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死刑制度反対と法遵守の間(はざま)で

Tuesday, August 10th, 2010

千葉法務大臣が死刑執行のサインをし、それに引き続き死刑が執行されたことは、彼女が死刑廃止論者として知られていたこともあって、どうして死刑執行にゴーサインを出したのか疑問の声も聞かれたし、とりわけ死刑制度への反対派から多くの批判が相次いだ。たしかに執行にも立ち会ったともいう彼女の直後の説明が、万人に分かりにくかったこともあり、また彼女が選挙で当選しなかった直後の動きだったことも受けて、相当の逆風が彼女に対しては吹いたようである。

しかしenteeは、千葉法務大臣が単なるバカとも思えず、何か説明の困難なある考えに基づいて、この度の決断に踏み切ったのではないか、と直ちにいつもの想像の羽根がのびたのであるが、つい先ほどそれを裏付けるようなインタビューの記事が載った。

■ 死刑廃止と執行のはざまに揺れる「千葉法相」の言葉

曰く、法務大臣になったときにこのような職責があることは認識していたとあり、どうやら彼女にとって自分の死刑廃止への個人的な思いと、法務大臣としての役割を、分けて考えていたらしいことが伺える。

Q:今回の執行についての大臣の御決断にいろいろな見方があると思うのですけれども,大臣になられて,法務官 僚に説得されて押し切られたのではないかという見方もありますし,実際そういうふうなニュアンスの報道もあったかと思うのですけれども,死刑の執行という ものについて,大臣になられてからお考えを変えられたということ,あるいは率直に言って法務省の官僚に説得されて考え方を変えられたということはあったの でしょうか。

A:それは,私は全く当たっていないと思います。法務大臣を拝命をさせていただくということは当然のことながら,そのような職責を負うことなのだということは,私は当初から,きちっと念頭にありました。

死刑を支持する人間が法務大臣になると死刑執行のオンパレードになり、死刑に反対する人間が法務大臣になるとその執行が止まるというのは、実は考えてみるとおかしい。もしそのようなことが当たり前であるとなれば、大臣のポストは(建前はともかくとして現実自体が)自分の信条を現実に反映させるための道具ということになり、死刑を実質的に止めるためには心情的に死刑廃止の論者を法務大臣に据えるということが、反対派の手段となってしまう(そしてそういうことは過去にあったように思う)。しかし何かのきっかけで死刑制度支持者が法務大臣になってしまえば、突然死刑が定期的に執行される。これは、実のところ、法のサダムルところに従うという法治社会の原則*からはほど遠い。

[* もしソクラテスが生きていたらば、「悪法でも法は法」と、死刑判決に粛々と従って死に赴いた彼なら日本の現状を嘆いただろう。しかし、ソクラテスが現代社会の死刑制度を支持したか反対したかはむろん分からない。いずれにせよ、それを彼が問題にしたとして、そのことと、その法の定めるところに従うということは、別の問題だったことは間違いない。自分に置き換えて考えると、とても筆者にはそのような「区別」は無理だと感じるが…]

例えば、ある具体的な冤罪事件で死刑判決を受けた人間がおり、その人物を救う唯一の手段として、死刑廃止論者を法務大臣の席に送り込み、死刑執行のサインをせずモラトリアムを行うというのは、冤罪の被疑者をとにかく助ける現実的な戦術とは言えるだろうが、死刑制度そのものを根本的に無くすための実効的な戦略とは言い難い。千葉法相は、本質的な法制度としての死刑廃止への路を開くために、このような傍目からは分かりにくい方法を採ったのではあるまいか?

もし心情的に死刑廃止論者である法務大臣の就任がたまたまずっと続いて、「実質的に死刑が停止」したとしたらどうなるだろう。逆説的だが死刑存置/廃止についての議論は一向に始まらず、したがって法制度としての死刑は永久に廃止にならずに、曖昧なまま法的には継続し、必要とあらば、また実効的に蘇ってくることになるのだ。千葉氏は、法に則って粛々と刑を執行しつつ、「はやく、正規の方法で私(法務大臣のサイン)を止めて!」と言いたいに違いない。それが分からずに、われわれは彼女の選択を批判をし、騒ぐばかりだ。そもそも法務大臣の個人的判断にゆだねられる法制度とは何なのか、ということについての疑問がなさ過ぎるのではないか?

千葉法相は、少なくとも自分の信条が明らかで、且つ、変わらぬものであるとして、その信条の実効化の手段としては「自分のポストを利用しない」というa public servantとしての筋道(スジ)を通し、その役割を明らかにした点で、本物の政治家であり、大人物である。(そのために囚人が死刑にされることはまことに残念なことであるが、それは異なる問題圏に属する話だ。)そのひとつの証拠としては、彼女の死刑廃止への信条のために、殺す相手を最期まで見届けるという、殺人者(死刑執行人、あるいは「裁き手」)として、本来もつべき「義務」さえ果たしたところに見出せる。誰かにそれをまかせて自分はどこ吹く風で、死刑制度の支持表明だけはするという凡百のネット上の「死刑支持者」たちとは本質的に違う。

