆に値するだろう。Japanesque Modernの認証記号は、ずばりJマークである。これは、優れた工業デザインの製品に与えられるグッドデザイン賞のGマークにも似たものであるが、世界に通用する優秀な「ジャパンブランド」を積極的に売り込んでいくことに焦点を合わせた、日本の行なう野心的、かつ極めて意識的なアクションである。

ところでイニシャルが国を表す記号として普遍的かどうかの結論を得るには、各国の事情を別途見ていかなければならない。ここでは全てを検証できないが、幾つかの例を見ることにする。

英国の国有鉄道は、BritRailという名称で親しまれている。これはBritish Railを縮めたものであることは明らかであるが、“BR”と省略号になることはない。フランス国有鉄道は、Societe Nationale des Chemins de fer Francaisなので、SNCFの略号で知られているが、“F-Rail”や“FR”などの省略号で呼ばれることはない。一方、ドイツの鉄道はDeutsche Bahnと呼ばれ“DB”と略されることがある。同じグループ組織のひとつである旅客用のDie Bahn (The Rail) の社名にもこの“DB”が冠される。ただし欧州の中ではDenmark/Danmarkなど“D”をイニシャルにする国が他にもある中で、“D”と聞いて反射的にドイツを連想するのは難しいだろう。特に英語圏においてはGermanyと呼称されることもあり、なおさらそれは難しいと言わなければなるまい。「ユーレイルパス」で有名なヨーロッパ鉄道は、“Eurail”と呼ばれているが、この正式名はThe Eurail Group G.I.E.である。これは“Eurail”と呼ばれることはあっても“E-Rail”などと略されることも“ER”という略号で親しまれていることもない。欧州言語圏においては同じような省略号が多く存在できてしまう以上、そうした略号に全面的に依存することが出来ないのである。

参考サイト

Die Bahn

Britrail

Eurail

この点については、“J”が特別でありうるのは、第一に日本国内においてそもそも英字アルファベットが母国語でないためにそれが特別に際立って見えるためでもあろうし、また、その記号が国外的に利用可能なのであれば、それは「偶然」にも“J”をイニシャルにする国が多くないためなのかもしれない。

日本が“Japan”と綴られる歴史的経緯について(参考文):日本はなぜジャパンか?

■ 順列の機能としての“J”

欧州文化において、全てのアルファベットに特定の数価があると考えられているのは知られたことである。特にヘブライ・アルファベットについては独特の数価が存在することはユダヤのカバラの伝統に並んで重要である。アルファベットに付けられた数価は、文字が単語として組み合わされた時には合計数価として、その単語の持つ性格や宿命を決定/判断するものとしても機能する。ここでは詳述しないが、こうしたヘブライ(ユダヤ)の数秘学は「ゲマトリア: Gematria」と呼ばれる。

また何番目のアルファベットであるのか、という順列が問題になることがある。例えば、「Fは6番目である*」とか「Gは7番目である」とか「Mは13番目である」などに、特別な意味合いを読み取ることができ、またそれをある種の隠された暗号として機能させることなどは、欧州文化圏ではありふれた慣習である。

* 小説家、故 Philip K. Dickは、自著作品の中でFrederick F. Fremontという政治家を登場させ、それに三つの“F”が「ぞろ目」で並ぶイニシャルに注意を喚起させている。すなわち“FFF”というイニシャルで“666”という数字のぞろ目を表現できるという考えである。

その意味から言えば、英字アルファベットにおいて“I”の次に位置づけられることになった“J”は、実に第10番の記号なのである。これはヘブライ・アルファベットで同じ音価を表すYodh (“Y”音)が同様に10番目の記号であり、またゲマトリアにおける記号の意味も「数価10」であることから考えてもたいへん興味深いことなのである。あたかもヘブライ語のアルファベットのYodhに数価を一致させるために、後年追加されたのが“J”だったのではないかと穿ちたくなるほどである。このために結果として“K”は、10番目の地位から押し上げられて第11番のアルファベットになってしまった。一方、英文においては“J”がY音(母音)ではなく子音の音価を持ったために、ヘブライ語のオリジナルの音から離れていったわけである。

いずれにしても、“J”が数価10を持つことは数秘学的にも無視できない重要性を持つ。例えば、「10」とはタローカードなどにおいて解釈されているように、「ひとつの世界」における「完成」や「成就」を意味する数字である。また、聖数は7であると考えられ、広く信じられている一方で、それでもモーゼが神託として受け取った「戒め」は、十項目からなる「十戒: Ten Commandments, Decalogue」なのである*。

数字「10」に特別な意味が賦与され得るのは、それぞれの手に5本ずつ、しかるに計10本の指を持つわれわれの身体的構造に起因すると先ずは言い得ようし、十進記数法の発生原因とも共有される事情があったと考えられるが、数字の桁がひとつ上がる劇的な節目になる数性10が「完成」や「成就」などの意味を持ち得るのは、その辺りに事情があるのであろう。

* ただし欧州地域や聖書世界など(インド=ヨーロッパ語文化圏)において、「7」に次いで重要な意味を賦与されたのが「12」であるのはよく知られている(十二使徒、ユダヤの十二部族[ヤコブの12人の息子]、欧州共同体の発足時の十二ヶ国、二十四長老、などなど)が、「12 = 1ダース」をひとつの単位とする記数法に並んで、「10」をひとつの単位とする記数法も古代から広く採用されてきた。事実、十進記数法は紀元前に溯る古代エジプトの時代から伝わるものである。それが人間の身体的構造を発端とするのはほぼ間違いないが、モーゼの受け取った神託が十項目からなるのは、合わせた手が「祈りの手」であり、すなわち合掌のポーズから手を解いたときに、それぞれの掌に5つの戒めが顕われるということを、石盤に刻まれた十戒が表したのであろう。

さらに、10の数価(「数性10」)が5の倍数であることで、今一度それが濃厚な「数性5」を暗示するものでもあることも思い出す必要があるだろう。それは数字5を二度繰り返す表記上の作法とほぼ同様の意味を持つ(10 = 5 + 5)。例えばその応用としては、15なら数字5を、18なら数字6を、21なら数字7を、それぞれ三度繰り返したものと分解することができる。そして「繰り返し」は、何よりも数性の強調方法の基本である。

