Archive for the ‘Politics!’ Category

ユング理論と全体主義?

Friday, September 7th, 2007

ユングの発見と全体主義や国家主義とが何故に結びつきうるのか? どうしてユング理論がわれわれの敵の政治的論理として利用されうるのか? 結びつきうるとしたらどんな点でか? などなどと拙論「河合隼雄という問題」の後もずっと「敵の考えそうな論理」に想いを巡らせていたら、突然この一文に遭遇した。いつものことながら、内田樹のブログでだ。ここにひとつの論理上の「雛形」を発見。

武士の「忠君」イデオロギーが天皇制の「愛国」イデオロギーと同型のものであったからである。

「武道の必修化は必要なのか?」@内田樹の研究室

ミソなのは、「同じものであった」ではなく「同型のものであった」というところである。「同型」は「同じもの」ではない。ことによると、「似ている」と言っても良いかもしれない。似ているものは、利用され易い。

言い換えてみよう。

ユングによって発見された「集合的無意識」が、国家主義的・全体主義的イデオロギーと同型のものであった

そんな点があるということだからなのだろうか。ここまでなら認めたところで無害かもしれない。むしろ問題はそのあとなのだが…

似た者同士は、同じでなくても互いが同じであるように思って近寄り易い。だが、ここに落とし穴がある。詳しくはいずれ論じることもあるかもしれない。

さて、このブログ記事自体が極めて面白かった。武道を義務教育の体育教育の一環として「義務化」せよという話であるが、復活させる「武道」なるものがどのような武道なのかが問題だ、といういつもの内田流の快刀乱麻の論理展開を見せてくれた。読む価値あり。これ自体にも色々論じることがあるのだ。

そもそも「義務教育」の意味は、子供に教育を強いることを正当化する様な、「教育を受ける側に課せられる義務」の意味ではなくて、「教育を必要とする人に教育を受けさせる(国家に課せられた)義務」のことなんだから、武道を選ぶかどうかは言うまでもないことだが、子供(あるいは子供の親)の選択に掛かっている。これは、日本国憲法第26条第2項に「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする」という下りからも了解できるように明白なことである。それがいつの間にか、官僚や全体主義者たちのレトリックによってまったく反対の意味に取り違えられて知らん顔をしている。

したがって、気に入らなければ子供に教育を受けさせない権利があるということを思い出すこと(その文脈から登校拒否や不登校は評価されるべきである)。何しろ、良くも悪くも教育とは洗脳のことなのだから。ちょっと考えてみれば分かるように、国家や社会全体が《間違う》とき、それを可笑しいと思う情操教育は、文科省の決める学校教育では得られないものだというのは、世の親たちもよく解っているべきだろう。

Also Sprach Tatsurustra!

Thursday, August 30th, 2007

7/30の拙論『「与党」の地滑り的な大勝利』で、皮肉たっぷりに言及したようなことをあの内田樹氏が先日のblogで言っている(田中角栄 is coming back!)。

いま「二大政党」とよばれているものも実体は自民党のかつての「二大派閥」に他ならないということである。だから、「政権交代可能な二大政党」とは、政策選択の幅が拡がったということではなく、自民党の二大派閥のどちらかを選ぶ以外に有権者に選択肢がなくなったということなのである。善し悪しは別にして、それは日本の政治的選択肢がそれだけ狭く、かつ先鋭化してきたというふうにも解釈できる。

ただし、樹氏の主旨のひとつが、自民党の党内が“福田赳夫、田中角栄の1972年の「角福戦争」”に象徴されるような、「アメリカ追随派」と「アジア重視」という対立軸の存在というところから解き明かしている点が重要である。

後に若干言及するように、「アメリカ追随派」の反対派が「アジア重視」である、という図式はちょっと単純化されているきらいがあると思う。だが、この模式化はある程度的を得ているのだろう。

一方、非常に気になるのは、田中角栄を始めとする「反・対米追随」型の政治家のほとんどが、スキャンダルその他によって狙い撃ちにされ、政治生命(あるいは生命)を絶たれていることだ。内田氏の指摘するような対立軸の存在が疑いなく真ならば、米国の工作によってか、この旧田中派の経世会人脈である「反・対米追随」型の政治家は、ほとんどすべて体よく葬り去られてきたことになる。

田中角栄はロッキードスキャンダルで徹底的に叩かれ刑事被告人として死んだ。竹下登は“竹下バンク”と呼ばれた長銀(日本長期信用銀行)を失い、外資“禿鷹組”リップルウッド・ホールディングス*を通してアメリカに譲渡(献上)された(献上額は1600億円相当と言われる。お金の切れ目は政治生命の切れ目である)(現在は新生銀行という名の“青組”外資銀行になっている)。小渕恵三は現職総理大臣でありながら「過労による」突然死。橋本龍太郎は「日本歯科医師連盟(日歯連)からの1億円献金疑惑」によって晩年は実質的に政治生命を失っていた(2006年7月死去)。また、“「日本人の血であがなった憲法9条の精神を捨ててはならない」と述べ、海外での武力行使に慎重姿勢を見せるなどハト派としての一面もあり、生前、靖国神社に代わる新たな参拝施設の建設の必要性を真っ先に主張した”梶山静六は、2000年1月の交通事故後、体調を崩し同年6月に死去。(データはそれぞれの人名のWikipediaから)