「死刑はいけない。現に私が法務大臣だったときに死刑にサインしなかったし、私のときは誰も処刑されなかった」という戦術的な「死刑執行先送り」の実績ではなく、法務大臣として重責を果たしつつ、しかもその処刑の現実を逃げずに立ち会い、というのは、単なる感情的な死刑反対論とはまったく一線を画するなんらかの《確信》があるように思えるのである。それはインタビュー記事における彼女の返答の行間に伺える。

むしろ「言い訳」がないところが、万人になかなか受け入れられないマイナス点なのだろう。彼女の行為には、このような「解説」がおそらく必要なのだ。

いずれにしても、その辺りの事情を理解するひとは、このインタビュアーである保坂氏も含め、どうも少ない気がする。(ひょっとするとこのインタビューの後に何かを悟った可能性はあるのだが。)

虫食いとなる!《みどり》のゆうちょ銀行、終焉への布石

Monday, February 8th, 2010

日本人が額に汗して稼いだお金をすべて吸い取ってそれが当然のことであるという態度のアメリカ合州国。65年前に決した勝負の結果の延長線上に支配と被支配の構造を固定化した覇権国アメリカ。

以下は、朝日新聞に掲載された短い記事だ。

(貼付け開始)

ゆうちょ銀の資金、米国債で運用も 亀井大臣が見解

2010年2月4日1時30分

 亀井静香金融・郵政改革相は3日、日本郵政グループのゆうちょ銀行の資金運用について、米国債や社債などに多様化していくべきだとの考え方を示した。郵政見直しではゆうちょの預け入れ限度額の引き上げも検討されており、亀井氏は資金の増加が見込まれるとして、運用先も広げるべきだとの立場だ。

 亀井氏は記者団に対し郵政見直しについて「手足を縛られて営業をしているわけだから、現実にあった形にしていく」と発言。昨年12月末で約180兆円のゆうちょ銀行の貯金残高の増加が見込めるとした上で、米国債など日本国債以外の運用が「もう少し増えると思う」と述べた。

 ゆうちょ銀行は昨年12月末で約180兆円を有価証券で運用しているが、9割近くは日本国債で米国債はほとんどなく、社債も約12兆円にとどまっている。

(貼付け終了)

オバマ大統領の登場とその人気の急落。これは選挙前から仕組まれていたシナリオ通りの流れなのであろう。米政権が共和党から民主党に変わってアメリカの政治や外交政策が変わったかと言えば、少なくとも植民地である日本に住む国民の目から見ればまったくその本質は変わっていない。口先ではたくさん甘い約束をして安心させ、リベラルな外交方針を見せて期待を膨らませておいて、その実、大戦後に固定化された日本からむしり取るその日米関係に、なんの本質的な転換もなかった。

今回の亀井大臣の「見解」が、実際はやる気のない、対アメリカのリップサービスであるのか、あるいはそのような体裁をとった日本国民に向けての警鐘としての意味を持たせているのか、その本質は憶測する以外にないが、「ゆうちょ銀の資金、米国債で運用も」というメッセージは、われわれほぼすべての日本人にとって極めて重要な意味を持つ。

「土日に自分の預金からお金を下ろしてもATM手数料を取られない。さすが郵貯だ」などと思っていたら、この便利で競争力もある日本最大の銀行のお金は、処分することのできない紙切れを大量に購入するために使われることになる。

つまり、今後、日本人の預けているゆうちょ銀行の預金が間接的に、将来回収できる見込みのないドル建ての債券に置き換わっていくということだ。「どこに貯金をしようが、変わらない、好きな時に下ろせるなら、どこも一緒」と考えているのであれば、それはお目出度いとしか言い様がない。われわれが自分の意志で米国債を買うのではなく、ゆうちょ銀に口座を持っているすべての利用者は、それを間接的に買わされるのだ。そして、(当然の如く)それらの債券が焦げ付いたとき、そのゆうちょ銀が不良債権を抱えることになる。これは自分たちの預けたお金が返してもらえなくなることと全く本質は変わらない。

ネットを見ていると、このことと小沢の不起訴の決定がタイミング的にリンクしているという単純な事実から、 >> 小沢氏不起訴の交換条件に「ゆうちょ銀行の180兆円の資金運用を米国債でする」ことになったのではないか? << などと憶測するスジが出てきているが、これは原因と結果を読み違え、小沢を更なる窮地に貶めるものだ。小沢は確かに不起訴という結果を戴いたが、すでに彼はこうした一連の「不祥事報道」によって実質的に裁かれているのである。起訴になったか不起訴になったかという違いは、誤差の範囲である。むしろ、彼はこうしたゆうちょ銀行のあやまった資金運用などをさせないように抵抗していたのであり、むしろ小沢=亀井らはその闘いに敗れたのである。つまり、まさにこうした結果を招来しないようあらゆる努力をしていた小沢が、自分の身柄の自由(不起訴)などと引き換えに国民の金をアメリカに差し出す様なことをする筈がないのである。そうした読み違えは、自分らの本当の敵と味方の区別を読み過つ重大なる過失である。

彼への圧力は、起訴/不起訴の決定の日が近付くに連れ出てきた米トヨタのリコール判断という、いわば「街一つなくなるほどの大規模の《爆撃》」を通して行なわれた。小沢への圧力は米政府への服従とゆうちょ銀行の金の運用という《実績》を見せることで一旦の終息を見せるかもしれないが、まさにこれこそが小沢が守ろうとしていた日本人の国益であったのだ。

