Archive for the ‘エリアーデ’ Category

K・キェシロフスキ作品:
三部作 トリコロール《Blanc》論

Wednesday, August 18th, 2010

終末論的・超歴史的・救済論的理解によって読み解くキェシロフスキ論(その1)

彼が直接監督した作品の意味で、実質的な遺作とも言えるTricoleursシリーズの《Blanc》(White, 白)について。この作品が、キリスト教の秘教的解釈やグノーシス思想などへの理解を基礎に出来上がっており、映画の登場人物や出てくる小物大物を含む舞台装置、そして台詞などによって巧妙に暗示されていることを理解することは、この映画が単なる男女の愛憎劇や喜劇風の復讐劇を造ることを目的としたものではなく、いわゆる神話時代から変わることなく扱われてきた《普遍的題材》を扱った類希な、真の芸術の名に値する作品であることが諒解されよう。キェシロフスキは、この三部作において、ほぼ完璧とも呼ぶべき物語をつくり、タルコフスキー以来、比類なきレベルの象徴的映画作品を完成したということができよう。

Kieslowski portrait

キェシロフスキは、本人が自叙伝でも述懐しているような「象徴の映画は作らない」(キェシロフスキ著『キェシロフスキの世界: Kieslowski on Kieslowski』)などという言説が、多くの鑑賞者をあえて欺く、全く正反対の虚偽(まやかし)であって、むしろそうした象徴的映画を生涯最期まで俗的な装置の中に意図的に混淆させ、また「隠匿しつつ提示する」というオカルティズムの伝統に根ざした表現を選び、またそのような読み解きの可能な優れた鑑賞者に対して、ある種の目配せを送っているものと考える方が妥当なのである。

むしろその上で、そうした象徴(奥義)への理解だけでは足りないのだという、より至高のメタフィジカルなメッセージをも映画に含有させることに成功しているのである。だが、このこと、すなわち「足りない」ということは、そうした内容への理解だけでは十分条件ではないが、奥義接近への必要条件であることに違いはない、とも言い換えられるのである。

小論においては、続いて、登場人物名、時系列による場面解釈などを、いちいち記すことで、キェシロフスキが無駄のない選択と気配りを一切の要素に対して行っていることを論証していくことにする。

■ 登場人物名
Karol Karol
『Blanc』の主人公カロル・カロル(Karol Karol)にはその名前にいくつかの暗示が込められている。最も基本的には、Karolはヨーロッパ文化圏には一般的な名前(Karl, Carl, Carlo, Charles)のポーランド語やスラブ語に置き換わった変種であるが、象徴記号としての役割のひとつはアルファベットの「K」、すなわち現世的・近代的な「J」に続く「やがて来る」の時代に当てられた記号である。それを姓名の両方で繰り返すことによって、ひとつにはアフォリズム的なドラマの持つ非現実性を強調すると同時に、数字のぞろ目(222, 777, JJJ)などの方法と同じ「繰り返し」の手法によって「そこに記号が存在すること」についての自己言及を行っていると見ることができる(ぞろ目については、キェシロフスキ自身が三部作の『赤』において、主人公の通うカフェのスロットマシンを使ってきわめて暗示的に扱っているのであり、彼がぞろ目の意味の重要性についてわれわれに目配せを送っていることは明白である)。

アルファベットの「K」自体には「11番目」の意味があり、「KK」と二度繰り返すことにより、「1111」という数性を読み取ることも可能である。そこには周回する時代(エイオン)の「原始、始まり」に相当する数性の、およびわれわれにとっての未来のエイオンの暗示を見ることができる(われわれの時代は3回繰り返される数字によって「3度目の世界」であることが暗示されているが、未来の未来は4桁の数字によって「4度目の世界」であることが暗示されるであろう。現実にそうなるかは別として、論理上はそうなるのである)。このことは、これから説明して行くタロットに於ける《愚者の旅》の愚者(the Fool)自身として主人公が「繰り返し」を生きることについての暗喩として機能する。

Karolという名前のその原意は、「夫」「男」というものであるが、このドラマの意味を考えたとき、その主人公の記号として元型的な《男》という意味の名を当てたことには偶然以上の意味が込められている。また、英語の語源辞典をあたると、Charlesには、「自由人:freeman」の意味が見出される。これは「奴隷でない人間」「奴隷を克服する男」のことである。そこには成長する愚者が、その道程で隷属の頚城(くびき)を断って、自立を得るために目指す別の「K」、すなわち、まずは「Knight」に、そして最後は現世の王(King)となることの意味も含まれている可能性がある。現に、欧州ではCharles/Karlは、王の名としてもきわめて高い人気があることは偶然ではなかろう。

Julie & Zbigniev

Dominique
カロル・カロルの相手役である準主役の女性の名前。
ドミニクのヴァリアント(変形種)は、以下に示すように実に数が多い。それだけこの名も欧州文化圏では男女を問わず人気があると言えるだろう。意味は「神の、神についての」というようなもので、「神の年」の意味を持つラテン語の「anno domini」(これが西暦のADに相当する)もこの語幹を持つものだ。

【資料:Dominiqueのヴァリアント】
Domaneke, Domanique, Domenica, Domeniga, Domenique, Dominee, Domineek, Domineke, Dominga, Domini, Dominica, Dominie, Dominika, Dominiki, Dominizia, Domino, Dominica, Domitia, Domorique, Meeka, Mika, and Nikki.

