Archive for the ‘衒学のためのレクイエム’ Category

マイノリティ《左利き》を巡る断章

Thursday, August 4th, 2011

偏見や差別というキーワードとの出会いで、自分にも思い当たることがあると感じて急いで備忘録とする。

いまとなっては左利きであることはさまざまな点で有利だとさえ思っているが、幼少の頃までは相当の偏見や不便に苦しめられた。父の田舎に帰れば、親戚に「どうして左を使うのか」としつこく難詰されたし、ご親切に「左手は不浄の手だ」と教えを垂れるおとなまでいた。学校では左でボールを投げれば、「おまえ、ギッチョか!」と、まるでハンディキャップの人間に期せずして出くわしたかのように、ぎょっとした調子で教師に指摘された。学校には手に合う左利き用のグローブが少なかったのが実に不利だったし、家庭科の授業で使った裁縫鋏は、手になじまず力を込めて使うと痛かった。まだ左利きに対する意識が低かったその時代、そのあたりの文房具屋ではついぞ左利き用の小刀に出会わなかった。

「ギッチョ」という言葉はいまでは少なくなったが、それでもそれを差別用語だと意識さえしないで本人に向って投げつける人がたまにいる。それを言う本人には「左利きです!」と訂正するが、その意図を理解しない人が殆どだ。つまり歴史的に偏見を含んだこの言葉を、無知とは言え、そうと知らずに使っているし、左利きの本人たちに投げつけて平気だ。チビとかビッコとかメクラとかを本人に向って使わない人でも、こと「ギッチョ」に関しては存外無関心・無知な人が多い。

「ギッチョ」という言葉は当方の考えでは、おそらく「不器用」(ぶきっちょ/ぶぎっちょ)あたりから来た語彙だ。右利きの人から見ると左手で何か作業をやっている人を見ると、ぎこちなく「不器用に見える」からそのように言い倣わされたのだと想像している。実際、右利き用に作られた道具を左で使うのだから不利なのがそもそもの前提だし、ぎこちなくなるのが実際なのかもしれない。だが使う本人たちがそう感じている以上に、見た目が「不自然」だから不器用に「見える」だけだというのが、右利きの人たちには分からないのだ。どうしてそういうことが言えるのかというと、左利きである自分自身、筆記だけを右手に矯正したので、文字だけに関しては、左手で書いている人が「ぎこちなく」見えるのだ。だから文字については大勢の右利きの人と同じ感覚で見ているのだ。

ギッチョは「利き手」とか「器用」という意味だという主張があるようだが、「左ギッチョ」とは言っても、その逆の「右ギッチョ」という言葉は存在せず、「ギッチョ」が単なる「利き手」や「器用」という意味でないことは明らかだ。それはその言葉を投げつけられた人だけが感じることのできるものだ。

ウィキペディアの「左利き」の項中の「左利きの不便」というチャプターを見ると、左利きである自分でも意識してこなかったような不便と危険の長いリストを見出す。これだけの不便を強いられて来たのかと知って改めて愕然とする。(逆に言えば、随分右利きの人たちは自分たちを甘やかしているんだな、と思う。)

単に不便であるというだけでなく、左利きは右利きの社会において多くの危険に曝されている。(実際に事故で死ぬ確率は高いという統計もある。)この意味では「ユニヴァーサルデザイン」あるいは「アクセスビリティ」などが盛んに言われているが、左利きの人々にとっての真の《アクセシビリティ》は、この圧倒的なマジョリティである右利きによって支配されている社会において、まだまだ改善していない。誰も声高に言わないから、そもそも問題として認識されていない。マイノリティである左利きの人々が立ち上がって、運動を起こさなければいけないのかもしれない。右利きと左利きに対して、その発生する割合に応じた社会整備を行うのを義務付けるとかできないのか、とも思う。左利きはどんな社会にも10%前後存在するというのだから、その割合に応じた道具や社会整備をすれば、本当の意味でユニヴァーサルデザインになるだろう。僅か10%でいいのだ。世の中の設備の半分をそうせよと言っているのではない。こんなことを、特に改札口を通過するたびに思う。