アメリカが要求していることは小沢の政治的屈服である。しかるに、小沢に残されたものは、ひょっとすると「不起訴」という分かりやすいメッセージで彼はメンツだけを保った状態のまま、政治的な屈服を認めさせることだったのかもしれない。つまり、小沢は既に負けを認めてしまった可能性があるということである。考えたくないことであるが。

こうした重要な政治の動きがヴァンクーヴァー五輪などのお祭り騒ぎの陰に隠れて、きちんとモニターできなくなるのは、われわれにとっての大きな損失だ。

われわれができるひとつのこと。それは全国にネットを持つ郵貯の窓口に行って、「もしあんたらが《米国債》なる不良な債権を運用先として購入を実行に移すなら、自分たちの預金を守るために資金を引き上げざるを得ない、つまり預けている預金を全額下ろす。だからそうして欲しくなければ上司にそのように言え」と伝えることだ。それを全国で展開するのだ。これはゆうちょ銀利用者による全国規模のボイコットである。

預金が無くなればそもそもそのお金を外資に垂れ流す様な「運用」することはできない。

(more…)

オヤジ殿は、「鉄砲玉」を街に放つか?

Thursday, September 17th, 2009

相手を脅威から守ると見せかけて、実はその脅威を利用して相手を脅す。これはヤクザの古典的な脅しの手法だ。

さっそく民主党圧勝のニュースを受けて、入った来たのが添付してあるニュースである。すでに古くなりつつあるが、やはりアップしておく。

北朝鮮ウラン濃縮

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結論から言うと、北朝鮮による「ウラン濃縮」のニュースは、民主党圧勝と、日本で始まりそうな気配のある対米不服従傾向への牽制球である。もちろん投げて来ているのは合州国である。

国内で報じられているニュースの上っ面だけを信じるならば、北朝鮮によるこうした挑発行為は、アメリカ合州国政府への示威行為のようなものに写るかもしれないが、そうした挑発行為の直接の対象は日本である。

[ここで書くことは朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)への一方的な批判の言辞のように響くかもしれないが、それは便宜的に問題圏を現在進行しつつある政治状況についてだけに焦点を当てているからである。そもそもどうして北朝鮮が現今のような状況になっているのか、ということは歴史的な文脈で捉えなければ理解できない。過去の日本の半島への政治的関与が、実は大きな影を落としていて、そのために朝鮮半島はふたつの国家に分断されているのだし、同族同士大いに血を流した。当然、日本は朝鮮半島に於けるこの殺し合いの一方のサイドに与したし、それによって経済的にも潤いもした。そういった歴史的背景のために北朝鮮が日本のことを恨みに思い、あからさまな敵視をしているという実情があることが、歴史の因果関係の文脈として捉えるほどに、一層分かってくるのだが、そうした一切を一旦無視することでしか、以下のことは書けないのである。]

金正日という存在はヤクザものの映画で譬えるなら、いつでも目に物言わせてやろうと考えて自分の活躍のチャンスを狙っている、熱過ぎる「鉄砲玉」のような役どころである。彼を押さえつけている手を離せば弾けるように飛んで行って、こいつだと思うヤツを刺そうと思っている。もちろん彼がここまでアツくなっているのは、そうなるように嗾(けしか)けている幹部たちがいるからだ。これは、伊丹十三監督作品の『ミンボーの女』において柳葉敏郎演じる「鉄砲玉」を想起すれば良い。

北朝鮮の権力と合州国の権力がすでにテーブルの下である種の結託していると考えると、北朝鮮の動きはすべて「オヤジに認めてもらいたいばかりに手柄を挙げることしか眼中にない行為」として読める。北朝鮮が繰り返し訴えているように、自分たちを攻撃しない約束を取り付けたいというのはあるかもしれないが、表面上、合州国政府はそのような相手に都合の良い約束をしないように見えつつも、裏では「攻撃はしない」という合図をすでに送っているはずだ(むろんそれが最後まで約束を守り切ることは意味しないものの)。

むしろ北朝鮮がそのように振る舞うことで極東アジアの地で「適度の緊張」を維持することが合州国の国益に適っているので、合州国政府はそれを本気で止めさせる気はない。それどころか、合州国政府からの具体的指示で北朝鮮がそのような役どころを演じていると考える方がむしろ自然である。つまり、過去の核実験も含め、基本は許された範囲で行なうジェスチャーなのだということだ。

このことがウラン濃縮作業というのを本当にやっている可能性を否定するものではないが、こうした一連の行為、そしてそれをやっていると声高に宣言する行為は、アメリカが自ら武力を背景に他国を脅す(かつてリビアのカダフィに対してやった方な)よりも、自分自身の評判を落とすことなく、しかも必要な脅しという効果を上げることができる。「ウチの若いもんの中には、ちぃと血ぃの気の多いのがおるさかいナ、早まるな言うても聞かん。こちとらは精いっぱい抑えてるにしても、気ぃつけた方がええで」と、アツくなって今にも人を刺しそうな「鉄砲玉」を見せるのである。嗾けておいて、自分たちは「せいぜい止めようとしているんだが」というジェスチャーだけを採るわけである。