「数性5」の最大の特徴とは、“伝統”数秘学批判──「公然と隠された数」と周回する数的祖型図像(“5”の時代〜「元型的木曜日」#1)でも言及している様に、その「近代性/現代性」など、新しい時代性にこそある。今回確認された様に、アルファベット“J”が若い記号であった如く、その数性自体にも「完成」以外に「現代性:若さ」の意味合いが濃厚に潜んでいることが同時に言えるのである。したがって、現代社会においてこのアルファベットが繰り返し強調して顕われることは、時代性の象徴を鑑みても矛盾しないのである。「メイシーズの陰謀」によるクリスマスの慣習が比較的新しいこととも矛盾しない。

JJJ image

■ 反復される“J”

秘教的な数性が、2度ないし3度繰り返されることでその意味を伝達するのは『“伝統”数秘学批判』でも繰り返し見てきたが、特定のアルファベットに数価が潜んでいるとすれば、その記号が繰り返されることにも秘教的なメッセージの存在の暗示がある。

それが“JJJ”と繰り返される表現パターンである。そうした例をここでは羅列するに留める。そこにある暗示は、「周回する数字」の考え方から言えば、10 ? 7 = 3 という数式から10が第二周の「3」に相当することが諒解できる(「公然と隠された数」と周回する数的祖型図像 [3] 序論(下): 数性と歴史の回帰の秘儀 http://blog.archivelago.com/index.php?itemid=141165 を参照)。また、上述の様に「分解され反復される数字」の考えに乗っ取れば、10は「5」に相当する。

だが、今回の数字10が「周回する数字」の第二周に相当すると考えなければならない理由がこの度は見当たらないこと、また数価10を得るに至った元々の記号が「反復される“J”」に求められることから、特定数の倍数としての10を想定する方がむしろ自然である。すなわち、“JJJ”と繰り返される記号は、“555”を表現していると考えるのがおそらく妥当なのだ。その種の反復的暗示を持った例を挙げていく。

1950年代に活躍したジャズ・トロンボーン奏者にJ.J. Johnsonがいる。トロンボーンという楽器自体がまさに“J”の記号自体の形状の様に、直線とヘアピンカーブする曲線から出来上がっていることとの暗合は大変興味深いが、そのJazzプレイヤーが自分のステージネームに“JJJ”と繰り返される表記を充てたのは、その時代的の反映を思えば実に秀逸としか言いようがない。

J.J. Johnson photoTrombone

また、主に1970年代に活躍したアヴァンガルド・ロック・グループのHenry Cowは、Virgin Recordsから発表した初期の3枚の連続するアルバムに、「靴下の図案」を充てた。それぞれのアルバムカラーは、白(淡いグレイ)・青(濃い群青色)・赤となっており、「平等・自由・博愛」のトリコロール*を意識したとも、錬金術の3つの段階、すなわち白化(アルベド)・黒化(ニグレド)・赤化(ルベド)を意識したとも言えるような、秘教への濃厚な精通を思わせるコンセプトを採用している。そして、それは三つ並べると極めて象徴的な“JJJ”の図像となる。

Henry Cow 1Henry Cow 2Henry Cow 3

* ロシア国旗のトリコロールの並べ方は、blue, white and redではなく、white, blue and redになっている。ロシアの現国旗は2月革命(ロシア民主革命)と10月革命(社会主義革命、別名「レッドオクトーバー」)の間の、僅か8か月間だけ存在した、ロシア共和国の国旗の復刻したもの。フランスの民主革命に触発された三色旗である。ところが、赤と青の原色の間に白が入らず直接接触している(「火」と「水」の接触)もので、伝統的紋章学によれば極めて不安定なデザイン。資本主義(水)を象徴する「青」が、社会主義(火)を象徴するの「赤」を上から押さえ込む形に読める。また件のバンドHenry Cowが社会主義者であったことは、よく知られている。

まさに20世紀とは、失敗したユダヤ人 (Jewish) の絶滅プログラムとそれに引き続き発生した英米 (blue, white and redの三色同盟)によって工作されたエルサレム (Jerusalem/Yerusalem) のユダヤ人への奪還、イスラエル(ヘブライ表記:Yisra’el)建国の成就、それを達成した戦争、また、“Japan”の対英米戦争、そしてその敗北と復興などなどの事件に彩られる“J” (5 vs 5) の時代であった。この辺りの話は、未完の“伝統”数秘学批判──「公然と隠された数」と周回する数的祖型図像(“5”の時代〜「元型的木曜日」)の方でも引き続き論じていくことになる。

■ “J”に引き続く“K”

順列を表象する特定のアルファベットの存在は、同時にそれを引き継ぐもの、あるいはそれを超克するものの存在を前提とする。歴史の流れからすると、“I”は“J”によって引き継がれ、また“J”は“K”によって克服される運命にあるという解釈が可能である。そしてそのように読まれることで、“J”が“J”である理由が明らかになる。そして“J”やその周辺記号に賦与された象徴は目的を遂げ、その表現は完成する。

やがて“J”を超克するかもしれない“K”は、英語圏において「黙字: silent letter」としても機能する。もともとゲルマン系の言語において発音された“K”(特にイニシャル)の幾つかは発音されない“K”として英語圏に輸入された。このように英語圏において「発音されない音」の文字が用意されたことは興味深い。それが人為でなかったとしても、後々にある単語の上に任意に頭文字“K”を「加える」ことを可能にするだろうし、そうした人為的綴りの操作の下意識レベルでの前準備なのではないかとさえ穿った見方を可能とするからである。象徴的記号としての“K”は、すでに幾つかの場面で歴史に登場している。

その最右翼はク・クラックス・クラン: Ku Klux Klan / KKKである。19世紀後半に結成された白人至上主義のこのグループが、「反復する“K”」を持つのは興味深いことである。幾つかの致命的なスキャンダルの後に、その政治的影響力は急速に衰退したが、合州国社会における貧富の格差の拡大など、今日的な社会現象を背景に、再び勢いを盛り返しているという観測もある。基本的には伝統的なfamily valueや女性の貞淑(男女不平等主義)などを強調するKKK団員の思想は、反近代主義と片付けることも可能だが、むしろ民主主義や自由主義、そして何よりも平等主義への反動と考えるのが適当であろう。

KKK with Stars and Stripes

キリスト教原理主義とも結びついたこの結社が、ユダヤの民族や伝統を低く看做す反ユダヤ主義者であることも知られた事実だが、そのキリスト教自体がそもそもその成立まで起源をさかのぼれば、そこにはユダヤ人とユダヤの伝統があることを考えれば、皮肉のひと言に尽きる。

参考サイト

クー・クラックス・クラン@Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/クー・クラックス・クラン

図版引用先

The Real Flag Of The Ku Klux Klan

Ku Klux Klanが「団旗」として最も頻繁に用いるものが、合州国の星条旗であることを告発するサイト。南北戦争時の南軍の用いた軍旗 (The Confederate Battle Flag)ではないとして、実際に星条旗を掲げているKKKの写真の数々を掲載している。