文字も逆に書かれた鏡文字を正規の文字として認めろ、とか主張したりしてね。

ところで、文字だけ右手利きに矯正した自分が、左手で鏡文字を書くと分かるが、筆跡は右手で書いたものと全く同じで、筆跡は手に存在しているのではなくて、脳内に存在することがよくわかる。

女性はマイノリティと言われることがあるが、生まれてくる確率からすると男女は五分五分だから、数の上で女性はマイノリティ(少数派)の存在ではないが、左利きはどこの社会でも10%前後と言えば、真性のマイノリティなのだ。

でも、親切な右利きの親たちは、右利き社会において苦労させてたくないから、右利きにしてあげようとする。左利きとして生まれてくる本人たちにとて、それがどんなに迷惑なことなのかも知らずに、自分たちが左利きに矯正されたらどんな苦労をするのかということについていかなる想像力も使わない。

その問題は認識されているが、そんなに危険なら「右利きになればいいじゃない」というかもしれないが、「いやいやそういうあんたが左利きになればいい」という主張は、右利きの彼らには想定できない。

ピアノを弾くと分かるが低音域を分担する左手は、メロディーを主に分担する高音域の右手と違って、「伴奏」や「通奏低音」の役割を果たすことが多い。特に古典期以降は。だが、バロック以前に遡ると、鍵盤楽曲において、右手と左手は、比較的同じ比重を持たされていて、時にはともに同じメロディーを弾くことがある。特にフーガになっているとそうだ。自分がバッハを弾くのをあまり苦に感じなかったどころか、喜びに通じたのは左利きだったからかもしれない。いつも左手の伴奏がうるさいと両親から指摘されていたのは、バッハとの出会いで終わった。

前原元外務大臣が総理大臣になるだろう理由を垣間みた夜

Thursday, July 21st, 2011

Twitterにつぶやいた内容をこちらに転載。

(前略)浜岡で事故が起きると、アメリカの西太平洋戦略の要衝である横須賀の第七艦隊司令部の機能に障害が出る。それは絶対に許されないことである。だから、アメリカの通告はこう続く。「今ある54基の原発は順次廃炉しなさい。ついては、この廃炉のお仕事はアメリカの廃炉業者がまるごとお引き受けしようではないか(料金はだいぶお高いですが)」。(内田樹「脱原発の理路」 より)

もうひと月も前の樹氏のエセーを引用したのは、たまたま昨夜前原元外務大臣がテレビ朝日のニュース番組のインタビューで喋っているのを聞いていて、樹氏の想像が正しいと思わせる、あまりに優等生的な回答だったからだ。少なくとも今の民意から共感を引き出しつつ、のところが、だ。

あの優等生的な前原の回答は、絶対にアメリカの国益だけは損なわない、ことを決意した人間だけに見出される「立て板に水」の無情を感じさせるものだ。小泉にも通ずるところの。如何にも我々国民の利益と一致しているかのようによどみなく話すところにむしろ不安を感じた。つまり脱原発という一点に関して言えば、日本の政府がそちらに舵を切れると言うことは、日本国内の民意とアメリカの国益が珍しくも一致したと言うことだ。善かれ悪しかれそうなったならば、廃炉への流れは一気に加速されるであろう。原発に関してはもう騒ぐことなど無くなる(?)のだ。だが、それは本当なのだろうか?