抑えている手を離して鉄砲玉を「走らせ」た時、幹部たるオヤジがどうするかによって、脅された相手からオヤジへの恭順を引き出すことができる。鉄砲玉の手にするドスが日本の脇腹を刺すすんでのところでオヤジが鉄砲玉を徹底的に叩けば、オヤジは面倒な手下(鉄砲玉)の厄介払いと、日本からの恭順の両方を引き出すことができるのである。

問題はオヤジが本当に今回の日本における状況を、どこまで「抵抗」であるとみるかである。復興後の40年間、むしり取られるだけむしり盗られ、それでも「守ってもらっているから」の一点だけでそれを我慢して来た。だが、そのために自分たちの血と汗と涙という努力で稼いで来た自分たちの財産を巧妙に国民から隠しながら宗主国に貢ぐことを可能にして来た55年体制が終わったのは、それが選挙民のある種の「無知」によるものだとしても、国力そのものを貢ぎ物のために落として生活に困窮することがこれもはやできない、というところまで来ている証しだ。

こうした第三の脅威という「鉄砲玉」を使って、巧妙に自分たちの影響下に置こうとする帝国の脅しに屈しないためにも、われわれの外交戦略は賢くなければならない。そのために必要なのは、あのオヤジ殿以外との関係の回復である。つまらない「愛国心」に惑わされることなく、安全な国の状態を維持するための多元的外交が今こそ必要なのだ。それを真剣に行なっている良心的行為こそが本物の国益を考える者の名に値するのだ。

権力党の出現
(二党独裁制の方がマシだった、と嘆息する日)

Saturday, September 5th, 2009

何かが腑に落ちない。何かがおかしい。(09年)8月30日の衆院選以来の、と言うより、衆院選挙戦に向けての準備が開始されて以来の、メディアを中心とする動きなど、すべてに対し畏怖のようなものを感じる。これは本当に「愛でたい状況」なのか? 勝利を祝っている場合なのか? 念のために言っておくが、自民党の崩壊は言祝ぐべきことである。

これは政治家・小沢に対する評などとは根本的に異なる問題圏についての話。何度も言うように、政治家に対しての「全面的信頼」や「虚偽の有無」ということを云々すること自体がナンセンスである。なにしろポリティクス(政治)なのだから。したがって今回の選挙の結果──民主党への雪崩的な傾斜──についての「政治家を巡る評」というよりは、そのような選挙結果を招来させた「有権者やメディアを巡る評」というのを数日以内で何らかのかたちでやらねばと思っていた。

そう思っていたら元外務省主席分析官の佐藤優氏がさっそく選挙翌日の東京新聞夕刊で今回の選挙戦について語っていた(おそらく選挙前に用意されていた原稿である)。瞬時に彼が自分の言わんとしていることを言語化しているのを悟った。だからほとんどつけ加えることがないほどなのであるが、若干の自分なりの論考をしてみたい。

東京新聞「放射線」佐藤優(08.31.2009)

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いちばんモヤモヤしていたところは、こうした一政党による圧勝という方向性は(その政治指導者が誰であるかということとは別に)、いわゆる戦前の国家社会主義ドイツ労働者党を圧勝に導いた民衆の熱狂にも近い気がするのである。自分は民主党が唯一にして無二の独裁党になるということを強調したいのではなくて、結局日本の有権者は何らかのかたちでの一党独裁を期待しているのではないか、という予感について話しているのである。つまり名前が自由民主党から「自由」が消えて民主党になるというだけの話なのではないか、という予感について…

一党独裁と二党独裁のどちらを選ぶかと言えば、二党独裁の方が比較的マシである。だが、そもそも二大政党制(二党交代独裁制)についてはその有効性が疑わしいというのが自分の立場であったし、それを各方面の「識者」が期待しているらしいことも分かっているが、残念ながら今回の民主党の圧勝は日本の政治を彼らの期待するような「二大政党制」には導かない。これはむしろ徹底した一党独裁への布石が敷かれたことを意味しないか? これが杞憂であることを望むがそう感じられて仕方がない。

まず、ひとつは今回の民主党の圧勝を導いたのが、国民の利益を代表していると思えないメディアの力によるところが大きいこと(当たり前だが)。そしてそのメディアによる「世論誘導」をこれほどの規模で行なえたこと自体が、さらに大きな権力構造の存在を裏付けているように思えること、がある。うまく説明できないが、結局日本が某大国の属国であるという前提的事実が、そう簡単に「国民の総意」で覆せるものとは思えない、と言い換えた方がいいかもしれない。つまり今回の民主党の圧勝さえも、植民日本の宗主国のシナリオ通りであったとしたら、今後、この体制の中でどのような某大国への利益誘導が成されるのか、ということへのモニターが欠かせないのである。政治は結局政治であって、それさえも動かすのが財界(マネー)であったり「官僚界」(貴族階級)であったりするわけだから。

佐藤優氏の東京新聞の「放射線」にこういうところがある。

(引用開始)権力は空白を嫌う。自民党が崩壊した隙間を、民主党が埋めたにすぎない。その結果、真の「権力党」が生まれた。(略)社会にはさまざまな利害対立がある。その社会の部分を代表するのが政党だ。部分の代表者が議会で討論し、合意を形成するというのが議会制民主主義の基本だ。ただし、権力党はこのような政党ではない。権力党は部分の代表ではなく、全体の代表であるという自己意識を持っている。(引用終了)