* リップルウッド・ホールディング

アメリカ以外の国に接近して多元化外交を行なおうとした政治家で、スキャンダルなどによって足をすくわれていない人はいないのではないか、というくらいの絢爛たる醜聞と疑惑のリストである。最近の例としては、一度は誰からも嫌われたらしい鈴木宗男がいる。“野中広務元官房長官を師と仰ぎ、「野中・鈴木ライン」で政界を叩き上げた”という彼も、ロシアとの独自外交チャンネルを開こうとしているうちに、ムネオハウス(日本人とロシア人の友好の家)の建設をめぐる疑惑によって逮捕される。彼も内田樹氏的に言えば、「アジア重視」の一例ということになるのだろう。

ほとんど明らかなように、日本は合州国政府が面白く思わない独自の外交路線を敷こうとすると、ほぼすべて邪魔されてきた。そしてその真相を知らない日本人からは政治家の単なる腐敗・堕落という一面的な絵としてしか映らない。ま、実際問題、政治家である以上、その職業柄、腐敗もあるだろうし、そうでなくても足を掬われるような弱点を持っていたり、ハメられるような不用心の側面があるのだろうから、それも総合的に政治力の一側面である以上、弁解のしようがないのだが。

さて、この「アメリカ追随派」の反対派を「アジア重視」とする表現は正鵠を得ているのだろうか。

樹氏は、

世界戦略的に言えば、「対米追随」か「アジア重視」かという二者択一であり、内政的に言えば、「市場原理の導入」(民営化、市場開放)か「親方日の丸・護送船団方式の再導入」(大きな政府、市場参入の制限)かという二者択一…

ということなのだが、アジア重視というよりは、「非米・多元化外交」路線と言うべきであろう。アメリカを除く世界がアジアであるということにはならないからだ。また鈴木宗男が開こうとしたロシア外交チャンネルを「アジア重視」という表現は似つかわしくない。

「非米、イコールアジア」という図式を当たり前の前提としてしまうと、日本国内に根強く残っている嫌中国/嫌半島派の人々の警戒と反感を避けることは難しい。非米だからって別に親中国でなければならないわけではない。必要なことは、問題をそれぞれ別の問題圏において論議することである。大陸の国家について一方的に親しみを覚えても反感を覚えても、そのどちらもわれわれの将来に益するところはないのである。

(日本における二大政党制など、単なる自民党の中の二大派閥の別名に過ぎない、というようなことは言わなかったが、以前、拙ブログにおいて「日本の政治を分かりやすくする」というこれまた皮肉たっぷりなエッセイにおいて、日本の政治は結局親米か反米かしかないだろうという主旨の文章を書いたことがあったのを見つけた。)

「与党」の地滑り的な大勝利

Monday, July 30th, 2007

民主が「自民党支持層」も吸収

Jimin News

今にネット上から削除されるので画像で保存したニュース(クリックして拡大)

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安倍の「陽動」作戦は成功した。

彼は「最悪の宰相であった」という、いかにも「誰にも分かりやすい」、「誰もが反論しがたい」レッテルを背負って、だが(誰にも、は分かりにくいだろう)“本当”の役割をしっかりと果たし、歴史に名を残すだろう。

ぞっとする話だが、「与党」が100を超える議席を盗った地滑り的な大勝利である。

本物の《野党》は今や15議席を残すのみとなった。

自民党が負けて、いよいよ「与党が野に下る」と理解した人々は皆、愛でたい。お愛でとう!

(more…)

地球温暖化を巡って考えられること

Sunday, March 25th, 2007

最初に言っておきたいのは、いわゆる米共和党政権の政治指導者たちが言うような「問題は現実のものではないし深刻でもない」というようなことではない。最初に言っておけば、われわれが問題すべき意味での「地球温暖化」は、「おそらくある」。

だが、その上でもわれわれが考えて損しないことも、「おそらくある」のだ。

永久凍土の喪失。極地方や高標高地域に於ける氷河および氷山の溶解、小諸島の海岸線の浸食、などなどの目に見える証拠によって、地球温暖化の危機については、さまざまな主張がある。特に、米元副大統領のアル・ゴアが火を付けた『不都合な真実』という書籍や映画によって、今後一層の話題となることは確実である。こうした主張の中で目立つのは、今すぐわれわれがアクションを起こさなければ、来るべき文明大崩壊の阻止に間に合わないというトーンである。それらのレポートの告げるところは、本当にそうなのかもしれないし、もしそうだとしたらわれわれの未来は、じっさい相当に暗い。

だが結論を急いで「急いて事を為損じる」前に思うのは、以下の二つのことである。

まず、地球温暖化は本当に在るのかということ(いや、怒らないで欲しい)。もうひとつは、在るとして、その原因は人類の文明活動にあるのか、という点。この二つのことを組み合わせると、以下の4つの可能性が考えられる。

(1) 地球温暖化は無い。存在しないものに責任追及は無い。

(2) 地球温暖化は無い。無いのは人類のせいである。

(3) 地球温暖化は在る。在るが人類のせいではない。

(4) 地球温暖化は在る。在るのはまさに人類のせいである。

(1)についてはどうもここ100年くらいのスパンの観測に因ればやはり「ありそうに見える」ので、おそらく除外できそうだ(その辺りが温暖化説に反論するひとから問題視されているようだが)。もちろん観測領野を数千年から数万年のスパンにしてしまうと、変動はあるが、冷却する期間もあり長い目で観て平均化すると「地球は温暖化していない」という主張さえ可能になってしまう。「地球は急速に寒冷化する」という主張さえある。だが、われわれはおそらくそういった超歴史的な長いスパンを問題にしているのではなくて、われわれの文明圏が「歴史」上、初めて体験する「ほぼ明らかな温暖化への傾斜」を見て、自分たちの経済活動や生活の基盤が脅かされるのを感じ始めたということだろうし、あくまでもその傾向が人類の代々限りない繁栄を妨げそうな勢いで明らかになって来たことを、真剣に問題にしているのであろう。いずれにしても現今の地球温暖化の議論のほとんどは、(1)の様な前提に則ったものではない。