「人類の進歩と調和」そして「進化」の乱用を巡る短いメモ

Thursday, July 7th, 2011

Twitterのつぶやきに書ききれなかった若干の内容を補足して転載。

高校生のとき、同級の悪友が「人類の進歩と調和」について小論文を書け、と言ってきて、それについて真剣に考えて以来、この言葉については敏感だ(その論題を出した彼は、「進歩と調和は相互否定的な概念であり、欺瞞的なスローガンだ」という当方の回答に非常に満足していた)。

なぜ科学や技術の進歩に「進化」などという生物学用語を和文ライターたちは当てるのだろう。進化できるのは人間以外の生物だけだというのに。そしていつ頃からこの語彙の乱用が始まったのか? もうこの乱用に付き合うのに飽き飽きし始めている。

「人類の進歩と調和」なんていうのはアンビシャス、というよりは何と欲深い願いかと思うが、それでも大阪万博当時の日本人は「(技術の)進化と調和」などとは言わない分別は持っていた。(しかし考えてみると「人類の進歩」という表現も変だ。進歩できるのは科学・技術だけだろう、そもそも。)

人類は、《進化》などという気の長い持久戦を早々に諦めて、外的な条件である環境改変の方に着手してしまった。環境への適応とサバイバルが進化の本質で、自らの変化のことだが、人類は「進化」ではなく、道具である技術を「進歩」させる方を選んだ時点で進化と縁を切った。

実際、考えが一巡してみると、70年代にわれわれはすでに「人類の進化と調和」と高らかに宣べ伝えるべきだったのかもしれない。生物学的進化は緩慢であり、また、周囲との調和無しには実現できないから。少なくとも人類は12,000年間は進化など全くしていない。道具を発達させたために生命的には「退化」した。(実に短期的な出来事だが。)

「食べない」ことを恐れない心

Thursday, July 7th, 2011

Twitterでのつぶやきをまとめて転載。

先進国が飽食を止めれば世界の飢餓が無くなるというのはおそらく本当。医療が病気を生産して医療業界を潤しめているように、われわれの「食べねば」という強迫観念と習慣的過食が食糧・食品業界の繁栄を支える。実はわれわれはわれわれが思っているほどに「食べる」必要はなく、栄養失調の心配もない。

「食べる」というエンタメは、映像の遥か以前に発達を開始した超大産業なのだ。この牙城はそう簡単に倒せない。医療費は国費を圧迫し、医療関係者が食べていけることのためにわれわれは多額の保険料を支払わされている。

医療費の爆発を抑えることのできる最終兵器。イスラムのラマダンのように、習慣としての定期的な「断食:ファスト」を行う。食事を抜いたり食べないことを恐れぬ心理を養成。国民は適度に痩せ、痩せることによって多くの習慣病は激減する。実は長期的には国益にも適っている。

「超・汎性欲論」でフロイトを再評価する

Thursday, June 30th, 2011

Twitterでのつぶやきを備忘録として転載。

箱崎総一氏の古典、『カバラ—ユダヤ神秘思想の系譜』を通読していて、ふと跳んだ考え。

フロイトが無意識という精神の未知な領域を発見したまでは良かったが、汎性欲論でその未知領域を総て説明できるとして、その線で自理論のまったき教義化を図ろうとした、というのがユングのフロイト評だとしよう。

だがユングの元型論も、それを突き詰めて行った先には、チベット密教の伝える男女神による宇宙的な媾合図のようなスケールの《性欲》がコスモスを充たしているという真相に行き当たらずには済まないのでは、という想像もある。だとすれば、これは言ってみれば「超・汎性欲論」なのである。

こういう批評が一巡した先の、フロイト再評価というものがあるのかもしれない。 つまりフロイトさえも気付かなかったかもしれないような個人や人類のレベルでない、宇宙的リビドー説。元の鞘に戻ろうとする物質と反物質の分離、ないし、宇宙的な《精神》と《物質》の婚姻。

審美眼ならぬ《審意眼》を育むべきわれわれの時代

Wednesday, June 29th, 2011

6月28日にアップしたカンディンスキーに関するエッセイについてのツイートを備忘録として転載。

自分の書くもののポイントはいつも同じ。音楽は特権的に(例外的に)「意味の表現」という義務から逃れている。だが他の創作物(特に美術や映像)は、意味の呪縛から逃れられない(し、逃れる必要がない)。