これはまさに自分が心配をしていたモヤモヤの部分を、一気に払拭する状況把握であると思う。

彼はこうも言う。

(引用開始)ソ連共産党がこのような権力党だった。権力党は事実上、国家と同じ機能を果たす。これは民主主義にとって危険だ。(引用終了)

彼は「民主党に対する世論のチェックが重要になる」と結んでいるが、ここだけが自分の見解と違う。今回のことで、この時点で民主党の動きに不用意なブレーキを掛けるような、すでにメディアが開始しているような生き残りの自民党政治家に共感しているような中傷報道の類は、世論のチェックとはまったく質の異なるものだ。無論そのようなことを佐藤氏は言っていないが、このコラムを見た読者の中にはそのように思う人間もいるかもしれない。民主党に対するモニターは必要だが、これまでの自民党政治による国民生活のダメージを癒すための政策ならば、一気に進めるべきだと思う。ここでわれわれは、「すべての政党に対する国民によるチェックが必要だ」ということなのではないかと思うのである。

徹底して嫌いになった小泉政権の残した(と信じられた)負の遺産を清算すべく、自民党に対して有権者が初めて厳しい裁断を下したら、嫌いな小泉の目指した「自民党をブッ壊す」という公約が実現した。

「放射線」にて佐藤優氏が指摘したように、自民党の自滅が小泉の背負っていたミッションであるとするなら、嫌いな小泉のゴールを国民が自らの投票によって完成したことになる。そして、そのミッションを小泉に背負わせた影の立役者(オヤジ)は、そもそも誰だったのかということを思い出さなければならない。

最高裁判所裁判官の国民審査で断じて「×バツ」を付けるべき裁判官

Wednesday, August 19th, 2009

(1)× 竹?博允(たけさきひろのぶ)  最高裁判所長官 

(2)× 那須弘平(なすこうへい)  最高裁判所判事

(3)× 竹内行夫(たけうちゆきお)  最高裁判所判事

(4)× 近藤崇晴 (こんどうたかはる)  最高裁判所判事

(1)竹?博允 

最近導入された裁判員制度を実現させたという実績だけで長官になった。

(2)那須弘平

佐藤優(さとうまさる)氏の 最高裁への上告を、この7月1日に棄却(ききゃく)。

(3)竹内行夫

小泉政権時代に、駐レバノン大使だった天木直人(あまきなおと)氏が、「アメリカべったりの小泉政権のイラク戦争支持に反対する」と言って、外務省の方針に公然と刃向(はむ)かって外務省を解雇 (免職、めんしょく)になった天木氏のクビを切った責任者。鈴木宗男(すずきむねお)氏と佐藤優(さとうまさる)氏を、外務省の北方領土問題のことで罠(わな)に嵌(はめ)て失脚させた時の責任者。

(4)近藤崇晴

植草一秀氏の「痴漢(ちかん)えん罪事件」の上告棄却(じょうこくききゃく)をした裁判官。

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ミサイル報道を巡る、いくつもの矛盾した疑問

Saturday, April 4th, 2009

とにかくどの前提を正とするのかという判断で、いくつもの段階に異なる問題圏に属する疑問があり、簡単な結論は導けないというのが実感である。しかるに…

「人工衛星は簡単にミサイルに転換できる」という主張は、おそらく理論上「正しい」のだが、だからと言って他国の発射物を無条件に撃ち落とすという主張に正当性があるのか? この際それは関係ないという論理もある。その主張の理屈によって、ある国が打ち上げるものを他国が迎撃できるのであれば、日本が種子島から打ち上げられる人工衛星は他国によって迎撃されていいということになる。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の打ち上げる人工衛星だけが危険であるなら、その根拠はどこにあるのか? これが疑問の第一。

今回打ち上げようとしているものが、確かにミサイルであった場合(その場合その弾頭が何であるのかというのも確かめる必要のある内容だが)、それによって達成しようとしている目的を、本来われわれは第一に問題にすべきではないのか? それが単なる挑発行為だという場合、その挑発行為によって、一体北朝鮮は何を得るのだろう。そしてその行為による最大の利益の享受者は誰だろう。こうした疑問はむしろ普通に問われていいことだ。だが、それを正面切って問う動きがあるように見えない。

では、今回のことが「挑発行為」だとして、その行為は文字通りの意味で「実在する」のであろうか? これは疑問の第三。われわれ一般市民はテレビの報道を鵜呑みにするしかない立場だ。実在しないかもしれない行為、確かめようの無い「事実」によって、われわれは戦争状態に入るべきなのだろうか? そもそも飛ばすべきものが北朝鮮にあるのか?(その飛ばすべきものが人工衛星であるのか核弾頭であるのかは問わずに) 

今のところ、「飛ばすべきもの(= 核兵器の場合)」が完成していると主張しているのは、北朝鮮自身と合州国の国防総省のフライング発言のみである。だが、北朝鮮に脅威があるというこのリークによって喜んだのは北朝鮮自身だった。これは彼らが自身を脅威と見られるリスクを選んでいるということだ。これは唯一確かなことだ。

だが、米政府の正式な立場は、北朝鮮を核保有国とは看做さないというもので、その建前を信じるならば、「北朝鮮に脅威は無い」ということになる。これも矛盾だ。これは疑問の第4だ。