(2)については上のような理由と、常識的に考えてもありそうもないことなので考察対象から除外できよう。

(3)については、おそらく人類のアクションを直ちに求める学者や運動家の人々から観れば噴飯モノであろう。あるいは「人類のせいかどうかはともかくとして」、とにかく温暖化が明らかな以上何らかのアクションが必要だという論者からすれば、このような「原因の究明」に時間を掛けているヒマはないということが出て来るのも、ある程度は頷けることである。これは、数年前にNHKが「地球法廷」というインターネットを使った自由な議論を基に、BS向けの番組を作って放映した時の内容も大同小異であった記憶がある。「原因はともかく急がなければ」というものだ。だが、「どうもあるらしい地球温暖化」の本当の原因が何なのかということは、はやり続けて検討されるべきことのように思われる。もし仮にそれが人類のせいでないとしたら、おそらくわれわれ人類の対処療法的な方策でどうにかなるというようなレベルの話ではないばかりか、その方策に掛ける時間や努力そのものが無駄になるからだ。努力をした後で、「実は私たちのせいではありませんでした」ということで済む問題であろうか? もっと良い「温暖化対策」というものがあったかもしれないのだ。もし地球温暖化(もしくは周期的気候変動)が人類の文明活動と関係なく存在し、しかも避け難いことであるとすれば、その努力は温暖化阻止ではなくて、むしろその「ほぼ明らかな地球温暖化」とどのように付き合っていくか、ということを考えることにしか無いだろう。台風の発生や進行を止められない人類が、温暖化という自然現象を止められるほどの力を持てると考えるのは愚かなことだ。

(4)は、おそらく現在地球温暖化を問題にする人々に共通の「考え」なのではないかと思われる。温暖化の傾向は便宜的に本当だろうと譲歩できるにしても、原因については少なくともそれは未だ「真実」ではなくて、可能性レベルの話である。また、可能性として二酸化炭素の増加が温暖化の原因になり得るという有力な説がある以上、程度問題はあるとしても、人類の文明活動はその増加を促進するものであることに間違いないので、やはり「地球温暖化は人類のせい」という因果関係への推測を支持する人々は増えることはあっても減ることは無いだろう。2007年3月25日の東京新聞の「読書」欄(書評欄)にも『地球温暖化の現場から』(エリザベス・コルバート著)の書評見出しとして「滅ぼされる命の現実を直視」というタイトルが付けられていた。これはそうとはっきり明言してはいないが「滅ぼす」と書く以上、人類が温暖化の責任を持っているのを前提としているように見えるし、そういった印象付けが無意識に採られていると言うことが出来るかもしれない。地球温暖化が自然現象なら「滅ぼされる」ではなくて「滅びゆく」とでも言ったところだろう。

いずれにしても温暖化はおそらくありそうだ(少なくとも2、3千年のスパンでは)。だが、その原因の真相はまだ解明されていない。したがってわれわれの努力の何を以てその阻止の方策とするのかは、実は分かっていない。二酸化炭素の増加を停めても温暖化は止まらない可能性さえある。そうなれば、先進国を追って今後経済発展が予想される諸国から、(京都議定書の様な)二酸化炭素発生の抑制の圧力は、国家間の経済格差を固定させるための政治的意図を持ったもので、『不都合な真実』などは政治的陰謀を担った環境運動キャンペーンなんだという意見が出て来てもおかしくはないのである。ゴア氏のファンには申し訳ないが、彼自身は良心的にやっていても、それが政治的に利用されているという可能性だってある。あるいは良心的環境活動家の仮面を冠った確信犯という可能性だってある。

既に発展してしまった先進国にとっては、二酸化炭素発生の抑制というのは、これから発展していきたい各国に比べて、遥かに実現可能性の高いホームワークだからだ。少なくとも、自分たちは世界を汚し放題汚しつつ発展したくせに、後から来る人々にはより高いハードルを課すことには違いが無いのである。

温暖化は否定しないものの、環境危機に関する全般的な捉え方については、運動家や政治家ではなくて学者側からの真面目な反論もある。ビョルン・ロンボルグ著『環境危機をあおってはいけない』などもそのひとつだ。ロンボルグ氏の研究に対して私の判断はまだ保留中だが、ゴア氏の著作を読んで浮き足立った方々にとっては、別の視点というものがあるという事を知っていても悪くはないと思うのだ。

同著に関するコメント

最後にもう一度言っておきたいのは、いわゆる米共和党政権の政治指導者たちが言うような「問題は現実のものではないし深刻でもない」というようなことではない。あらためて、われわれが問題すべき意味での「地球温暖化」は、「おそらくある」。というより、人類の文明の在り方を考えてみれば、それが永久に続く筈がない事は、おそらく直感的に小学生だって分かるレベルの事だ。「温暖化」はそうした環境破壊の一環に過ぎない。

しかし、その上でもわれわれが疑って損しないことも、「おそらくある」のだ。

二つの視点(通時的にしか語り得ぬ物事について)

Tuesday, February 13th, 2007

親しい友人から、私の言説が、地上俯瞰的な(神のような)視点で「国家を論ずる」という一見して「いわゆるゲオポリティクス(地政学)」的な政治評論のように受け取られる危険があるとの指摘があった。言い換えると、そこには生活する人の姿がなく、まさに権力によって押しつぶされるかもしれない具体的個人という視点に欠いているような印象を持たれるということでもある。ここ2回ほど私がアップロードしたような文章(「例えば朝鮮半島の対立が…」「大国の防弾チョッキとしての日本」)だけを読む人がいたとすれば、そういう(全体主義的な)類のものの考え方だけをする人間だと思われる可能性があるというのだ。