さらに「支配、優性」といったニュアンスの語彙に転じた「dominant, domination」などの単語との関連性がある。事実、主人公にとって異国の地であるパリにおいては、Dominiqueは、常に主人公のKarol Karolに対して、「優性」であり、「支配的な」地位にある。これこそが、主人公が(三色によって象徴される)異邦の地において「性的不能」に陥った主たる理由なのである。

Mikołaj ミコワイ
慣習的ににNicholasのポーランド名とされるが、キェシロフスキは明らかにこれをMichael(ミハエル)のポーランド名として採用している。これは大天使の名前であり、彼が4人でプレイするブリッジ・プレイヤーであることから、四大天使のひとり(ミハエル)であることが暗示されている。彼はまさにメッセンジャーであり、また主人公を支援・守護する霊的な存在(聖ミハエル)でもある。

Mikolaj & Karol Karol

■ 時系列による場面解釈

「死と再生」の祖型として
Karol Karolの映画進行に伴う変化は、主人公の《成り行き: progress》および「死と再生」の範型をなぞるものであり、それはタロットにおける「愚者の旅」であり、また新しいところでは新約中の救世主の「死と復活」にも見出されるパターンである。

Karol Karolに降り掛かる不運(というよりはむしろ「受難: Passion」であるが)は、裁判所に着いた時点で鳩の糞が彼の《肩》に落ちてくることで暗示される。これは同時に彼という主人公が「白」という属性を持ったまさに本編の中心的な存在であるための目印の意味がある。「肩に目印がつく」という伝統はキリスト教のイコンにおける母マリアの肩に付けられている八芒星の位置とほぼ同じであり、そうした聖像の伝統を実はキェシロフスキはきちんと踏まえているのである。

裁判によってすべてを失ったKarol Karolは、地下鉄の駅で知り合うミコワイの助けを得てパリ脱出を図る(ミコワイの役割は、その名の通り、空を飛んで世界を駈ける「羽根を付けたメッセンジャー:天使」としてふさわしいものである)。その際、Karol Karolはポーランドには戻れるが、ゴミの最終処理場という、言ってみれば「故郷の最果ての地」で4人組の犯罪者たちに囲まれ、袋叩きにされることによって一旦終わる。故郷の最果ては世界における辺境を意味する。これは言わば蘇りをもたらすために必要な形式的な死である。しかもそれは敵による「殺害」によって実現されなければならない。これは世界の四隅(つまり東西南北を含む人間世界そのもの)を表す4人の盗賊たちによって囲まれ、打ち倒されなければならず、言わば救世主の受難、すなわち主人公の弾圧と殺害をこのゴミ処理場における暴力が象徴している。

ところが、Karol Karolを迎える「死」は、「仮死」とも言いうる状態で、それはヘアサロンを経営する兄のいる家で毛布を頭まで被って三日三晩寝続けて、復活への時期が熟するのを待つことによって表現される。山のように盛り上がった毛布の中における暗闇は、キリストが磔刑死後、葬られる石によって塞がれた墓所と同じ意味を持つ。毛布から出てきたKarol Karolのその後の活躍は、まさに墓場から石を退けて出てきた救世主の姿にオーバーラップするのである。キリストとの重ね合わせについては後述する。

【象徴的第2日】
彼は、無事に帰って来ることのできたポーランドで、過去の自分の象徴である2フラン硬貨を川に向かって投げ捨てようとするが、それはあたかも救世主の手に付けられた「聖痕(スティグマ)」のように掌にくっ付いて離れない。ここにもキリスト教のイコンを模そうとするキェシロフスキの意思が容易に読み取れるのである。これは硬貨の数性“2”を利用して、さらにスティグマを思わせる身体的な部位にそれを配置することによって、Karol Karolと救世主の間にある(皮肉な)相関関係への暗示を強化するのである。

また、その2フラン硬貨の数性そのものによって、Karol Karolの生きる次周回の世界(エイオン)における、文明進捗の度合いを同時に意味する。すなわち、七日間の中の何日目であるかを同時に表す道具としても機能している。

このあとは、七日間の内の何日目であるかを表する数性がひとつひとつ進んで(progress)行く。これ自体が救世主「復活後」の物語なのである。

【象徴的第3日】
数性“3”は、主人公を含む3名の人物が、これから開発が予定されている田舎の農地を「巡礼」することによって、3人のマギを模していることが暗示される。彼らがその巡礼の際に乗っているクルマがメルセデス・ベンツであることは偶然ではない。メルセデスの3つのスポーク(輪留め)を持つ丸い車輪のロゴマークは、まさに三位一体の象徴であり、当然カメラがそれを効果的に捉えている。そして、この「巡礼」の際に、謀(はかりごと)を思い付いたKarol Karolは、その後、ミコワイを訪れる。