さて、この唯一確かなこと(すなわち自身を脅威と見られたいという北朝鮮の意志)、そしてそれを脅威と看做そうとする日本政府の紋切り型の対応は、単なる判断ミスではないのか? 北朝鮮がそう見られることで得られる利益とは、単に交渉を有利に運ぶための、すなわち「力を背景にした外交路線」のためのライセンスなのか? いやむしろこれはどこまでいっても手段であって目的とは言い難い。脅威と見られることを是とする理由が分からない。これが疑問の第5だ。

一つ想像できるのは、北朝鮮のあらゆる行動はすべて合州国の目論み(あるいは想定)によって動いているといういつものアレだ。つまり発射台における準備も、かつての核兵器完成の喧伝も、すべて合州国の国益に適っているという隠れた事情だ。

それが実体的なものか否かにかかわらず、北朝鮮の主張するように、彼らに脅威を感ずべき根拠があるとすれば、それは日本の安全に影響があり、日本の政府も無関心でいることはできないという政治の世界での「常識」を利用した陰謀である。日本に戦争をさせたがっている(あるいは戦争に参加させたがっている)のは、日米同盟の邪魔となる憲法9条不要論を繰り返し唱えるアーミテージの発言を牽くまでもなく、実は合州国政府であって、それを北朝鮮との密約によって金正日に「悪者」を演じさせて、その演技料を支払う。これは、サダム・フセインの支配するイラクで起きたことを考えると、実にリスクの高いパフォーマンスであるとは思うが、失うものがすでにない北朝鮮にとっては、ことによると戦争という異常事態を利用しての現状打開を(金総書記の意志と関係なく)模索せざるをえない勢力が北朝鮮に実在することを意味するかもしれない。

戦争と言うが、どのような戦争をわれわれは想定すべきなのか? 日朝双方から超音速ジェット機が飛び交い、互いの都市を爆撃し合うような戦争なのか? それとも日本海沿岸の各地にボートを着けて歩兵部隊が一斉に上陸してくるような戦争なのか? 

どう考えてももう一つ確かなことは、この戦争によって利益を上げるのは一般の市民ではない、ということだ。

原因不明の爆発が東京の都心で起こり、「空から何らかの飛来物が来るのを観た」とかいう証言や、特撮画像のひとつがあれば、北からの攻撃だと看做されるのだろう。戦争など、それをやる意志さえあれば、いくらでもその理由は捏造できる。ということは、問題は、その《意志》を持ってしまっているかどうかなのだ。多くの日本人はそのような《意志》からは縁遠いように見える。

「意図的なインフレ策」としての原油価格高騰

Friday, June 13th, 2008

経済のことはよく解らないが、わからないなりに現今の原油価格高騰という現象の隠れた意図というものを考えた。

仮に、借金をしていてほとんど返済の見込みがないという人がいて、その人がモノの値段をある程度自由にコントロールできるとしたら、その人はあらゆるものの市場価格を上げて現金(貨幣)の価値を下げてしまうことを企図するかもしれない。動機の面でも技術の面でもそれが出来るのは合州国である。

貨幣の価値が下がり、膨大な量の現金を積まなくては何も買えないという状態が、インフレーションだ。インフレ策で得をするのは、通常借金をしている人間だというのは相場が決まっている。1億ドルの借金も、貨幣価値が半分になれば実質5000万ドルの借金と変わらないことになる。ハイパーインフレによって価値がもっと減って10分の1になれば1億ドルの借金は実質1000万ドルにしかならない。

返済が絶対に無理とわかった時点で、ハイパーインフレへと経済を振らせるという最後の手段は、常に合州国の手にあった。だが、どうやってモノの価格を上げるか? それは、やはり原油というあらゆる製品、そしてエネルギーの元である資源の価格を上げることが手っ取り早いだろう。

もちろん、インフレという現象に対して、生活者の給与がそれにぴったりと付いて行くのであれば、とりあえず上がって行く物価高の影響をあまり被らないが、まったく同時的にすべての価格が上がって行く訳ではなくて、「出来れば価格を上げたくない、上げたら客を失う」という恐れによって、多くの製造業者が、血のにじむような努力を強いられるだろうし、その努力のために、物価の全体的な高騰というのはある程度抑えられてしまう(これが今の状況だろう)。つまり、原油価格の高騰によって、すべてが公平に高くなる訳ではないのだ。まして、企業が労働者に支払う給与に、インフレ率が直ちに反映される訳ではない。

つまり、どういうことが起こるかと言えば、この原油高はすぐさま消費者の財布に収まる現金の量を増加させたりはしないということだ。後手後手に回されるこうした給与部分の増額は、必ず遅れるので、市場における価格の上昇に消費者は付いて行けない。結果として、その差分は消費者の生活費などの負担増という現象によって賄われるのだ。あるいは、製造業者の血のにじむような「据え置き価格」によって賄われる。

早い話が、こうした乱暴な原油価格高騰によるインフレ策というシナリオは、一番後手に回される一般生活者の、しかも底辺にいる者からふるい落とされるだろう… という最悪のシナリオを意味するのではなかろうか。

この異常な原油価格の高騰は、世界全体を「これまでにない未曾有のインフレ状態」へと舵を切ることの採用を決めた権力者たちの決意を感じさせるのであるが、それに感づき始めているひとびとが「勝ち組・負け組」という言葉を流通させ始めたに違いない。