確かにそのように受け取られる可能性はある。だが、大きな視点から今の時代や権力勢力図を見るというのと、そうした動きのために大いなる影響を被る個人への眼差しという二つの異なる視点というのは、どうしても行ったり来たりせざるを得ない。そのどちらかを語って好しとするのはどうしても片手落ちの感がするのだ。

俯瞰図とそれを作り出す個々人の人生の両方を同時に「視る」ことはできるかもしれないが、まったく同時に「語る」ことは出来ないのである(いや、詩や映像を利用した「優れた言葉」なら可能かもしれないが…)。それはレコード再生はどうしても一本の針で通時的に行なうしか方法がないということにも似ている。つまりレコードというのは再生されるべき音楽作品が溜められているが、その中身を再生するには一本の溝を一本の針で最初から最後まで地道になぞって行くしかやりようがないということである。それは機械がマルチタスクに対応していないというだけではなく、それを受け取る人間自体が(聖徳太子でもない限り)マルチタスクに堪えないのである。

要は、個人に対する眼差し(仁)があって、そして権力勢力図を視ると言う俯瞰的な視点(賢)がある。このふたつは、心にその両方を思い描き、同時的に鑑みることが可能であっても、それを第三者が分かるように「再生」するには通時的に行なうしかない。レコードの最初の部分を再生するのか、最後の部分を再生するのか、それとも途中だけを再生するのか、ということは再生者に選択の余地があり、またそのようなランダムアクセスは実質的には可能なのであるが、一時に再生される部分というのはどうしても一ヶ所だけなのだ。

そうしたときに、地上俯瞰的な権力図を見る視点は、それに終止すればもう一方の視点の明らかな無視・排除になるが、もう一方の視点に必ず帰ってくるという方針が明らかであれば、その両方を行ったり来たりして検討することは赦されるものと思う。そもそも何度も断っているように、どうして地上俯瞰的な視点に価値があるかと言えば、個人の人生が掛替えもなく大切であるからなのだ。おそらく、その部分が見えないと、人類を権勢だけで(あるいは経済活動だけで)見切ったようなその道の専門家/評論家が出て来てしまうのだ。

大国の防弾チョッキとしての日本

Wednesday, February 7th, 2007

折しも田中宇(たなかさかい)氏(以下敬称略)のウェブ評論紙『国際ニュース解説』に「朝鮮半島を非米化するアメリカ」という論考が載った。まずはそれをざっと読まれたい。本論はそれについての私なりの論評である。

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これは他国との緊張をいたずらに強調し、日本国の防衛力増強論に加担しあるいはその論理に追従する意図を持たない。最後まで読まれれば明らかだろうが、その逆である。象徴的(あるいは無意識的)にプログラムされた民族の「元型的行動」というものを認めた上で、そうなっているから気をつけろと言いたいのである。予言者はそれが如何に否定的な予測であっても心の奥底ではその成就を望む、なぜならばそれが予言者としての権威強化に繋がるから、という金言があるが、私はそのような予言者であろうとは思わない。自分と家族の安全を願う一庶民である。

核兵器を隠し持ったまま(あるいは開発段階の核技術の凍結しただけ)の北朝鮮(北韓)を自由主義経済国の韓国(南朝鮮)が呑み込む形で朝鮮/韓半島が統一され、半島はなし崩し的に核武装された「大」韓民国となる(「青の水玉:月」の誕生)。あるいは、左傾化した韓国が北朝鮮と融和する形で国家統一される。それが平和裏に行なわれるのか、実力闘争の末に行なわれるのかはともかくとして、それが「成る」ことで、この統一国家(「大」韓民国)は中国にとっての「矛」となる。米国にとっての「矛」は依然として日本であり、それを核武装させ、同じく核武装された「大」韓民国と対峙させることで、極東アジアは米中両国にとって真の緩衝帯となる。何か「事態」が起こったとしても、中国も米国も無傷(?)で、大韓民国と日本との間で「青の水玉:月」と「赤の火玉:太陽」の東西対決(蝕)が生じる。これは超・歴史的(ほぼ1万2千年周期)にこの地域で繰り返し繰り返し行われて大地に刻まれて来た元型的事象だ。現在、日本の国技である「相撲」という儀礼の形でも伝えられて来た「裏道教」(密教)が象徴する一大イベントである。

田中宇の論考は、朝鮮半島がいよいよ中国の傘下に入ると言っている(「北との和解は在韓米軍の撤退につながる」)点に於いて、今後の時流を正しく捉えていると言えるが、それに引き続きすぐにでも(2、3年以内)日米の安保解消が起きるというのは、こうした象徴的運動としての歴史観を欠いている証拠であるし、それはある程度致し方ない。ひとにはそれぞれの役割があるのだ。

さらに、現韓国が米国の「勇み足」に躊躇を覚えているという田中宇の主張もおそらく正しい。現韓国政府が中国政府とも比較的良好な関係を維持しているのが前提だとして、また最終的に韓国も朝鮮半島がひとつの国になることを望んでいたとしても、それはすなわち日本との全面対決になることを彼らが本能的に知っているわけで、それは長期的には自国の「悲劇への道」を一こま進めることにしかならないのをどこかで諒解しているからで、しかも対決が不可避であるなら十分に準備をして「安全」を確保した上でそれに臨みたいのである。また、当然のことながら韓国が朝鮮半島統一を自国(南)の主導で進めたいと考えている以上、その右派が「(自国の)“左傾”化を黙認するアメリカ」に対して、憂慮しているというのも十分にメイク・センスするのである。