【象徴的第4日】
久しぶりに二人は再会したするが、ブリッジの行われているカード荘において、ミコワイを含む4人がプレイしている様子が一瞬映し出される。これは時代が数性“4”に到達していることを表現している。ここでは、4人全員は画面上に登場しないものの、正方形のテーブルで4人がプレイしていることは明白である。しかも堕天使としてのウリエルは画面上には捉えられていない。これはキェシロフスキ一流の目配せとヒューモアであろう。

【象徴的第5日】
次に、Karol Karolは計略によって仲間を出し抜いて開発予定地の一部を確保するが、それは5ヶ所の地所である。これは数性“5”の暗示となる。それを10倍で売却し大金を入手する。ここに5の倍数である10であることは偶然ではない。遺言により、出し抜かれた彼の元雇用者(マフィア)から自分の命の守ることに成功し、大金を手にしたKarol Karolは、ミコワイとともに事業を興す。

彼はどうやら不動産投資などをしているものと見られるが、ある時、一見本筋とは全く関係なさそうなビジネスの一場面が映画では描かれている。 Karol Karolは、自分のパートナーのひとりに壁の厚さが何センチかを訊き、メジャーで厚を測らせ、「46センチメートルである」ことを知ると、「あと4センチ足して50センチにするように」と指示を出す。これは全くのナンセンスであるように見えるが、まさに数性“5”の窮極の状態であるオカルト的な50という完全数にこだわる様子を描いているのである。これはもうひとつの重要な「三色旗同盟」のひとつであるアメリカ合州国が、国家として50州から成っていなければならないとする、言わば「象徴マニア」であることに対する当てつけと解釈することができよう。

【象徴的第6日】
やがてやってくる《6の時代》は、五芒星と六芒星が「565」という順でKarol Karolの右肩の上当たりに茫漠とであるが掲げられているのをカメラが捉えることによって表現される。こうした小道具を視野の中に入れることにも監督の演出の意思が関与している。演出に偶然は何一つない。これは3つ並んだ六芒星による「ぞろ目」と関連のある伝統表現が前提となったもので、数性はぞろ目の「666」にまだ至らないが、極めてそれ(週/周の六日目)に近いことを意味しているのである。

また同時に、街に吊るされたこの星は、クリスマスの到来を告げる典型的でありふれた街の装飾でなければならないし、同時に象徴的なドラマとしては、神が休む安息日前日の六日目は、クリスマスの到来に近い時期でなければならない表現上の事情を踏まえている。言うまでもなく、これはキリストの磔刑の前日が、「過ぎ越しの祭で忙しい時期」として描かれてきた聖書時代からの伝統に則っているのである。

断っておくが、これはクリスマスと過ぎ越しが一年のうちの同じ時期であることを意味しているのではなく、ドラマが死と再生と関わりの深い象徴的な「区切り」の時期に遭遇することを意味しているにすぎない。こうしたひとつの時代の死と復活という同様のテーマは、はやり描かれるドラマの季節がクリスマスの時期と設定していたTerry Gilliam監督の映画『新世紀ブラジル: Brazil』にも共通見られるもので、ヨーロッパにおける暗黙の共有事項と考えられるものである。

次の救世主の誕生(伝統的聖誕祭)は、旧い救世主(王)の死によって、まずは区切られなければならない。

したがって、Karol Karolは象徴的な最後の日、「六日目」をどのように終えるかを思案するのであるが、この周回する世界は《偽造された主人公の死》によって完成されるのである。これは伝統的な救世主としてのキリストの死も、偽装であったかもしれないとする異端的/異教的なキリスト教に対する批評的理解についての、映画作家・キェシロフスキからの目配せが含まれているのである。ドラマ上、かくして主人公は「二度目を死ぬ」のである。

一度目はすでに説明したように帰国時、故国ポーランドのゴミ処理場で。そして二度目はフランスにいるDominiqueを彼女にとって異邦の地であるポーランドに呼び寄せる巧妙な手段として。あくまでも偽装であるが。

だが、この二つの形式的な「死」によって、短いドラマの中に限られた幅(長さ)を持った直線の始点と終点の2点を設定することが可能となるのであり、その主人公の成り行きが、あたかも「文明の進捗」についての始まりがあって終わりがある(アルパでありオメガである、とも表現される)ドラマの典型を描くことができたのである。むろん、キリストのパロディあるいは「カリカチュア」として。