Katipunanは、19世紀のフィリピンでスペインからの独立を目指してアンドレス・ボニファシオらによって結成された秘密組織。カティプナンという名前はタガログ語の正式名称「カタアスタアサン、カガランガランガン、カティプナン・ナ・マガ・ナナク・ナ・バヤン」(母なる大地の息子たちと娘たちによるもっとも高貴にして敬愛されるべき会の意)の短縮形であるが、「KKK」というシンボルマークでも知られる。スペインの植民主義者がカトリック教会の代理としてフィリピンを直接支配していたことを考えれば、Jesus主義である宗主国からの独立を目指した秘密結社が、KKKというイニシャルを持っていたことは極めて興味深いのである。

カティプナン@Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/カティプナン

ちなみにKから始まる国名は現在7ヶ国。Kazakhstan, Kenya, Kiribati, Korea, Democratic People’s Republic, Korea, Republic of, Kuwait, Kyrgyzstanだという。

■ “J”に対する概念としての“M”

こうした特殊な記号として機能する文字には“J”の他に“M”がある。

屹立した男根としての“J”は、女性原理の象徴たる“M”を常にパートナーとする。イエス(Jesus) は、処女懐胎によってMaryから誕生し、後には性的関係を囁かれるマグダラのマリア (Mary Magdalena: MM)と浅からぬパートナーシップを築く。現代においては“公娼”マグダラのマリアは、20世紀のセックスシンボル、Marylin Monroe (MM)によって象徴され、そのゴシップの相手はJackとの愛称で親しまれたJohn F. Kennedy (JFK) であった。

50年代に始まるモダンジャズ(Modern Jazz)のブームは、Modern Jazz Quartet, MJQを産み出した。

ウィリアム・ギブスンの短編小説『記憶屋ジョニイ』 (Johnny Mnemonic) は、映画化され、それは“JM”というタイトル名で流通された。

JM DVD JM VHS

興味深いのは、国内販売されたDVDジャケットデザインと北米で販売されたビデオパッケージを見る限りでは、“JM”という省略形のタイトル使用がどうやら日本国内に限られたらしいことである。北米では“Johnny Mnemonic”というフルスペルになっている。日本における省略タイトルは映画タイトルを覚え易くしたのが唯一の理由ではないであろう。

一方、前出の新日本様式“Japanesque Modern”は、“JM”という省略号を採用している。

いずれにしても“M”については、本稿の網羅領域を越えるので別途詳述することもあるかもしれないとだけここでは断っておこう。

Jの陰謀 〜 新しいアルファベットを巡る仮説的表象論・完

Jの陰謀
〜 新しいアルファベットを巡る仮説的表象論 [4]

Thursday, March 1st, 2007

【特記事項】

以下の記述は、救世主としてのイエスの史実性(実在)を前提としたものとして読めるかもしれないが、筆者の立ち場は必ずしもそれを認めるものとは言えない。だが、テーマが異なるのでここでは詳述しない。それについては例えば「「異端派」思想の「あれ」を「これ」から区別せよ〜聖書関連ニュースとその余波」などを参照のこと。

筆者にとって聖書(特に新約聖書)に対する最大の関心事は、常に、その記述が歴史的事実を反映したものであったかどうかということにではなく、それらの圧倒的なまでの《象徴的な価値》である。もちろん、その物語が現在に見られるような形として編まれた歴史的経緯に対しては、一定の関心があると言って良いだろう。

Yellow Star (6-pointed star)

図版引用先:Hidden Children and the Holocaust

■ 20世紀最大の犠牲者“J”

20世紀になって欧州を民族殲滅の狂乱の嵐が巻き起こった。第二次欧州戦争におけるナチスドイツによる組織的な「民族浄化」政策である。それによってまさに「燔祭(Holocaust)の羊」となったのは外ならぬユダヤ人 Jewish であった。ユダヤ人虐殺という一民族の完全な殲滅を目指す運動には、単に政治的な目的の完遂ということだけでは説明できない、ある種象徴的な意味合いがあることに気付いている者は意外に多い。むしろ、その象徴運動の完成のために一般民衆の感情や戦争を含む政治自体が利用されたとも言えるのである。だがオカルト的な地下水脈の存在を一般民衆が自らの問題として容易に理解できるわけではないために、運動の完成のためには「社会の寄生虫」といった単純で解り易いイメージを必要としたのである。そうしたイメージはプロパガンダの中に見出すことができる。

さて殺害されたユダヤ人の正確な人口については諸説あるが、第二次欧州戦争を通して、最大の被害者の一群となったことにおそらく疑いはない。そして殺害を免れた人々でも、なんらかの明白な迫害や差別の扱いを受けた事実に変わりはない。殺戮の具体的規模については、その真相が如何なるものであるにせよ、重要なのはその「事件」が世界に報道され、ユダヤ民族の確たる存在とその者たちの上に降り掛かった受難は語り継がれ、決定的に「歴史化」された(「取るに足らない歴史修正主義」との汚名を着せられた研究者による若干の反論は居るものの)

いずれにしても、第二次世界大戦の「意味」のひとつとして、ある特定民族の受難の再現もしくはその「国際社会」における認知と固定化があったことは、特記すべき筆頭に挙げられるであろう。

20世紀においては、ユダヤ人迫害に実際の手を下したのがナチス・ドイツの政権およびその政権を支持した人々であったのだが、ユダヤ人に付けられた最初のネガ・イメージの雛形は、今や世界教となったキリスト教の原典「新約聖書」の中に求められる。外ならぬ新約聖書の英雄イエス・キリストを磔刑の憂き目に遭わす間接的な加害者(殺害の動機を持つ者)として、そして新興教団(同胞団)の仮借なき批判の的であり、彼らの論敵として「ユダヤ人(律法家)」が登場し、保守勢力側の重要な役割を演じる――イエスという「善玉」に対する、言わば「悪玉」として。実際にイエスに死刑の審判を下すのも、刑を執行するのもローマ人であるが、イエスをユダヤの律法では極刑にできない反動のユダヤ人たちが、その極刑をローマの司法機関に求めたと解釈できる以上、イエスの死に関しては、ローマ人もユダヤ人もほぼ共犯関係にあると言うべきであろう。