この先に待っている未来とは、このたびの「秋葉原の無差別殺人」のような、持てないものが持てるものに対して揮う、嫉妬と羨望を動機とする範型的暴力事件を起こさせる土壌を、より広範に拡張するものである可能性が、高いのである。

クローン牛に対する本能的警戒を論理(言語)化する試み

Friday, April 4th, 2008

クローン牛の解禁が近いというニュースを聞いた家人が、それについての「本能的な警戒」を表明し、それがきっかけになって不快な家族間論争となった。このニュースに対する「いやなかんじ」については、自分もその感覚を共有する者と思っているが、それをただ表明しているだけでは何かが不足している感が否めない。それにクローン牛なるものがどんなものなのか、純粋な好奇心もある。

そのことを口にしてみたら、自分の言葉足らずだったせいもあろうが、あたかも自分が「クローン牛の解禁促進派」のひとりであるかのような言われ方をされ、非難された。返す言葉で、クローン牛だって母牛から生まれた牛であって、牛は牛だ!別に人工的に一から作り上げた牛ではないのだ、みたいなことを言い返す。当然、言われた方は一層刺激されよう。痴話話はこれ位にしよう…

おそらく実際問題、クローン牛を批判する以上、一度くらい(あるいは一定期間)クローン牛なるモノを食べてみるかもしれないし、不注意のために、たまたま入った牛丼屋の牛丼がクローン牛だったので食べてしまう、などということもあるかもしれない。

ひとつ分からないのは、どんなニュースでも「クローン牛が解禁の方向だ」ということを報道する一方で、クローン牛がどうして必要なのか、どこで、誰たちがそれを生産し、どんな業者が、どこに輸入するのか、日本でそれを使う業者は誰なのか、という消費者にとって最も関心のある「肝心な部分」が完全に抜け落ちた情報だということだ。ひょっとすると、いかなる具体性もないまったく机上で書かれたシナリオなのかもしれない。

それに、クローン牛の解禁への方向性はおそらく日本政府の“某宗主国”に対する相変わらずのゴマスリの意味に過ぎず、政治的なメッセージとして発信されただけ、という可能性もあるような気がしてならない(その場合は、クローン牛の輸入などという政治的決断だけが在って、実際は日本の消費者が見向きもしなければ、全然売れずに市場がそれを排除して終わるという可能性も一方ではある。だって市場経済至上主義なんでしょ?某国は!)。

話の裾野を広げるのは止めよう。必要なのはおそらくもっと単純なことだ。

シロウトなりにどうしてクローン牛が生産されるのかということを、「生産者側の立場」で想像して、考えてみる(こういう想定そのものも、家人は気に入らないらしいが…)。例えばここに、病気になりにくい牛がいて、しかもそれが好き嫌いをせずにどんな飼料でも食べ、どんどん育ち、大した抵抗もせず、屠殺場へはおとなしく赴く、しかもその肉が柔らかく、そこそこに旨いとなれば、その牛とそっくりなヤツをもう一頭育てたくなるだろう。おそらくクローン技術を借りてでもそれをしたいと願うのは、そうした「合理的な牛」が、自分の商売を楽にして、しかも最大の生産性を上げることができそう、という読みからだ。

さて一方、やはりシロウト的に、この近視眼的な牛肉生産業者の採るだろう選択肢について、もうちょっと思いを巡らせてみよう。クローンの技術によって同じような「ソックリ牛」が大量に生産されることになった場合、その牛特有のクセが、われわれの健康に特定の影響を与えてしまう可能性がある。脂肪の量などの、目に見えて測定できるようなレベルの性質が均一であるばかりでなく、その牛しか持っていない(かもしれない)言わば「毒性」のようなものが、クローン牛のどれを通して、ずっと一定のレベルでもって、われわれの身体に取り込まれることになる。これは、自然界が本来なら同じものを生産せず、生命が多様なものとしてこの地上にもたらされるなら、自然に回避できるレベルのリスクだ。だが、食べる牛が総て同じ、ということになれば、「毒性」は加算されて行き、それがわれわれの体内に蓄積されるとなれば、その影響は徐々に表れる可能性がある。これは、自然界の持っている自然回復力の利用という点では、真っ向から対立する方向性である。

それにもし、このクローン牛が突然ある病気に罹ったら、すべてのクローン牛が一斉に同じ病気に罹って全滅する怖れもある。これはクローン牛でなくたって、現在のDNA操作によるあらゆる作物が持っている潜在的な危険である。だが、そんな「掛け合わせ」のレベルの均一性ではないのだ、クローン生物は。遺伝子的には「まったく同じもの」が出来上がるのだ。問題が起これば、経済性を優先したために起こる、食料の安全保障への壊滅的ダメージとなるだろう。

ことによると(われわれがラッキーであれば)そのクローン牛の害なるものは、日本の農林水産省管轄の研究所が主張するように「ほとんどない」ことで済むかもしれない。実際問題、そういう可能性はある。だが、こうした人工的な生命の操作によって起こりうる事態は、われわれの想像を超えたところからその牙をむく可能性がある。