二度目の死の儀式を成立させるべく、お金を出せば買えないものはないという自由化されたばかりのこの地(ポーランド)で、Karol Karolの事業グループは、顔がつぶれて身元が確認できない死体さえ購入するのである。そしてその身元不明の遺体をKarol Karolであるとして葬り、葬儀も行うが、このとき、自分の過去の時代の象徴であり、また主人公としての彼の存在論的な意味性(つまり救世主であるということ)を表示していた《聖痕》である2フラン硬貨を偽装死体の入った棺の中に入れる。「自分が本当にここにいた」ことを偽装するためであり、また自己の過去世を同時に葬り去るためでもある。

【象徴的第7日】
このようにして彼の偽装死は功を奏し、かつての敵(かたき)であった先妻Dominiqueを、Karol Karolにとって故国であって彼女にとって異邦の地であるポーランド(ということは彼女にとってあらゆる点で不利である地)におびき寄せ、また彼女を保険金殺人の犯罪者として刑務所に送ることにさえ成功する。

Dominique in jail

牢獄への女性の幽閉は、象徴的には神の安息日(第7日)に呼応する状況である。これはまた、これまでに繰り返された救世主の仮死(偽装死)、すなわち男性原理視点では発展停止(ないし不在)の時期に相当するが、女性原理の視点においては休息(刺激の絶無)に相当する。しかし、この二人、すなわち男性性と女性性の象徴的存在は、互いが互いに対して「必ず帰って来る」ことが約束されている点でも、神話的な元型を表現していると言えるのである。

刑務所に収監されているDominiqueを訪れたKarol Karolとの間で「手話」のような会話が行われる。Dominique曰く、「私は死と天国を望むほど絶望しているのでしょうか? いいえ。私はここを出たらあなたのところに真っすぐ赴くでしょう」(そのように筆者には読めた)。人里離れた地に幽閉することにより、ようやく愛する者を支配下に置くことのできたKarol Karolと、異邦の地でかつての夫の嘗めた辛酸と同じ境遇を骨の髄まで味わったDominiqueとの間で、初めて相互理解と和解が成立したかに見える。主人公は、自分への理解と愛を獲得するために、かくも込み入った仕掛けと努力を払わなければならなかったのである。そしてその仕掛けは、まさにわれわれの住む近代文明そのものの発展の姿に、そしてわれわれ人類の姿にオーバーラップして来る筈である。

◇◇◇

付録:国旗の色による映画に込められた複層的意味合い
「白」の主人公Karol Karolの故国、ポーランドの二色旗(白・赤)と主人公の相手であるDominiqueの故国、フランスの三色旗(青・白・赤)には、それぞれの国に伝わる色に関する一般的解釈(通念)があるが、それとは別の秘教的な解釈、およびキェシロフスキが意図した個人的象徴の顕示の機能が持たされている。

France flag Polish flag

フランス国旗については、青と赤の原色の間に《侵されざる白》が配置され、正反対の要素の間でバランスをとっており、それが一種の「三つ巴」となって力学的な均衡作用を起こしている。さらに青という水によって象徴される属性と赤という火によって象徴される属性とが直接ふれあわないようにするバッファーのような間隙(blank/blanc)として白が機能している。一方、ポーランド国旗においては白と赤という二要素が(上下に)直接拮抗している。《Blanc》のドラマの中で主人公は無垢で弱い白——それは彼が憧れる白い少女の石膏像によってもその壊れやすさが暗示されており、また中身のない「空:からっぽ」の意味の Blank——で象徴され、その生身の相手役、Dominiqueは、情念の炎の赤で象徴される存在である(彼女は振った男を追い出すためであれば、パリで自分の経営するヘアサロンに火さえ放つ)。Karol Karolにとって「異邦の国」であるフランスにおいて、彼は男性優位であることができない。そしてまた、「青:水:自由」の要素を含んだその地において性欲の「炎」は、つねに「水」の脅威によって消される潜在的脅威がある。しかし、その(国旗上)「水」のない(水入らずの)ポーランドにおいて、あるいは「白が赤の上位に置かれた」ポーランドにおいて、彼は男性としての機能を回復し、Dominiqueを逆に「支配」することができる。これは《白》を本体(国体)とするポーランドの、《赤》(他者/例えば過去においてはロシア)に対する優位を希望する国民的心理の祖型的な現れでもあるとも言えよう。

映画トリコロールにおいて「博愛/愛」を意味するとされる映画『赤:Rouge』では、別種の赤の属性を持つ主人公がイレーヌ・ジャコブ演じるValentineによって提示されるが、映画『白』においてはまったく対極的属性をもった赤の象徴が、ジュリー・デルピーによって提示されているのである。この Dominiqueの赤は、「博愛/愛」の赤ではなく、むしろ煩悩として現世や生を焼き尽くす「性愛」の赤である。同時にキリストの(侵されざる)白に対する(マグダラの、あるいは記号的な)マリアの衣のような「信仰と情熱」の赤なのである。ポーランドにおいて、赤は「自由」(あるいは自由獲得のために流される「血」)の意味であり、同じ「自由」がフランスとはスペクトル上も全く正反対の色(青)によって置換されている一方、白が現在、「共和国の尊厳」の意味に転換されている。ポーランドにおいて、「尊厳」(自決と死)は、自由に対して優位の地位を得ているのである。無論、二色旗が数性“2”を通して、カトリック優位のポーランドの宗教事情を暗示している面があるのは前提の上での話である。