したがって、「イエスの磔刑にユダヤ人は関係なく、実はローマ(イタリア)人に責任があった」という言い方は、ユダヤ人を弁護する人間の口から聞かれることがあるが、聖書の記述に歴史的根拠を求める限り、それはどう控え目に見ても公平とは言い難い。聖書の記述を歴史的事実として信じるならば、当時を生きたユダヤ人にイエスの死の責任があることも同時に受け入れざるを得ないだろう。イエスの物語自体を虚構とする捉え方以外に、そのことを否定することは出来ないのだ。

さて、「人の子」イエスが世界宗教の担い手になったのは結果として否定しようがないのであるが、そもそもの発端はイエスらを中心とするユダヤ教/ユダヤ文化/被抑圧ユダヤ人社会の改革運動であり、またユダヤの民の民族自決(ローマからの独立)を目指す政治運動の側面もあったはずで、あくまでもユダヤ出身の《ユダヤ人イエス》によるユダヤ人コミュニティ内の内輪もめの性格を持つ一例に過ぎなかった。また、イエスの敵としてユダヤ人がある、あるいはユダヤの敵としてイエスがある、という言い方がやや滑稽なのは、イエス自身が紛れもないユダヤ人に外ならなかった《隠されざる前提》が、当然のように度外視されているためでもある。このことを無視してはキリスト者とユダヤ人の歴史的反目という関係自体が成り立たないのである。

一方、当初十二使徒の一人であったユダ Judas が“裏切り者”であるとされた決定的なネガ・イメージは、現正統派の原典たる新約聖書において「四大福音書」として選択されているテキスト中に記述されている重要エピソード、すなわちユダが主イエスをローマの官憲に売り渡すという裏切り行為が根拠となっている。そして、それがユダヤ Judah, Judea人のキリストに対する「裏切り」のイメージを強化しているということは多くの人々によって指摘されているのであるが、それは正しくもあり、また正しくない。少なくとも、ここには意図されたのではないかと勘ぐりたくもなるある種の「混乱」があるのをわれわれは認めても良いだろう。

この混乱を単なる「混乱」として片付けられないのは、事実、語源的には元十二使徒のユダの“Judas”とユダヤ/ユダ国の“Judah/Judea”は同じであるためだ。このことは記号論的にはきわめて衝撃的かつ重要である。ところがこうした捉え方は、英語圏においても決して一般的であるとは言えない。これはおそらくイニシャルが同じ“J”であっても、英語表記にはそれぞれ異なる綴りが与えられているためであろう。だが、控え目に言っても語源が同じである事実においては、このふたつの名が象徴的には共通の何かを指し示すものであると言うことはできる。

ユダヤ人に対するネガ・イメージの根拠は、ユダの裏切りのエピソードにあるのではなく、ユダヤ人がキリスト殺害の動機を持っていたに違いないという新約聖書からも無理なく読み取れる理由のためだ。このことをわれわれは改めて認識すべきである。ばかげたことであるが、ユダがユダヤ人であったということを言い出せば、新約聖書の登場人物のほとんどが、ユダヤ人なのである。ユダヤ民族の伝統法が前提となっているからこそ、マグダラのマリアが安息日に客を取った(仕事をした)ことを責めるエピソードが成り立ちうるのである(マグダラのマリアもユダヤの律法を守るべきユダヤ人だったから)。イエス本人にしてもその例外ではなく、このドラマ自体がユダヤ民族おける内輪のできごとを扱ったものだから当然なのである。

「裏切り」を言うなら、最初に裏切ったのはイエスの側であるという視点も存在する。彼はユダヤの律法を相対化することで最初にユダヤの伝統法に対して背信した。そして新しく、よりユニバーサルな改正律法を打ち立てようとした。そしてそのためにこそ、後にキリスト教が世界的な普遍宗教として羽ばたくのである。そしてそれを阻止するためにはユダヤ人律法家たちはイエスの排除(殺害)さえもオプションとして視野に入れざるを得なかったはずである。

しかし、ここまで確認をした上で、われわれはJudasとJudah/Judeaが語源をひとつにするということの象徴的な意味についていよいよ迫ることができるのだ。

キリスト教は、その成立の起源から言っても、ユダヤ教 Judaism とは切っても切り離せないが、キリスト教を今日知られるような規模の普遍宗教として発展させるためには、最古の教典のひとつを独占するユダヤ民族の経典の大半を簒奪、もしくは「相続」することなしにはそれをなし得なかった。また、ユダヤ民族にしても、己がそのアイデンティティを堅固に保持したまま生き残るためには、世界宗教としてのキリスト教を引き立たせる「アンチテーゼ」として、キリスト教文明に付かず離れずの距離を保ちながら生き延びるしかなかった*。そして彼らはとりわけ白人社会において独特の畏怖と崇敬を同時に受け続ける不動の地位を確保した。当然、キリスト教社会が危機に陥った時、繰り返し現れる反ユダヤ主義 (anti-semitism) によって迫害の的になるというリスクと背中合わせではあるが、彼らの繁栄もキリスト教社会の成功に支えられて来た面がある――きわめて逆説的ではあるが。言い換えれば、キリスト教文明の危機が訪れれば、ユダヤ民族も危機に陥る可能性がある。

* もうひとつ忘れてはならないのは、ある民族を「保存」するためには、徹底してその民族を差別して叩くことである、という言い方ができる。何故なら、差別され弾圧される理由が、その民族のアイデンティティにあるということをその民族は強く意識せざるを得ず、周囲の「異民族」と同じ人間であるという意識を幾ら持っていても、その意識は現実の差別待遇によって常に打ち砕かれる。そこで起こることは、その民族的アイデンティティを捨て去ることではなく、むしろそれを誇りとして堅持する方向へと働く。そして降り掛かる受難さえも自分たちが選民であることの意識を強化する。つまり、ユダヤ人であるという意識は、ユダヤ人本人たちによってよりは、むしろその周囲の人間の差別意識によって創作され強固にされたと言うべきである。

ある民族を本当に地上から消滅させる最も手っ取り早い方法は、その民族を異民族として考えず、徹底して自分の民族と同じ待遇をすることである。差別の完全な滅却により被差別民そのものの存在理由(レゾンデートル)も自己同一性(アイデンティティ)も曖昧になりやがて無くなるのである。事実、そのような在り方によって幾つもの民族は他民族社会へと同化し消滅しているのである。失われた民族たる彼らは卑怯なのではなく、名前やアイデンティティよりも、生存すること (Quality of Life) を選んだのである。