そもそも無意味に人を付き合わせるなよ、っていう正論があって欲しい。壁紙の柄に意味を求めないような意味で、「美術や映像に意味を求めるな」と言うのであれば、そのような「創作品」に、われわれ意味の世界を追求している者たちが付き合う気はないし、皆もそんな物の鑑賞は時間の無駄と知るべきだろう。

だが、壁紙にも実は意味の残滓はあり、それでさえも、意味の呪縛から逃れ得ぬ。そして逃れようとする必要さえないという問題圏も別に存在することは認めてもいい。

一方、壁のシミのようなものである限り、人が「意図して」作る必要もない。そんなものは自然と偶然の営為に任せれば良い。それは壁自身に、朽ちて行く人口構造物に、あらゆる変化して行く無常の世界と時間の営為に任せれば良い。見渡せばいくらでも落ちている、自然界に、そして廃墟の中に。美を見出しうる要素だけなら。

カンディンスキーのような卓越した表現者への対峙法として、ゆるされるのはただひとつ。「意味、意味、意味」である。美を美として感情的に享受する嗜好品であるであるようなものを作るのに、どうしてあれだけの思惟が必要であろうか?(つまり、彼の作品は美の探求とも嗜好品の制作とも関係がない。)

そうした真摯なる芸術家の営為としての作品に対しては、明確に一定のテーマを持った中世の宗教画に対峙するのと同じ態度で臨むべきだし、そういう態度で臨む必要のないものに、そもそも価値などはない。カンディンスキーも、時代の影響を免れ得なかった点で、一度は「無意味への傾斜」があったが、幸運なことにそれは一過性の「病」だった。彼はすぐにその病から立ち直った。彼が幾何学的な表現を見出すまでの長い過程は、その抽象への病と解することができる。

創造的作品のそれぞれにはそれぞれの得意とする役割がある。非対象性などという「手法」は、音楽に任せておけば良い。われわれの世界には「抽象画」などというものがあるらしいが、音楽がその本質的な意味でそうであるようには、抽象であり得ない。対象を持つのが、絵画であり、映像なのだ。

したがって映像の詩人などと讃えられたタルコフスキーも抽象の映像作家ではない。つねに具体的な対象を持ち、すべてのカット、セリフ、音楽、あらゆるものが意図通りであり、一定の意味を持たされている。どう受け取られても良い、などという表現者としての動機を放棄するようなことは一切ない。

われわれは意味を込めた作品をそうでない嗜好品から区別する審美眼ならぬ審意眼を持たなければならない。

6月29日

赤い林檎に

Saturday, June 18th, 2011

赤い林檎に唇寄せて黙って見ている青い満天の星空。
いつまで耐え難きを耐え、忍び難きを忍べと云うのか。
あの星の一つになるまでか。

原発事故を原子爆弾と比較するの愚

Friday, June 17th, 2011

原子爆弾による「被爆」とそれを生き延びた人々を例にとって、今回の被曝被害を過小に評価しようとする論理が一部の「識者」の間にあるようだが、ウラン235 約60kgを一瞬で、「パッ」とほぼすべて「燃やして終わり」の原爆と、広島型原爆の1200倍以上にあたる、総量2466トンの福島第一原発のウラン燃料(プラス毒性の強い使用済み燃料)を比べることのナンセンスを分かっていない。

ちなみに100万kW出力の原子力発電所で燃焼されるウラン 235の1日あたりの質量は、2857kg。たった一日で、広島型原爆の50個弱の量のU235が消費される。つまり、20万人の人間を焼き殺すのに使う熱量の50回分くらいが、1日でたったひとつの原子炉では生み出される。