反対物の一致《目次》

Wednesday, March 3rd, 2010

善だけの世界もなければ悪だけの世界もない。真実も多くの虚偽があってこそ意味を持つ。これらの言わば認識論的な価値の存在の仕方の中にわれわれの住む世界がある。つまり苦も楽も、それらは互いにその反対物の存在によって存在を許されているのだ。考えてみて見るが良い。一体、全くの不正の無い世界で、どんな正義が意味を持つというのであろう? 一体、まったく自己中心性の無い世界で、どんな自己犠牲が意味を持つというのであろうか? 不正や利己主義の全くない世界において、どんな救世主(キリスト)が意味を持つというのであろうか?

《反対物の一致》

エリアーデがよく問題にした「Coincidentia oppositorum」に関連しての小論考:

#1:原初的な前提

#2:いかにして「忌避すべきこと」が「歓迎すべきこと」に転ずるか

#3:死を欠かさぬものとする聖化の運動について

#4:死を伴わない発展はないことについて

《実在する神》への付言(試訳)再び

Saturday, November 10th, 2007

『《実在する神》への付言(試訳)』を推敲。

《実在する神》への付言(試訳)

Thursday, August 16th, 2007

星雲

「ヘルメス・クァトロスメギストゥス(四倍に偉大なヘルメス)」との威名を持つ予言者によると言われる、古メリシア語で書かれた、ある神学論的断章の刻まれた金属プレート──おそらく備忘録と想像される──が、人類による文明活動が認められる最も古い地層よりさらに古い地層からほぼ無傷で発見された。このような地層から金属プレートが見つかること自体が歴史概観そのものを見直さなければならないほどの異常なスキャンダルであったが、それにも加え見つかった文書の内容が読み解かれたことが更なる衝撃であった。そしてその内容自体が一考に値するものであることはいくら強調してもし過ぎることはあるまい。これは今や周囲にひどい塩害をもたらしつつある悪名高き塩湖たる紅海のほとりから偶然見つかった「ザラスシュトラの約束」を含む前世紀の考古学上の大発見、いわゆる「紅海文書」の重要さを越えるのではないかと言われるほどの意味を持った発見である。それはわれわれが忘れつつある《神の実在》についての、これ以上にない明解な回答を含むのもであったので、ここに採録する。(G.B.C.)

(引用開始)

神はいるのか、という問いに対して、私はためらいなく「いる」と答えるだろう。

だが、全知全能をその定義とする神ならば、「実在する神はそのようなものではないだろう」と言う以外にない。《実在の神》はそのような種類の神であろう。だから、《実在の神》は、人類の多くが信じようとしている類の神よりも、はるかに無慈悲である。いや、慈悲の対象であることさえも忘れ去っているのが、《実在の神》なのである。それでは「神は不在である」とか「神は死んだ」と宣言するのと変わらないではないかと誰かは言うかもしれない。その言葉は、かつての世界において、「失われた神への信仰」の最終局面でニケ(ナイキ?)*によって声高に宣言された言葉だが、神は不在でもなければ死んでもいない。宇宙史的な時間の中で、億千万年の昔に死んだことはあるかもしれないが、われわれの神は実在する。なによりもわれわれが生きていることがその証しである。(略)

[訳注* 正確な発音は不明。一般に神話上の「有翼の女神」ともいわれるが、太古の時代に実在したある神学者で、男性であったという説もある。]

問題は、神の性質ということに尽きよう。

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《宗教学》が、信仰から分けられる必然

Tuesday, July 31st, 2007

これは、筆者自らの内部に生じている宗教や宗教現象についての、永久に葛藤する考察を二者の対話の体裁をとって表現した「宗教学者と宗教家(信仰者)の対話」というシリーズへの補遺である。


言ってみれば、大なり小なり熱心な宗教の研究家というのは、単に行き当たりばったりに個々の宗教関連事象を対象化したり、研究成果たる関連書籍を渉猟したりしているのではなくて、往々にして宗教的事象を「文脈:コンテクスト」として捉えられるほどのまとまった量で対象化するものであるし、そうした横断的な研究がもたらす宗教についての概括的様相には、個々の宗教的事象から単独で得られる発見や体験の質自体の重要性と同等か、もしくはそれ以上に興味深いことがある。少なくともそのことを知っているということなのだ。そして宗教史家が宗教史家であり、宗教学者が宗教学者である理由というのは、こうした歴史的文脈で「宗教の遷移を理解する」ことができるような歴史鳥瞰的な眼を獲得したということに外ならない。だがもちろんこれは専門的な宗教研究家だけの特権ではなく、あらゆる信仰者や宗教家が持っていても「損はない」ひとつの視点ではある。そこまでは便宜上、認めても良いだろう。(もちろん、信仰者が自分の信仰の対象たる神を相対化するなどということは百害あって一利無しだと言われそうなことであるが、20世紀に書かれた神学者による記述を読んでいると必ずしもそうではないことがすぐに諒解されようし、少しでも思弁的傾向のある宗教者なら、他の宗教に対する一通りの関心は抱いているものであって、信仰者でありながら、相対化の第一歩は踏み出しているものなのである。)