キリスト教はその教義の普遍性を強調するために旧弊な伝統を保持するユダヤ人やその律法主義を引き合いにする以外になかった。事実、新約聖書自体が他者を否定することによって存在理由を勝ち得ている面があり、またそのように編まれていることは否定のしようがない。つまりキリスト教は本性的に敵を必要とした。それは、自らを死によって犠牲化し(殉教し)、聖別し、絶対化するために、裏切り者(ユダ: Judas)を必要としたことがひとつである。英雄は自殺によっては聖化されない。他者による殺害によってしか聖別されないのである。また彼らの、宗教としての成功と繁栄は、被抑圧者としての「ユダ」、そして何よりも「ユダヤ」 (Judah/Jew/Jewish/Jude) を必要としたのだ。

一方、神への供物として選ばれたユダヤ人は、現代人の記憶に残る史上最大級の《燔祭: Holocaust》を自己犠牲を中心に劇的に演出することを通じて、誰によっても絶対に取り上げられることのない免罪符を得た。すなわち予言され続けた「イスラエル建国」の口実を得たのだった。そして「地上のエルサレム」は、キリスト教を言わば「国教」とする「帝国」内のシオニストによって大いに守護され、打ち立てられたのであった。

ある種の供儀物/犠牲を必要とする点において、キリスト教にとってユダ(Judas)とユダヤ(Judah/Jew)には共通する何かがある。そしてそれは頭文字“J”を持つ類似名を保持しているのである。

■ 神の名としての“J”:Jah/Yah

以上の様になり得た理由のひとつには、単にヘブライ語の男性名がIa, Io, Ie[英字による便宜表記]などの音から始まるものが多いためという説明が当然成り立つのであるが、それでは何故そのような音から始まることになっているのか。それについてはあまり広くは説明されていない。だがこの事実はこれら男子名の接頭語が「神」を意味するYahweh(英語化されたYHWH/YHVH, ドイツ語化されたJHWH)の名前の一部“Yah”を共有するため、という事情まで溯ることができるのである*。その点に言及することによってこそ、初めて聖書の登場人物の名前に強迫的に繰り返されるかつての(ヘブライ語の)“Y/I”、転じて、のちの“J”のイニシャルの多くが説明できるのである。

その音は、例えば卑近なところでは神を称える常套句であるHallelujah**(「ハレルヤー」)の最後の「ヤー」の音にも見出されるもので、「讃えよ、神を」の「神」に相当する。名前の一部が「神: J/Y」であるという例は、すでに見てきたようにこれほど多く見出されるのであるが、たとえば旧約の「エレミア書」のエレミア/イェレミア(Jeremiah, Jeremy)もその一例である。ヘブライ語のYirmeyahuに語源があり、その意味は「May Jehovah exalt」(神が称賛せんことを!)である。新約に登場する幾人もヨハネたちは、ギリシア語の「Iohannes」が転じてJohannes, Johanne, Johnなどになっているが、語源的にはミシュナー・ヘブライ語の「ヨハナーン: Yohanan」から来ているもので、その意味は「神は慈悲深い」である。ユダは、ヘブライ語が「Judas」ならびに「Judah」に転じたものだが、そのヘブライ語の意味は「The praised one / The one praised (by God) 」「(神によって)讃えられし者」である(これはこの名の付いた者の辿った運命を考えると実に興味深い)。ヨセフ/ヨゼフは、ヘブライ語の「Yosef」、アラム語の「Yosep」から転じたものであり、その意味は「The Lord will increase/add」(神は殖し給う)である。***

つまり、多くの欧州言語において強迫的に繰り返される男子名のイニシャル“J”には、否定しようのない聖なる意味、神との関連があったのである。

* http://en.wikipedia.org/wiki/Yahweh#J.2FY

http://www.pickbabynames.com/_alphabeth/J.html

** “Halleluyah”や“Alleluia”などのスペル違いがある。“jah”, “yah”, “ia(h)”などのバリエーションがあるのものの、「ハレルヤー」に限って言えば、英語圏でもスペルが「jah」でありながら「yah」音で発音される。これはJ音を“juice”の音で発音する英語圏でありながら例外的と言うべきである。

*** このあたりのアルファベット表記には理想的には長母音を表す特殊記号などが用いられるべきなのであるが、ネットにおけるコーディング技術上の理由でそれらは通常アルファベットに変換してある。

Jの陰謀
〜 新しいアルファベットを巡る仮説的表象論 [3]

Tuesday, February 27th, 2007

Candy Cane (pl.)Candy cane (Choco)

図版引用先:CELADON CUPCAKE

■ クリスマス装飾の象徴性

クリスマスに欠かせない装飾の中にはこれまでに見て来たようにリース wreath やクリスマスツリーなどには、色や形、そして構成要素やその数といったものの中に、記憶に残る特徴として無視すべきでないエッセンスがある。あるいはツリーに付随するものとしては、その頂点に掲げられる輝ける星、そして吊り下げられるさまざまな光輝を発する球体(花火の弾のようでもある)というものがある。中でも伝統的にクリスマスに付き物の象徴的アイテムのひとつとしてJ字型のキャンディー・ケイン candy cane(杖型キャンディ)のことを忘れるわけにはいかない。それはクリスマスケーキに付けられることもあれば、リースに絡められることもあり、またツリーに下げられることも多々ある。ポストカードのようなものには単独でキャンディーと思われるデザインがあしらわれることもある。このシンボルはクリスマス期間中、商業主義によっても広く採用され、またはそれに積極的に便乗し、ほとんどあらゆる場所と言って良いほどさまざまな場に現れるものである。

Christmas tree and candy canesWreath with candy canes

図版引用先:

Children’s Cross Stitch Winney the Pooh

NorthlandSent Wreath Company

クリスマスツリーがそもそも何を表すものなのかという基本に戻れば様々なことが憶測できるが、ひとつの重要な解釈には「世界樹」としてのクリスマスツリーと、その枝に撓わに実る《収穫物》という考えがある。クリスマスツリーが世界の中心を表す世界軸(axis mundi)であり、それが一年という季節の周回の閉じる時、すなわち冬至の祭りの時期に登場するということ、そしてその木に稔るさまざまなオブジェは、その垂直に屹立した男性原理としての神的/父権的「リンガ」が子としての人類へさまざまな「実り」をもたらしたことに由来する。