また田中宇が書くように、北朝鮮とアメリカは質実共に休戦状態であるものの、北朝鮮との休戦協定を結んでいない韓国にとっては、いくら財界同士の歩み寄りがあったにしても、未だに戦争状態(「 」付きの「休戦状態」)である。したがって統一という方向は大局的に望んではいて、そちらへと進んではいても、自国にとって都合の良い形での統一を南北両方が望んでいる以上、それ相応の駆け引きや緊張状態が続くだろうことに違いはない。どちらに転ぶにしても十分な準備期間が必要なのだ。そもそも、もはや米中が(建前上)冷戦を止めている以上、南北朝鮮は朝鮮戦争のお題目をすでに失っているのだ。考えてみても解るが、敢えて自民族同士で殺し合いをするようなことは避けたい。そもそもお題目は対日(反日)の一大勢力としてあるべきであった。アメリカとの関係(あるいは東西対立の関係)の中で「対決」することを忘れていた韓国(南朝鮮)も、久しく対決することを厭わないできた北朝鮮(北韓)によって、その「超・歴史的役割」に目覚めつつあるのである。

朝鮮半島の南北統一は、日本との宿命的対決とワンセットである。だが、日本の普通の人々であるわれわれも、朝鮮半島に住む普通の人々と共に、ヒューマニズムに則って、他者のイベントである南北統一を祝うのと同時に、統一されたその国家との来るべき宿命的対決をなし崩し的に溶解させるだけの超意識(無意識を超克する心)を進展させなければ生き延びることは出来ないだろう。そのために、われわれは地上のあちこちに刻まれた象徴の伝える警鐘の連鎖を読み解き、われわれの生存に役立てなければならない。

アメリカの朝鮮半島からの完全撤退はある。これは田中宇が書いている通り、遅かれ早かれ完遂される。だがそれは普通に行けば日本とアメリカとの「一層の関係強化と一体化」にしか結びつかないし、日本の防衛庁の省への昇格さえ、アメリカからの独立を目指したものでは決してなく、より緊密でよりアメリカの思い通りに動けるようになるための、最初から最後まで宗主国アメリカ合州国の利便のために行なわれる動きとして理解されるべきなのである。その点においてのみ、田中宇の日米関係の自然解消についての「読み」は、当たっていて欲しいが、残念ながらそのように簡単にはならないと言うべきなのである。

例えば朝鮮半島の対立が…

Thursday, February 1st, 2007

国際外交について言えば、物事の表面的な有り様は、それぞれの政府が本当に起きて欲しいと考えていることと、言語化されている上っ面の意見とはまったく反対だ。日本政府も(そして当面は合州国も)、朝鮮半島における二国の分断状態はこのまま変わって欲しくないし、ましてや自分たち主導で朝鮮半島の問題が解決されることも望んでいない。

「Divide and conquer(分割して統治せよ)」という古代ローマ帝国の時代から知られている古典的統治理論を牽くまでもなく、現在の覇権国家アメリカ合州国が行なってきた外交政策から言っても、「解決されないままの国家間紛争」というのはその当事者以外の国にとって、つねに好都合である。第二次大戦後、ヨーロッパに於いてドイツが東西に分割され続けたことを思い出しても分かるが、このことも、欧州において「これ以上ゲルマン民族に問題を起こして欲しくない」という周辺各国にとって、ドイツが分割されているということは脅威の緩和措置と安全保障の要であったことに間違いない。

ちょっと冷静に考えれば分かることだが、どうして現在の日本国政府や財界が朝鮮半島問題(北朝鮮問題)の解決など望んでいると考えるべきなのだろう。それはわからない。どうして自国の隣に、突然有効労働人口が「倍になる」ような強大な国家の出現を喜べるのだろう? あえて断るまでもないが、朝鮮半島に於ける国家分断と対立は当事者にとっては、論じる必要がないほど明白な悲劇である。人道的にはいずれ解決されることが望ましい。このことはあらゆる論理の前提である。

だが暴力装置としての国家「日本」にとっては朝鮮半島が半永久的に分断されたまま凍結され、未解決でグレイな状態のだらだらと続くのが都合いい。とりわけ日本と南朝鮮(大韓民国)との関係が「資本主義国同士である」というお手軽な理由やその他「韓流ブーム」など民間草の根レベルの努力によって、めでたくも「おおむね良好」だとして、市場経済に於ける国際競争力という観点や、国家主義/民族主義的な観点で常にライバルであることに変わりはない。それが、とりわけ戦前の大日本帝国時代の植民地支配によって引き起こされた怨嗟と、植民支配者の敗退に引き続いて起こされた政治的真空状態のために生じた大国間対立(「冷戦」)、朝鮮戦争という「実戦」に於ける大々的な破壊と殺戮によって怨念を募らせている北韓(朝鮮民主主義人民共和国・北朝鮮)が、依然としてその怒りをたぎらせているということは、それはそれでもっともなことで、われわれこそが永年の恨みの対象であることを十分に了解していなければならない。

朝鮮民族にとって、言うまでもない(?)「念願の国家統一」が、韓国の主導で行なわれるにせよ、北朝鮮主導で行なわれるにせよ、《統一した朝鮮半島:“大”韓民国》というものは、日本国にとって実質的に大いなる脅威になるはずである。