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宗教学者と宗教家(信仰者)の対話 #01

Friday, July 13th, 2007

あるいは

「宗教と信仰に関する交差しがたい平行的関係について」

●:宗教学者/宗教史家

○:信仰者/宗教家

●どのような結果をもたらすものであるにせよ、宗教を正面から捉え、その重要性をわれわれほどに認識しているグループもあるまい。宗教について語らせるなら信仰者による特定の宗教や教団の弁護やの勧誘の言葉ではなく、われわれ宗教学者、宗教史家の言葉にこそ耳を傾けるべきである。

○「宗教の中身」とは、信仰そのもの、そして信仰生活のなかにある。したがって、あなたがた宗教学者たちが宗教を扱うようにそれを「研究」することによっては、その内実を明らかにすることは一向にできないだろう。問題は、そこに信仰があるかどうかなのだ。信仰が宗教的問題のすべてなのだ。「重要なのは信仰なのだ」。

●なるほど。いかにも信仰者が言いそうな予想通りの言葉だ。信仰がわれわれの扱う範囲を超えているのは確かかもしれない。然様、われわれは対象化できるものを研究の主題としているのであって、当面はあなたがたの心の問題や内的体験にまで立ち入る気はない。人間社会における宗教というものの占める領域、社会的影響力、すなわち知覚可能な世界における宗教の果たしてきた役割やその影響を調べ、それを言語化するのがわれわれの第一義の仕事なのだから。

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エリアーデ「世界宗教史」通読メモ

Sunday, April 29th, 2007

パウロの「転向」… と題しておこう、とりあえず。

222 異邦人のための使徒

彼(パウロ)は福音のメッセージを、ヘレニズム世界になじみのある宗教言語に翻訳する必要があることに気付いていた(略)。(中略)肉体の復活というユダヤ人の大多数が抱いていた信仰は、もっぱら霊魂の不死に関心を持っていたギリシア人には無意味なものに思えた同様に理解がむずかしかったのは、終末における世界の更新に対する期待であるギリシア人はこれとは対照的に、物質から自己を解放するために、より確かな方策を探求していたのである。(略)彼はヘレニズム世界に深入りするにつれて、終末への待望を次第に語らなくなっていく。また、かなり重要な革新がみられる。パウロは、ヘレニズムの宗教的語彙(グノーシス、ミステリオン、ソフィア、キリオス、ソーテール)を使用しただけでなく、ユダヤ教や原始キリスト教に知られていなかった観念を採用している。例えば聖パウロは、グノーシス派に根本的な考え方である、(中略)二元論を取り入れたのである。p. 371-372

エリアーデのこの辺りの記述は驚くべきことで満ちている。パウロがそもそも「転向のユダヤ人」であったことはすでに知られたことであったが、一体何に対して転向したのか、というのが私の中では明らかではなかった。漠然と「ユダヤ教ならぬもの」に傾斜した結果がキリスト教である、というような理解である。

彼はその当時もっとも絢爛たる文化的影響力を持っていたギリシア主義(ヘレニズム)に転向していたのだ、実は。しかもそのヘレニズムはすでに東洋世界(オリエント)と出会った後の、それだったのだ。ヘレニズム的二元論や霊魂の不死の思想は、おそらくそのリソースを辿れば、「ヘルメス文書」などの古代エジプトの時代まで遡れる。だが、物質から自己の解放(輪廻から脱出)をする方法というのは、第一きわめてアジア的である。[西洋世界はキリスト教の成立より早い時点で仏教と出会っている可能性がある。]

また、キリスト教の内部における、その成立時期からあった異端と正統の二勢力の対立というのは、ことによるとキリスト教を産み出すことになったまさに「父」と「母」の対立自体にまで遡れることなのかもしれない。キリスト教の「父」と「母」とはすなわち、ユダヤ(セム族)の宗教的伝統と、ギリシア(ヘレニズム)の近代主義である。延々と続くキリスト教団内部の血で血を洗う政争/神学論争と弾圧は、良く知られたように、ひとつには二元論をめぐる争いと言える。そして正統派が排除しようとしたのは、どうやらパウロが最初に採用していたヘレニズム的な要素であったようにも思えてくる。そうだとすれば、正統派教会がしたのは、そうした国際主義的・ヘレニズム的キリスト教をユダヤ的伝統の世界に引き戻そうという反動だったのかもしれない。