Christmas tree items

図版引用先:Button & Needlework Boutique

クリスマスの時期にプレゼント交換をするという現代の世俗的な慣習も、その文脈で捉え直せば、まったく意味がないこととばかりとは言い切れない。つまりわれわれにとってクリスマスのプレゼントが「メイシーズ*の陰謀」のためだという説明だけで満足できる話ではなく、むしろ商業キャンペーンが始められた時代よりずっと旧い伝統を持つ贈り物の慣習に、商業主義が便乗してグローバル化したものと言うべきであろう。現に、アメリカの百貨店の影響下になかった旧ソ連においても──すなわち一見、脱宗教化されていた時期のソ連においても──この冬の時期にこうした贈り物の交換が行なわれていたことは事実でなのである。これは近年のクリスマスの祝祭的お祭り騒ぎが商業主義のせいだけでは説明できないことを証している。

* Macy’s: アメリカ合州国の有名百貨店。

さて、そのクリスマスツリーの枝に「実っている」さまざまな象徴物のひとつが、J字型のオブジェであることを、われわれはここで改めて捉え直すことができる。それは装飾品がある種の「供儀物」であるという捉え方である。われわれはこうして聖書における様々な鍵を担う登場人物達(特に男性)の名前のイニシャルが英語において、ステッキ状のJに置き換えられていることの意味(理由)に近づくことができるはずである。

Stocking near mantle pieceThree stockings

図版引用先:

Elegant Stitch

“Christmas clangers” @IntakeHigh

もうひとつ思い出されるヒントは、クリスマスイブの夜に子供達がサンタクロースからの贈り物を期待して用意するあの象徴物である。それはしばしば暖炉の近くの壁(マントルピース)に取り付けられ、この中には翌朝、食べきれないほどのキャンディー、あるいはクリスマス・プレゼントなどが詰められているであろう。これはクリスマス・ソックス Christmas Stocking である。この袋状のものに詰められる豊穣の収穫物という範型は、コニュコピア*という豊穣のホラ貝の象徴物と明らかに類型のものである。こうした角笛状の貝には当然のことながら男性原理(陽物)的な暗示があるが、そもそも住居の煙突とは家庭というもうひとつのミクロコスモスにおける世界軸であり、男性原理の象徴としても存在する。そこでクリスマス・イブの夜に子供達に与えられる贈り物の習慣を思い出せば、この靴下が象徴的な煙突の足もとに溢れ出しこぼれ落ちる「供儀物」の分配の一種と捉えることができる。

そして、多義的に解釈可能だが、その靴下がわれわれに注意を向けるよう指し示すものは、容れ物の形状である。それは《J字型の容れ物》であり、キャンディー・ケインと同様に、靴下や飴という物品の持つ機能的属性よりも、その形状的属性こそに表徴的本質があるのである。

Cornucopia

図版引用先:Gary Elliott @FOUNTAINHEAD, College of Technology

記号でありながら、それ自体が具体的な物品であることから、それが比喩であることが了解しにくい。それが、何かを指し示すものであり、指し示される対象が別に存在することが一見すると分からないのである。

記号としての共通点は、“J”で表されるものがクリスマスツリーにしてもソックスの中の菓子にしても「味わわれるもの」であること、そしてそれこそが神への供儀物であり、子供達に与えられる供儀物の分け前なのであることをわれわれは再び思い出すであろう。

* Cornucopia: “Harvest Cone”とも“Horn of Plenty”とも呼ばれる。ギリシア神話における逸話より。山羊の乳で育ててくれたことへの返礼として、ゼウス Zeus が乳母(育ての親)アマルテア Amalthea に山羊の角を贈ったと言われるところから。溢れ出る収穫物が特徴である。

■ 祖型的「自己犠牲」の象徴としての“J”

われわれがもはや記憶から消し去ることのできないほど深いトラウマとして、そして最も広く知られた“J”の象徴の王様は、イエス・キリスト Jesus Christ である。もともとがヘブライ名であったその名前の表記が最初から“J”とされたわけではないことはすでに知られたことである*が、それがやがて欧州のほとんどの地域で“J”をイニシャルに持つ表記となり、ついには固定化された。

これは先述したようにある意味異常とも言いうる事態であるが、それが定着した後なら、「人の子・イエスの誕生日」ということに通例なっているクリスマスの期間の象徴に、“J”形状の記号がかくも多く見出されることは、ある程度は自然であるとも言える。したがって、通説にもあるように「キャンディー・ケインの形状は、Jesus Christの“J”である」と言えるわけである。そしてまた、その救世主イエスを表象する道具である「羊飼いの杖」の形状でもある、とも言えるのである。こうした説明は一般的にすでに受け入れられているか、あるいは改めて説明されれば多くのクリスチャンが抵抗なく「なるほど」と納得できる俗説であるとここではしておこう。

Candy cane as Jesus

図版引用先:The History of the Candy Cane

だが「杖」と救世主のつながりは、イエスの生涯を描いた子供向けの「聖書物語」の挿絵やクリスマスカードにおいて示されている図版の存在という事実にあるのではなく、むしろ「先端の曲がった杖 cane」が、自己犠牲を通しての救済を象徴してきたことにある。「先端の曲がった杖 cane」が、《ペリカン図像》にも見られるようなある象徴機能の範型を共有していることにこそ、より重要なつながりが見出されるのだ。

Alchemy pelican B&WPelican as retort

画像引用先:

Birds in Alchemy @ CRYSTALINKS

Distillation Equipment @ CRUCIBLE CATALOG

錬金術図画にも登場するペリカン図像は、キリスト教の伝統の中でも採用されており、自らの血を購いの血として胸から地上に放出するキリストの象徴である「神の子羊 Agnus Dei, Lamb of God」と同様に、自らの血を子に与える親ペリカンの像として現れるものである。その形状的特徴は図版からも分かるように、「長い首を内側に曲げ、嘴(くちばし)を自らの胸に突き立てる」構図なのであり、その形状のエッセンスを抽出すると、「曲げられた長い棒」ということになる。

つまり杖は、当時三十代前半の若さであったと憶測されるイエスが使用するものとして最も相応しいものであると考えるよりは、「曲げられた長い棒」が、「我が身に嘴を突き立てる」自己犠牲的行為を通しての救済を意味する記号として機能することにある。

ペリカン図像が錬金術の象徴体系等に見られる様な多層的な意味を持つことについてはここでは深入りしない。秘教的象徴を保持する図像群の中で、とりわけ「購いの血を流すペリカン」が、「Jの祖型」のグループに属しており、そのヴァリアントがペイズリーのパターン paisley motif* の中に見出されるようになることだけをここでは断っておこう。

Peclian heraldry in blueAgnus Dei

[ここにペイズリーの画像を持ってくる]

図版引用先:

The Pelican (by Wor. H. Meij) @ Let there be light! (Welcome to the place for Masonic knowledge!)