資本主義(自由主義経済)の国家として統一すれば、明白な経済競争相手になるだろうし(今でも充分にそうだが)、万が一にでも共産主義国家として統一されれば、それは日本への歴史的怨念が韓国という中間バッファーなしで玄界灘越しに日本と対決することを意味する。

そうなると「近くの他国が紛争している」状態から、「自国が紛争するかもしれない」状態へとコマがひとつ移行したと言いうるのである。米軍の韓国からの撤退縮小はこうしたコンテクストで再認識されるべきなのである。沈み往く船から、寄港地でネズミは退去して逃げるのである。

こう言っては何だが、朝鮮半島の南北統一は、暴力装置としての日本国家にとって、どうあっても避けたい、あるいは先送りを祈念したいところである。彼ら権力者は朝鮮半島における緊張がこれ以上に高まってくれることを願わないまでも、少なくとも「対立が持続して欲しい」と本音では願っている。願ってはいても、そんなやつらも、その国と自国が緊張感を伴った対峙をすることは絶対に望まない。口先では「紛争をやめて仲良くしよう」とは呼びかけてはいても、心の奥底では他国同士がいがみ合う状態であってくれることを誰もが望んでいるのである。それが自分の国の安全を確保するからである。そうした観点で「六ヶ国協議」なるものも視なければならない。

繰り返すが、韓国/朝鮮に力を付けて欲しくない人にとっては、彼らが分断されたままでいることが好都合であり、そのような状態の固定化を実現できる人間は、日本の国益に供する手柄と位置づけられるであろう。だが、やはり「趨勢」は統一である。善かれ悪しかれ統一はいつの日か実現するであろう。それが起こるのが中東に於ける紛争の拡大や解決の後まで先送りされるにしても、である。

だがそのときが、日本が安心して繁栄を享受できる状態から抜け出したのだと一挙に目覚める日になるはずである。そして今の日本国家の動きとはそれを予見してのことと読み直される。

そして「その時」に、米中の潜在的かつ宿命的な政治対立が、どのような形で日本という諸島列島と朝鮮半島の間の緊張を演出するのかが了解できるはずである。彼ら超大国にとって、日本と朝鮮半島という極東地域が、「バッファー/緩衝帯」として機能する対立領域となるのである。米中が「戦争」(冷戦)する時、それはベトナムや朝鮮半島に於いてその地域を分断して行なわれたような紛争が、日本海を隔てて行なわれるのである。そしてその時に祖国荒廃と文化退廃を体験するのは、米中のどちらでもない。彼らは無傷で戦争景気を享受する一方で、痛い目に遭い悲劇を嘗めるのは、朝鮮半島と日本諸島に住む普通の人々なのである。

続『これ以上、働けますか?』

Thursday, January 11th, 2007

再び新しいネット新聞記事を引用:

<同友会代表幹事>「日本版制度」、次期国会で法案成立を

(毎日新聞 - 01月10日 18:40)

 経済同友会の北城恪太郎代表幹事は10日の記者会見で、厚生労働省の労働政策審議会(厚労相の諮問機関)が報告に盛り込んだ、一定の条件を満たすホワイトカラーの会社員を労働時間規制の対象から外す「日本版ホワイトカラー・エグゼンプション」について「『残業代を支払わないための制度ではないか』という誤解がある。議論を通じて誤解を解くことが大切。国民の理解を得た上で早期に導入してほしい」と述べ、次期通常国会での法案成立を求めた。

 また、労働組合などが「残業代をなくすための制度だ」と主張していることについては「成果を上げても上げなくても勤務時間で給料を払ってほしいという人たちの主張だと思う。日本が今後、知的社会を作ろうとするなら、勤務時間より仕事の内容が重要で、そのために有効な制度にしてほしい」と異を唱えた。

 また、基準外賃金の割増率を増やそうとの動きに関しては「長時間労働は好ましくないとの発想で制度を作るべきで、割増率を引き上げれば(長時間労働が)減るだろうということではない」と批判した。【斉藤信宏】

(引用終わり)

ホワイトカラー・エグゼンプションが給与所得者だけに関係があると思っている方がいたら、こう言いたい。

自分の創作活動が理解あるパートナーの給与所得(稼ぎ)によってサポートされているケース、給与所得を自分自身の創作活動を支えるための当座の手段としているセルフ・スポンサーのケース、創作活動を支持してくれる方々(お客様)が給与所得によって生活しているケース、そうしたケースに当てはまるすべての人々に関係がある、と。

そもそもわれわれの「文化」が、良くも悪くもこうした給与所得者によってその大部分がサポートされている以上、これら「いわゆる文化活動」が、ほかでもない文化を支える大多数の人々の生活を成立せしめる《給与所得》と無関係であろう筈がない。こう言って良ければ、お金を払って創作活動を支持して下さる方々をわれわれが相手にしているのであれば、その支持者の方々の生活が何によって成立しているのかということに無関心でいていい筈がないのだ。

私はそれを「余暇」とは呼びたくない。だが、便宜的にそのように呼ぶとして、給与所得者がこれ以上に忙しくなり、雇用者がこれらの人々を何の制限もなく(タダで)使用できるというような状態、すでにサービス残業は当たり前と言われ、「支払われない労働」によって成り立っている「仕事の現場」が、そのまま現状維持ないし悪化した状態に放置されるとしたら、こうした「余暇」も「余暇資金」も失ったひとびとは、われわれの「文化活動」を支持し続ける余裕(時間と金)を持ち続けるのだろうか?