そう考えると、キリスト教は、その「分裂」(スキズム)以前に語らなければならないことがあったことになる。それは異なる文化の「融合」としてのキリスト教という側面である。

「復活のセオリー」の復古や、二元論的カタリ派への弾圧というのは、そのように考えれば納得できるところではある。もちろんこれはまだ憶測の領域を出ないメモの段階であるのだが。

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「ブルトマン『歴史と終末論』を読む」の推敲

Saturday, April 28th, 2007

R・K・ブルトマン『歴史と終末論』中川秀恭訳(岩波現代叢書)を読むに若干の推敲。

エリアーデ『世界宗教史』の通読をしていると「220 福音──神の国は近づいた」の節でルドルフ・ブルトマンに言及する部分があったので、思わず昨年の4月に書いた拙論を読み返してみる気になったのだ。

エリアーデ「世界宗教史」通読メモ

Friday, April 27th, 2007

II 巻

212 アルサケス王朝統治下(前247年から紀元226年)の宗教的志向

アルサケス家が政権を奪取した後に明確化された王朝のイデオロギーの要素のなかに、この数世紀にわたって大帝国の辺境で遊牧生活をしてきた、無敵の種族の遺産が示されているということはおおいにありうる。しかし、ヘレニズムの魅力には抗しがたいものがあり、すくなくとも紀元一世紀までは、アルサケス王朝はヘレニズム化を奨励したのである。しかしながら、彼らが模倣しようとしたアレキサンドリアのヘレニズムの中に、多くのセム族的、あるいはアジア的な要素が吸収されていたことを思い起こすべきである。(page 324)

前回も書いたように、ユダヤの教典の中のギリシア的なるものの影響について言及があったが、今回はヘレニズムの中にアジア的なもの、しかもセム族的な──ということはユダヤ(セミティック)的な──ものの吸収について語られている。これはセム族的なものとギリシア的なものが相互に影響を与え合ったと解釈できる部分である。

「セム族的」と言ったのが、エリアーデがユダヤの民族よりも大きな何かを暗示したくて選んだ表現なのか、あるいはまさに「ユダヤ的」ということを控えめに言いたかったのか、その意図は分からない。だが、「アジア的な要素」で思い出すのは、アレキサンダー大王のアジア遠征から遠からぬ時期に、初めてギリシア文化人(王)が仏教の哲学(僧侶)と出会ったとされる逸話である(「ミリンダ王の問い」)。もしそれが伝説以上に信頼できるソースであるとすれば、つまり、もし仏教哲学がヘレニズムに影響を与え、そのヘレニズムがセム族の宗教やその支流(キリスト教)に影響を与えたとするならば、この文化伝播の物語の中に、仏教からキリスト教へと繋がる一本の道筋ができ上がるではないか。

『ヒュスタスペスの神託』は、七〇〇〇年を単位とする終末論的年代記にもとづいてその預言を正当化しているが、各々の一〇〇〇年はそれぞれひとつの惑星に支配されており、そこにはバビロニアの影響がみられる。しかし、この年代記的な図式の解釈はイラン的なものである。最初の六〇〇〇年のあいだ、神と邪悪な霊が覇権をめぐって闘い、邪悪な霊の方が勝利を収めそうになるが、そこで神は太陽神ミスラを送り、このミスラが七番目の一〇〇〇年を支配する。そして、この最終的な段階が終わると遊星の力は衰え、宇宙の擾乱によって世界は更新される。こうして、終末論的目的をもった神話的年代記が、キリスト教時代の始まろうとする西洋世界におおいにひろまることになる。(page 326)

7000年を単位とするという概念には、その期間を等しく千年の単位で分け、七つの部分からなる時代区分を可能にする意味があるが、これはあたかも千年が一日に相当する一週(一周)間と捉えることもできる。実際的には、現在すすめている「数秘学批判」でも若干の言及をすることになるだろう「加速する時間」の法則*によって、ひとつひとつの時代を等分にはできないのであるが、単純化された話としては十分に理解可能である。等しく千年の単位で分けるという「7000年で一周する」一つの円環のイメージは、記憶術的な価値があると看做すことは可能である。それは、複雑な「加速の法則」なるものを、数千年を生き延びなければならない「有史外の記憶」として保持させることは難しかっただろうことを考えれば納得できるだろう。

「終末論的目的をもった神話的年代記が、キリスト教時代の始まろうとする西洋世界におおいにひろまる」については、キリスト教時代の幕開けに先立って、図らずも(?)ある種の地均し的な準備が行われたことが諒解される。そこで、時代性への自覚にスイッチが入る。そして最後のカウントダウンが始まる。そのためにキリスト出現という一大イベントを境に時代が「その前: BC」と「その後: AD」とに区別される。そして、キリストの磔刑によって掲げられた十字架の目印が、歴史を過去と未来に区分けする。そしてわれわれは、その目印が打ち立てられてから、ほぼ誤差なく2000年が経過した時代を生きている。