Agnus Dei @ Wikipedia

* スコットランドのペイズリーで量産されポピュラーになった装飾紋様であったためにこのように呼ばれるようになったようだが、そのオリジンはどうやらインド(カシミア/カシミール)に求められるようである。

Secret Gardens: “Paisley” Motifs From Kashmir to Europe @ Museum of Fine Arts, Boston(http://www.mfa.org/exhibitions/sub.asp?key=15&subkey=617)

Paisley pattern stretches across millennia @ Hindu Widsom(http://www.hinduwisdom.info/Hindu_Culture2.htm)

だがより深い問題は次節で観ていくように、救世主イエスばかりでなく、“裏切り者”**ユダ Judas、洗礼者ヨハネ、福音書家/十二使徒ヨハネ John、そしてヤコブ Jacob やヨゼフ Joseph など、聖書世界のメジャープレイヤーの多くが、同じく“J”の記号を以てその世界を絢爛に飾っているという真の理由の方である。そして(ヨゼフを除いては)その登場人物の幾人かが、《殉教》によってその生涯を終えていることにわれわれは注意を喚起すべきである(洗礼者ヨハネ、使徒ヨハネ、使徒ユダ、使徒ヤコブ)。殉教とは自らが燔祭の羊となることであり、神への供儀物となることである。真偽の評価はともかくとして、それが「救済」へと結びつくと信じられたのである。

* What’s in a name? (By Brian Felland)

ヘブライ語のスペルから考えれば、”Yahuah”か”Yahshuah”であるべき「人の子・イエス」のスペルが、どのような事情で“Jesusとなり得たのかの経緯について言及している。

** 飽くまでも現正統派が編纂し、今日「原典」として知られている新約聖書による解釈。もはやユダが裏切り者であったかどうかについては疑問の余地があるためだが、ここでは深入りしない。

Jの陰謀
〜 新しいアルファベットを巡る仮説的表象論 [2]

Friday, February 16th, 2007

■ 「J祖型」──ひとつの仮説

だが“I”が果たし得なかった名状し難いある役割を補完するものだというのが、ここでわれわれが「Jの祖型」ないし「J祖型」と呼んでも不当ではないアルファベット“J”の機能なのである。一見すると、代用なしでも表記可能だったある特定の「音」に対し、それに相当するアルファベットを当てずに、その変容した形のアルファベットを充て、そればかりかその新しいアルファベットのために多くの単語の「音」自体の変容が生じた。そこには歴史的なある種の秘密が隠される余地がある。つまり、その特異な使用法によってある種の人名などのスペルは「区別」され「聖化」された、というのがわれわれの憶測である。

さて“J”に関しても以上のような事情から了承できることが幾つもある。それは、“J”という文字に担わされているのが、単に音を伝達するという役割以外の、極めて象徴的に重要な、ある種の目印として、この世界で機能している、ということ。そして、この推量には注意を向けるだけの価値がある。ここからが話の核心である。

■ 聖書における“J”

日本語で「ヤ行」を表す音を表記するアルファベットには“Y”や“I”が存在するが、何故か英語圏を始めとして多くの欧州圏では“J”に変換された。したがって英語のスペルにおいては、イェホヴァ(ジェホヴァ)、イエス(ジーザス)、ユダ(ジューダス)、ヤコブ(ジャコブ/ジェイコブ/ジェームス)、ヨハネ(ジョン)、ヨセフ(ジョゼフ)、ヨナタン(ジョナサン)、ヨブ(ジョブ)、ヨナ(ジョナ)、イェレミア(ジェレミア)、ユダヤ(ジュウ/ジュデア)、などなど、聖書において鍵となる重要人物(男性)や地名の多くのイニシャルに、英語圏を始めとして多くの欧州言語において“J”が当てられており、その例は枚挙に暇がない*。その現れ方はほとんど異常ではないかと言うべき頻度である。重要なことは、頻度だけではなく、これらはラテン語やギリシア語では“I”が当てられていたはずが、かつて同じ母音を表していた“J”に(一見して確たる理由なしに)置き換えられ、やがてそれに与えられた子音表記としての役割のため、英語やスペイン語においては別の音で発音されるに至るのである。

このことは言語発展の理論上も異常なことと思える。つまり単語のなかのある種の音が、伝播される過程で風化し失われていく(ディミニッシュする**)ということは、よくあることだが、例えば「イ」という子音から「ジ」という音に変化するというのは、ほとんど「オーギュメンテーション」(拡張)とすら呼ぶべき現象とも言うべきである。音的には人工的に付加されないと「i」(「イ」音)は「ji」(「ジ」音)になりえない。同様に「iu」(「ユ」音)は、「ju」(「ジュ」音)になりえない。意外にもこれは「拡張」だが、実際にそのような事態が生じたのである。

* 聖書時代から知られる土地の名前の中にはイニシャルにヨルダン、イェルサレムなどが「J」を持っており、またイスラエルには「I」がある。これらをすべて偶然と考えるのかどうかはわれわれ次第である。

** 実際に存在していた音がなくなるという言語発展上の範形は、例えばひとつの言語から別の言語に伝達される時にも起きる。ドイツ語でKnecht(クネヒト)は、英語ではknight(ナイト)という単語として伝わっているが、英語の場合、最初の「K」音は黙字となっていて発音しないこととなっている。だが、時代的に後から出てきた英語単語において(聖書に出てくる人物名が)、それに先立って存在する参照先としての聖書原点よりも音が「複雑になる」ということは、何らかの人為が働かない限り説明がつかないのである。

また、現在英語において“J”で表記されることになったあるヘブライ語やギリシア語の音を“Y”のまま、あるいは“I”のまま伝わったとしたら何が起こったであろう。「音を正しく伝達する」狙いは叶ったであろうが、それが特殊な意味を持ったものと捉えることは難しかったかもしれない。なぜならそれは頻発して使用される母音の記号に過ぎないからだ。それら特殊な意味を持ったコード名を敢えて新手の“J”にすべて相続させることで、語彙の少ない“J”から始まる単語リストに“J”で始まる単語(人名)の一揃いのリストが加わった。これはそれらの単語に特殊性を与え、「目立たせる」のに十分な方策である。これが聖書が翻訳される時点で生じた、比較的新しい表記上の出来事であることは確かで、それをわれわれは皮肉まじりに「Jの陰謀」と呼ぶのである。

ここで起こったことは「音を正しく伝える」ということではなく、年齢的にも歴史的に「若い記号」を使って、特定の名称に「目印を付ける」ということと考えられる。使用頻度の低い記号を、逆に特定種のジャンルにおいてこのように過剰に繰り返えすことによって、特定のニュアンスを保持し始める。