このありきたりな論理を笑止と言うならば、むしろその想像力に問題があるのだ。芸と術の領域における《すべて》が相互に繋がっていると言うのなら、われわれの創作や伝統や文化の、経済活動との緊密な繋がりにまで思いを致すことができて当然であろう。現代社会において、創作活動は一部の貴族(ないし貴族的な人々)によってばかり成り立たされているわけではないのだ。

アメリカ国内には被雇用者の貧困な働き方を是として顧みない使用者がゴマンといる。そしてそれ以外に働き方のオプションを見出せない人々は実質的に奴隷の生活を強いられている(一生で使いきれないような金を稼ぎながらも)。この「奴隷」の生活はまさに国境を越えて、さらに日本に輸入されようとしている。

むろん、「給与所得者だけにしか関係がない」などという挑戦的言説を私に向かって吐いて来た人がいてこのようなことを書いているわけではない。

あくまでも、念のため、に書いているのだ。

問題は、こうした露骨な政治経済的な話題について意見そのものを持つことに対して、「思考と発言の自主規制」を行ってだんまりを決め込み、語り合いもしないということなのだ。このトレンドはまさにオーウェルが「1984」で描いた世界のようだ。こうした「サイレント・マジョリティ」の立場に甘んじる諸人生に、助け助けられ、という相互扶助的な人間らしい関係の構築は可能なのだろうか?

『これ以上、働けますか?』は、岩波ブックレットの1冊のタイトル。

意見を放つ前に一読を…

『これ以上、働けますか?』

Tuesday, January 9th, 2007

以下は、ネット上新聞からの引用。

残業代ゼロ制、国民理解へ努力を=中川自民幹事長が柳沢厚労相に注文

(時事通信社?-?01月09日 19:10)

 自民党の中川秀直幹事長は9日夕、党本部で柳沢伯夫厚生労働相と会い、ホワイトカラーの一部を残業代の支払い対象から外す新制度「ホワイトカラー・エグゼンプション」について「まだ十分理解されていない。国民が理解できるよう努力してほしい」と述べ、国民への説明を尽くすよう求めた。厚労相は「努力する。もう少し時間をいただきたい」と応じた。

 中川氏は、同制度について通常国会への関連法案提出に慎重な姿勢を示している。 

[時事通信社]

法案提出の考え強調=残業代ゼロ制で柳沢厚労相

(時事通信社?-?01月09日 13:10)

 柳沢伯夫厚生労働相は9日の閣議後記者会見で、ホワイトカラーの一部を残業代の支払い対象から外す新制度「日本版ホワイトカラー・エグゼンプション」について「懸念を十分払しょくするような法律的組み立てを固め、いいものをつくっていく」と述べ、25日から始まる通常国会に法案を提出する考えを重ねて強調した。

 同制度をめぐっては、野党ばかりでなく与党内からも「賃金抑制や長時間労働を正当化する危険性をはらんでいる」(丹羽雄哉自民総務会長)などと否定的な発言が続いている。 

[時事通信社]

「残業代ゼロ制」法案提出前に理解必要…自民幹事長

(読売新聞?-?01月09日 19:41)

 自民党の中川幹事長は9日、党本部で柳沢厚生労働相と会い、一部の事務職を労働時間規制から外し、残業代をゼロにする「日本版ホワイトカラーエグゼンプション」制について「国民が制度を理解できるよう(政府として)努力してほしい」と述べ、法案提出の環境を整備するよう要請した。

 柳沢氏は「理解してもらえるよう努力する」と応じた。

 厚労省は通常国会に関連法案を提出する方針だが、自民党の片山参院幹事長が9日の記者会見で「今すぐ導入するのは急ぎ過ぎ」と語るなど、参院選への影響を懸念する与党内で慎重論が強まっている。

(以上引用終わり)

さて…

… 日本では、「管理職には残業(代)がつかない」が企業社会の常識。この「常識」は企業組織における《管理職》と労基法の《管理監督者》を同一視するもの。これは大きな間違い。にもかかわらず、旧労働省(現在の厚労省)が企業の間違った扱いを放置して来たため常識になってしまった…

[p. 4-5]

長時間労働に歯止めをかけ、実効ある労働時間短縮策こそが求められているにもかかわらず、厚労省はこれをやろうとしないばかりか、逆に現行の管理監督者の外に、新たに適用除外者(ホワイトカラー・エグゼンプション)を拡大しようとしている…

[p. 5]

日本は、今問題のホワイトカラー・エグゼンプションに限らず、アメリカをモデルとしてさまざまな規制緩和と構造改革を進めてきた… 90年代の日本経済の再生戦略自体が、アメリカをモデルにしたものだった… 1999年11月に発表された小渕内閣の、経済戦略会議による文書「日本経済再生への戦略」に非常に明確に表現されている… 90年代のアメリカに着いて、80年代に混乱に陥ったけれど小さな政府の実現と抜本的な規制緩和を柱とする新自由主義政策によって見事に蘇生を遂げたと前置きした上で、日本も「従来の過度に公平や平等を重視する社会」を、「効率と公正」を重視したアメリカ型の市場個人主義の社会に変えていかなくてはいけない、と主張している…

[p. 19]

アメリカには労働時間規制は存在しない… ただし、週40時間を超える労働については、通常の賃金の1.5倍以上の割増料金を払わなければならない… 言い換えれば、40時間について最低賃金以上の賃金を払い、40時間を超える労働について40時間までの時間賃金の1.5倍以上の割り増し賃金を払えば、たとえ週100時間以上働かせても、労働法上、何の問題もないというのがアメリカの労働時間制度…

[p. 21]

念が入ったことに、アメリカには、週40時間を超える場合に企業に課せられる残業代の支払い義務についても、ホワイトカラーの一定範囲については免除しましょう、という制度がある… 賃金が労働時間に関係なく契約で決まる年俸労働者を考えればわかるように、この免除(適用除外)制度の対象者になると、残業の概念自体がなくなり、いくら長時間働いても、残業代が支払われなくなってしまう… これがホワイトカラー・エグゼンプション制度…

[p. 21]

ホワイトカラーは、「「考えること」が重要な仕事であり、職場にいる時間だけ仕事をしているわけではない」「「労働時間」と「非労働時間」の区別が曖昧である」、「仕事の成果と労働時間の長さが必ずしも合致しない」」….