でも考えてみれば当然だが、ずうっとタービンをドライブし続ける膨大な熱量とパッと一瞬燃える爆弾の熱量が同じレベルであるはずがない。(むろん、原爆の悲惨さを過小評価するものでもない。それは別の問題圏の話。)

参考: 消費するウランの量について

夢見ず眠る夜毎の漆黒について

Friday, June 17th, 2011

Twitterから転載。

夢見ずに眠る毎日はほとんど毎晩死んでいるみたいなものだが、嫌がらずに就寝できるのは、ほぼ確実に起床できると信じているからだ。ただ「これ」が永久に続くとしたら我慢できないものだが、もっと我慢ならないのは、我慢ならないと感じる自我が消滅できるという考えが、他ならぬ自我に芽生えようとする傾向だ。

自我の消滅が信じられぬ自我が、深夜、漆黒の無我から目覚めると、自分も例に漏れぬ「死すべきものたる」現実に驚愕する。その衝撃が薄らいで行く時に、生きることの恐怖の永劫継続より、いつか無に帰する方がどれだけ楽かとも同時に思う。そして、死の訪ればかりは平等であることに幾ばくかの慰めを覚える。

解釈の重層性は結果であって目的ではない

Tuesday, April 26th, 2011

Twitterに掲載されたエンデの引用より

芸術がひとつの完成したフォルムになったとき、それは単一の「正しい解釈」を生むものではなく、重層的な意味を持つものになるからです。それでいいのです。いや、そうでなければ困る。だって作者の方でも、創作に従事するとき一元的な意味を狙っているわけではないのですから。(ミヒャエル・エンデ)

筆者はエンデを尊敬していますし、多くの点で共感を持っておりますが、この言説は手放しで評価できません(ですます調になっているので、この文章もそれに合わせます)。《芸術がひとつの完成したフォルムになったとき、それは単一の「正しい解釈」を生むものではなく、重層的な意味を持つものになる…》ここまではいいです。次がいけません。「それでいい」はずもなく、また「一元的な意味を狙っているわけではない」というのも創作者として不誠実です。自分なりの言い方でもっと正確に言えば、こうです。

作者はどこまでも一元的な意味を追求し、それを表現すべきです。最初から重層的だと言う作者を私は信じません。たったひとつの、誰もに関わる普遍的に重大性を持った深刻な内容を象徴的に表現すると、それが如何に絶対的な確信を以てなされたとしても、それが受け手側に重層的に読めるというだけのことで、作品が重層性を持ってしまうのが現実であるということに過ぎません。しかも作者にさえ気がつかないようなレベルで重層性を持っているということに、後から気付かされるというのが正しいあり方です。

たったひとつの重要なものを伝える気概もなく、ただ受け手の数だけの意味がある、などと取れるような言説は、詐欺でしかありません。それはまた、受け手の洞察力や想像力をバカにした言い方です。

自分が緊急性を感じながら「あらゆる手立てを尽くして正否を明らかにしなければならないほどに例外的に重要な論件」を、なんらかの作品を通して表現する時に、それが重層的に解釈されて良い、などと思うはずがないのです。その重層性への許容というのが、このエンデのケースにもあるように、成功した表現者特有の余裕と寛容さを以て語られるのを聞くことがありますが、それはいかにも嘘っぽいと、われわれは即座に感知しなければなりません。実は創作意図は《ひとつ》であって、われわれが、われわれの理解のレベルに併せてさまざまに解釈しているに過ぎないということを、少なくとも受け取る側が思わなければならないはずです。

その上で、別の解釈が可能なことを面白がるというのは、態度としては正しいです。そして、ひとつの真実がある別の真実のありかたと似ていることに気付くのは無価値なことではありません。でも、それはひとつの真実に到達してこその言い分でなければならないのです。

繰り返しますが、「たったひとつのことを指し示している」というのが表現者の持つべき意図であり責任だというのが筆者の考え方です。反論や反発を覚悟の上で——論証にはなっていませんが表現する者の一人として——これを筆者は確信しています。