われわれの本能がわれわれに告げる「いやなかんじ」とは、このように言語化することによって、より広い範囲で共有することができるのである。これは、食卓での団欒でできる対話のレベルから遠ざかるかもしれないが、一旦理解してしまえば誰でも説明のできる「不安」の論理化なのである。

差し出された踏み絵「YASUKUNI」

Friday, April 4th, 2008

「靖国」大阪で5月上映 「映画館を議論の場に」

2008年04月03日02時26分

ドキュメンタリー映画「靖国 YASUKUNI」の上映中止問題で、大阪市淀川区の映画館「第七芸術劇場」が5月に予定通り上映することを決めた。同館は地元商店主らが出資する96席の市民映画館。松村厚支配人は「見たい人がいるなら提供するのが役目。映画館を議論の場にしてほしい」と話している。上映は同月10日から7日間の予定。

yasukuni_kiji

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やっと出たね。

『靖国YASUKUNI』への反応に見る「卑怯者の天国・ニッポン」。

これについてはタツル氏のこれほど明解な解説以外に何が必要だろう?

誰か教えて@内田樹の研究室

それにしても、大阪での上映によって、上映をやめた映画館主たちが言い訳にしていた「周辺住民への迷惑」が、どれだけ現実のものなのか、明るみに出るだろうねえ。仮にそれが現実のものになったところで、そういう脅しを掛けると言われる右派の活動家諸君についても、タツル氏は、以下のように、釘を刺しておくことを忘れない。

>>「言論の自由」の看板をすぐにおろしてしまうような惰弱な人間ばかりで日本社会が埋め尽くされることをどうして右翼の諸君は歓迎するのか<<

>> たしか彼らは日本人は「もっと誇りを持たなければならない」ということを主張していたのではないのか。「抗議の電話があるかもしれないから怖いので仕事を止めます」というようなことを軽々に口にする惰弱な人間が「日本を守る戦い」においてだけは例外的に勇敢に戦うとは誰も思うまい。<<

ぐうの音も出ないね。私が街宣車のナレだったら…

ともあれ、上映を決めた「第七芸術劇場」と「京都シネマ」にエールを!

まったき逆説としての小沢の「行為」

Tuesday, November 6th, 2007

毎度のことながら、政治に関わる発言をするには勇気がいる(笑止と仰るならそれで結構!)。自分は別に世間に対して影響力のある人間でも政治のプロでもないので、その発言で命が狙われるというほどのリスクを負う訳ではない(だろう)が、友人関係でどんな信用の失墜があるか分からないので、今後世の中が激変すれば「村八分にされる」などの意味で、まったくリスクがないという訳ではない。

将来政治体制がもっと悪化した時に、今自分が行なっている政治的発言が自分にとって「不利な証拠」にならないとも限らない。でも「必要なら政治的な発言ができる自分」を確保し、何かがおかしいなら「おかしい」と言える自分の言葉、論理的な一貫性、そしてまたその姿勢をどんな世の中になっても維持できるか、という自分に対する挑戦の中に自分を追い込む意味でも、今の時点で思うことを喋ることにいささかのためらいがあってもいけないのだ、本当は。何しろこの時点でおかしいことをおかしいと感じない(あるいは言わない)人間が、本当にオカシなことになった時に、何かを突然感じたり主張を開始したりするということはありそうもない話である。発言はどちらにしてもひとつの「行為」なのだ。敵の首を実力で捕りにいくことばかりではない。

さて、現在まさに進行中の小沢民主党代表の引責劇についてである。

小沢に対するネガティブな評価というのは今回に始まったことではない。彼が信用ならない人物だというような評価は、これまでも広く見受けられたし自分も全然信用などしていなかった(なにしろ政治家ですよ、彼は)。とりわけ今回の密室における福田首相との「大連立」についての会談も不審な点がないわけではない。したがって、ネットで見かけるプロの評論家による論評の類も、そのほとんどがこのタイミングで大連立構想を“検討”したことや、はたまた首相との密会を設定したこと自体についてなど、いろいろな側面から批判を受けているのであって、それらの多くが至って真っ当とも言い得る面を持っている。そればかりか、そうした意見の多くが今回の行動が「小沢の失敗を裏付けるものだ」「傲慢だ」「策士、策に溺れる」などの基本的な評価を基に下されているもので、理解を示すことも可能である。だが、当方はそれ自体を驚くということはないし、呆れもしない。そもそも自民も民主も似た様なものだという基本的な見解そのものに変わりはないので、それが多くの人々の期待を裏切るものだと言うことが火を見るより明らかであっても、そもそも今回浮上した「大連立構想」を取り立てて騒ぎも嘆きもしない。そのことは皮肉まじりに前回の文章でも書いたばかりだ。

しかし、ここでわれわれの想像力の試煉があり得る。仮に記者会見で小沢が話したこと全てに嘘がなかった!としたら、これは何を意味するのかということである。自分の考えは、今回の小沢と福田の会談も、その構想の「失敗」も、合衆国政府からの隠然たる圧力の実在なしには何も説明できないとするものだ。

想像して欲しいのは、ひょっとすると皆から一様に叩かれている小沢だけがまともなことを言っていて、それ以外の人は小沢の真意も理解せずに、他人の評価を基にそれを無批判に繰り返すことをしているだけ、とも言い得るのだ。

当方がこのようなことを言い出したことにはいくつかの理由がある。

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