「ホワイトカラーは考えることも重要な仕事」と言うが、ブルーカラーである工場のラインワーカーは生産について考えないとでも言うのか? ブルーカラーも、生産工程の改善や品質の向上に取り組まなければならず、QCサークルの例を挙げるまでもなく、仕事のことをしょっちゅう考えている… そう考えると、ホワイトカラーの仕事の特徴のように言われていることの多くは、実は一般労働者の特徴である… 工場労働と事務労働の間に本質的な違いはない。どちらも長時間の残業があるのは、企業が法定労働時間を守ろうとしないから… 

そもそもホワイトカラーとは誰のことなのか。その点についても経団連の「提言」は一度もキチンと定義をしていない… あるところでは「高度な知識労働者」と書いてあり、あるところでは「年収400万円以上の労働者」がホワイトカラーを指していて、事務・販売の一般労働者もホワイトカラーとして扱われるということになっている…

[p. 23-24]

労働時間の規制を外すことによって「より自由で弾力的に働くこと」になり、それにより「自らの能力を十分に発揮できると納得する場合に、労働時間規制にかかわらず、働くことができることを選択することができる」のが、ホワイトカラー・エグゼンプションの制度らしい。

(だが)労働時間の規制を外すことは労働をますます不自由で非弾力的にするものである… 逆に「より自由で弾力的に働くこと」は、現行の労働基準法のもとでも法定労働時間を守る、週休二日を確保する、年休二十日をめいっぱい取得する、フレックスタイムを活用するなどでいくらでも可能… 

[p. 27]

1週40時間、1日8時間という法定労働時間は、しばしば最低労働時間と誤解されているが、正しくは「使用者が労働者に命じることのできる最長労働時間」のことであって、これより労働時間を短くすることに何ら妨げるものはない… 「より自由で弾力的に働くこと」は現行の労働基準法でも、企業が受け入れさえすれば十分に可能…

[p. 27]

「新しい自立的労働時間制度」の議論で最大の問題の一つは、労働時間制度を変えたいと要求しているのがあたかも労働者の側であるかのように言っていること。しかし、実はそうではなくて、この制度の導入は財界側の要請、企業側の要請で言われ出したことだ。企業側が、労働者をもっと働かせたいと考え、そのためには今の上限規制が邪魔になるから外したい、というのが本当のところ。

[p. 27-28]

==============

以上は、『これ以上、働けますか?──労働時間規制撤廃を考える』森岡孝二、川人博、鴨田哲郎(岩波ブックレットNo. 690)からの引用。これを読んだだけでも、現在進んでいる労働規制緩和というのは実に危うい、われわれ日本人をこれ以上過酷な労働状況に投げ入れるための明確なひとつの布石だということがよく分かる。ボクがこういう言い方をすると、またゾロ、コミュニスト的な言説を!と牽制球を投げられそうだが、そんな単純なものでもない。

すでに青色申告をしているような立派な独立事業者(フリーランス)、「ホワイトカラー」に分類されない過酷な労働に従事して久しい友人たち、そして研究職やクリエーティブの生活を選んでいる知人の方々、からすれば、「何を今更!へっ、甘えるなっ!」てなものかもしれないが、すでに規制の対象外にある労働領域が存在するということが理由で、規制撤廃の範囲拡大をほかでもない労働者自身が歓迎するというのは筋違いだろう。すでにその規制の対象にない状態で働かなければならない多くの人々の状況こそがおかしいのであって、おかしい方向へ足並みを揃えることがわれわれの生活改善への道とは考えにくい。

自分たちの人間らしい生活の保持のために闘って来たはずの左派活動家たち自身が、少ない仕事のおこぼれを貰い、もっとも過酷な労働条件を呑んでしまって労働時間規制撤廃を叫ぶどころか、自発的に撤廃してしまっているような状態… やれやれだ。

ニュースでは中川秀直幹事長が柳沢伯夫厚生労働相に対してこの新制度が「まだ十分理解されていない。国民が理解できるよう努力してほしい」と言い、国民への説明を尽くすよう求めた、とのことだが、われわれはこのことを「十分に理解」するつもりなのだろうか? おそらく実質的には「十分に理解」することもなく、恭順の意だけを表すことになるのだろう、国民は。企業は今、金を持っているんだぞ。景気の上向きに乗って、溜めるだけ溜めているのにもかかわらず、給与としては出し渋っている。そして金余りでじゃぶじゃぶしている。

だが、企業や国に良い理解を示すことにやっきになっている恭順なわれわれは、さらに「企業が体力を付ける(日本の経済再生)」ことのために、もっと長くタダで働こうとしているのだ。よろこんで。

こういう「前夜」もある

Sunday, December 31st, 2006

破局前夜が新生前夜となる

戦争前夜が解放前夜となる

その希な望みを、私たちは棄てない。

忘れてはいけないひとつの運動。

12号完結に到達する前に資金調達の困難のために終わってしまうかもしれない。

「たったひとりの闘いへの呼びかけ」他

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