* ひとつの時代区分は、残された時間の2倍の長さに当たる。実際にこうはなっていないが、時代の加速は2/3ずつ縮まっていくという法則から言うと、下のようないくつかの可能性がある。

1: 8000BC〜2000BC(6000年間:約1万年前から)

2: 2000BC〜1000AD(2000年間:約4千年前から)

3: 1000〜1666(666年間:1000年前から)

4: 1666〜1888(222年間:333年前から)

5: 1888〜1963(75年間)

6: 1963〜1988(25年間)

1: 7000BC〜1000BC(6000年間:約9千年前から)

2: 1000BC〜1000AD(2000年間:約4千年前から)

3: 1000〜1666(666年間:1000年前から)

4: 1666〜1900(222年間:333年前から)

5: 1900〜1975(75年間)

6: 1975〜2000(25年間)

1: 4000BC〜1AD(6000年前)

2: 25AD〜1360AD(2000年前)

3: 1359〜1800(666年前)

4: 1803〜1950(222年前)

5: 1950〜2000(75年前)

6: 2000〜2025(25年前)

1: 10000BC〜2025BC(12000年前)

2: 2025BC〜675AD(4050年前)

3: 675〜1575(1350年前)

4: 1575〜1875(450年前)

5: 1875〜1975(150年前)

6: 1975〜2025(50年前)

1: 10000BC〜2025BC(12000年前)

2: 2025BC〜675AD(4050年前)

3: 675〜1575(1350年前)

4: 1575〜1875(450年前)???

5: 1875〜1969(150年前)???

6: 1969〜2025(50年前)

実際は西暦2000年を境に一つの時代が終わるという単純化が起こっていたが、そのようにはならなかったということ。おそらくプラスマイナス最大で25年ほどの誤差があるのだろう。ここにアップするのが不適切なほど、未検討。

214  時間の終末論的機能

この説のタイトルが示すように、時間というものの概念は文明の出現と供に、と言うことはすなわち変化し変成する人間社会の発生と供に、登場した。そして時間の登場は歴史の登場と同義である。だが変化が単なる変化ではなく、環境の不断の改変を伴う、言わば進化論的な性質を帯びるに従って、終末を予期(予定)させるものとなる。

時間的なイメージと象徴は、ゾロアスター教やズルワーン教のコンテクストの中でも記録されているのである。同様の状況が一万二〇〇〇年の循環論に関してもみられる。(page 332)

215 二つの創造──メーノーグとゲーティーグ

アフリマンは、オフルマズド(アフラ・マズダー)が完全な存在になることを助ける。つまり無意識のうちに、また意図せざるうちに、悪は善の勝利を促進することになるのである。このような考え方は、歴史上、比較的頻繁に登場するもので、ゲーテをも魅了したのだった。

エリアーデ「世界宗教史」通読メモ

Wednesday, April 18th, 2007

II 巻

199 律法主義の発展

ユダヤ人は、ペルシア支配下(平和の続いたバビロン捕囚時代)にあったとき、律法改革を進め、割礼などヤハウェの民の一員であることのシンボルに価値を与えた。

→ 比較的新しい、改革の結果根付いた宗教慣習。

「不純」な異国の世界の中でこそ伸長させられた民族的アイデンティティ。

これは現在も世界の各地で(日本でも)繰り返されている。

同化ではなくて異化が生じる。

以前書いた拙論「自尊と愛国」の裏付け。

「贖罪の仕組みが非常に巧みに作られているので、新しくよりよい秩序を作ろうという望みが生まれる余地はほとんどない。司祭たちの発言には、終末論やメシア待望論は片りんもみられない」

p. 270-271

200 聖なる知恵の人格化

ユダヤ教の歴史に計り知れない影響を与える事になったもっとも重要な事件は、ヘレニズムとの出会いであった。青銅器時代後期には、ギリシア人は、すでにパレスティナと継続的な関係を持っていた。最初の1000年間、ギリシア人の流入は着実に増え続け、ペルシアによって支配されていた時期にさえ続いた。ヘレニズム文化が大きな影響力をもつことになるのはアレキサンダー大王の勝利以降…

アレキサンダーの死:BC323

p. 273

キリスト教の経典がギリシア語で書かれることになる時期から300年以上前に、ユダヤ文化自体がギリシア文化の影響を蒙っている。「ギリシア文化の影響を受けたユダヤ文化」というものは、自分の中にはイメージできなかったものだ。ギリシアの影響は、「キリスト以降」というイメージがあったため。

だが、もちろんもうちょっと注意深く考えてみれば、キリスト教の経典(新約聖書)がギリシア語で成立しているという事自体が、パレスチナの地がそれに先立ってギリシア文化の絶大なる影響下にあって久しいというのが当然なのである。しかも「絶大なる影響下」というのも漠然として言い方で、千年というスパンで続いたということを《認識する》ことが重要なのだ。