このように観ていくことで、「現代の聖書」や「特定の国名」などが、ある一定の目印として機能しており、われわれに何らかのメッセージを伝えようとしている実体を検討できる。こうして何に注目させようとしているのかという問題にようやくわれわれは移っていくことができるのである。

Jの陰謀
〜 新しいアルファベットを巡る仮説的表象論 [1]

Thursday, February 15th, 2007

■ 綴り全般の話

アルファベット記号の“J”の歴史は比較的新しい。そもそも“J”の機能の大半はラテン語の“I”がその役割を果たしていたし、その母音を表記するのに機能上不足はなかった。その意味において、“J”は自体の形やアルファベット中に於ける配置からも憶測できるように、“I”の成長・発展した形なのであり、ある種の「利便」に供するために遅ればせに登場したということがまず言えそうである。

Image of J

実際、ある語源事典*によれば、“j”は欧州大陸の中世期ラテン語の筆記体における小文字の“i”を他の字と区別するためのもので、「筆写上の発明だった」と説明している。つまり紛らわしい筆記体を「少しでも視認しやすくする」ための手書き文字のための便宜で、“i”と全く同じ機能を持たされた記号だったことになる。さらに“j”は筆記体において単語の(最初でなく)最後に来る“i”の代用として特に使われ始めたのだということである。これは今のわれわれにとってにわかには想像し難いことだが、どうも本当のことらしい。

* ONLINE ETYMOLOGY DICTIONARY (by Douglas Harper)

ところが、英語においては最後に来る“i”音の表記には“y”が使われることになったので、17世紀に“j”がある種の子音を表す記号として使われるようになるまでは存在しなかったし、辞書においても19世紀まで“i”と“j”は同じ項目に纏められていたのである(やはり“J”の歴史は新しいのである)。これについてはわれわれが時として使う和英辞典でもそのように“i”と“j”が同じ項目に纏められているケースが見出されることからも了解可能だ。だが、本来母音を表すための記号だった“y”と“j”の両方に母音ではなくて「子音を表す記号」であるとの混乱の付け入る余地があったとも言いうる。

一般論としてもアルファベットの各記号は単独使用でもだいたい二つ以上の音価を背負わされている(特に英語に関しては顕著である)。そして文脈というべきか、その並べられ方のパターンによって、どのような音を持つのかが経験的に憶測されるという風に出来上がっている。また同じ記号から成るラテン・アルファベットを広く共有する欧州各国の中でも、各アルファベットが担っている音というのは、おおむね似たものが多いが、必ずしも正確に一致するわけではない。

例えば、現代の英語のアルファベットにおいて「G」というアルファベット一つとっても、それが日本語で言うところの「ガ行」を表すのか「ジ/ジー」の音を表すのかは文脈によって違う。後者の音は“J”で表記することも可能だ。また言語によって「G」は日本語の「ハ行」から「ガ行」までその読み方も幅広い(逆に、「H」が「ガ行」の読みをする言語文化圏もある)。ただし、その記号によって「表される音」が異なっても、ある綴りを持った単語が特定固有の《意味》を持つ言葉であるということを視覚的に伝達することに役立つ場面があり、国や民族によって発音が違っても伝達される意味はおおむね同じ、というようなことが起こりうる。そのケースにおいては、「初めに音ありき」ではなくて「初めに綴りありき」と考えるよりほかない言語の別側面が世界各所に観察される訳である。そこから憶測すれば、(特定の人々によって)受け入れられている語のいくつかが、その言語圏においては「音」に先立って存在したという証拠にもなる。言い換えれば、単語の意味の伝播は必ずしも口で話される「音」によるだけでなく、「すでに綴られた文字」によっても大いに伝播されているということが言える。

表記発端の真相としては、音が綴りを決めるというのが合理的な説明である筈だが、歴史的なある時点において一旦綴りが決定されるや、スペルが「音」に先行することが起こり始める。それに加え、一方アルファベットがそれぞれの民族によって担わされている慣習としての「音」が異なるために、その単語が別の国にやってきた時には当然のこととして「別の音」で発音されることになる。先行したスペルのために、単語の綴りが「音」とは別に単独で影響力を持つのである。(これは親言語としてのラテン語の綴りがよその国に伝播した後もスペルの一部が温存されたことにも見られる。そして綴りは維持されても各国によって発音が違うということが生じる。)

■ 歴史的に若い記号“J”

前出の語源辞典によれば「特殊な子音」を表す“J”の記号の使用法の一例がスペイン語に見出される。そこまで遡れば1600年代前の時点ですでに観察されることになる。だが、われわれが注目しなければならないのは、まず第一にスペイン語の“J”は、英語で表記されたときの“J”とは全く異なる音を筆記するための記号だということである。しかも、どちらかと言えばスペイン語の“J”音は、日本語のハ行、具体的には「フ」や「ホ」の音、ないしロシア語やドイツ語の“kh”や“ch”の音に近い(Julioを「フリオ」、Jorgeを「ホルヘ」と発音するのを始めとして)のである。

その点から言えば、例えばヘブライ民族の多くの男性名のように“I”の母音から始まる語が周辺国のひとつであるスペインに到達した際に、敢えて“J”で表記しなければならない必然性があったようには見えない。だがそれにも関わらず、スペイン語では“J”を当て、しかもその上でスペイン語独特の発音をするのである。もしスペインにヘブライ語の人名が伝わった時点で、ヘブライ語の発音とは無関係に正しいスペルだけが伝わったというのならそれはそれで理解可能だ。だがそれが伝わったかどうかはともかくとして、その音に対してやがて“J”が当てられた。これは不可思議としか言いようがない。音が伝播したのであれば、それに近い音を持つスペルが当てられるべきだし、スペルが伝播したのであれば、音は違ってもスペルだけは正しく伝えられるべきだ。そのどちらでもないことにある種の不合理を覚えざるを得ないのだ。

そのような独特の「音」を表す記号“J”が、なぜスペイン語圏においても英語圏においても使用されるに至ったのかは、合理的に納得することが難しい。英語ならば同様の音を表す記号は、すでに“Y”で可能だった。“J”は“G”と同じ音を表すことになるにも関わらず、“J”がその音に充てられた。スペイン語でもその母音は“Y”で表記可能だったはずである。それをなぜ全く別の子音を表す“J”で代用しなければならなかったのか疑問が残るのである。

いずれにしても、わずか400年の間に“J”は登場し、現在の特異な役割が定着したのである。

(続く)