Archive for November, 2004

『マルクスを再読する』とりあえず読了

Monday, November 29th, 2004

書くことがありすぎて今日はここでは書けない。日記を書き貯めしたのもあるし...。

しかし、あまり良いことばかりは書けない。だからなおさら慎重になるし、どうやって文章を組み立てるかをより真剣に考えることにもなる。いつもやることだが、2度目を立て続けに読もうかも思いもする。だが、どうしたものか...

人から…それも大事な人から譲られた(委ねられた・薦められた)本を批評するのは簡単じゃない。でも、「よかったよ」と言って終わらせるのも、ちょっと失礼になる。本当に「よかった」ならともかくね。

sonica mundi、その他

Sunday, November 28th, 2004

黒井さんが去った後の午後は、吉祥寺まで買い物。例の如く、神田川沿いを井の頭公園まで徒歩で行く。途中の三鷹台で「軽く」ブランチ。途中でかなり紅葉しているところがあってビデオの静止画モードを使った幾つかのショットを。

オーディオユニオンでサウンドインシュレータなどを見たあとで一旦家に戻るが、1時間ちょっとでまた外出。今度はヴィオロンにsonica mundiを聴きに出たのだ。途中で古本屋に寄り、鈴木大拙の本(『日本的霊性』)とドゥルーズの『スピノザ─実践の哲学』を見つけて購入。まだ散財。ちょうど読んでいる「ある本」にずいぶん言及があったのと、共演者のひとりが私に勧めてくれたためスピノザの「エチカ」などに興味を持ち始めていたため。

著者のドゥルーズはソーカルの「知の欺瞞」で徹底的に批判されている当の本人。いわゆる「ポストモダン」のおひとりらしいが、自分で読むのはこれが初めて?…だろう。スピノザの入門書として良いのかどうかも分からない。これも一つの縁。ソーカル批判の対象になるようなbullshit-makingな「変な文章」だったら途中で止めるかも知れない。

ヴィオロンで聴いたsonica mundiは、6人とか7人という大所帯の「即興グループ」もんじゅ連の池上さんも参加している。こう言ってよければ、聴いていて肩の凝らないある種の調和を大事にする人たちの集まり。大所帯の即興で陥りがちな「音の飽和」を誰ともなく上手に避け、常に音の間がある。幾人かはミニマリスト的なアプローチをし、それが音の分裂を引き留めている。環境音楽的で室内楽的な即興と言ったら叱咤されるだろうか? とにかくこの人達が集まってこそ起こりうることが起こっていて、しかもそれが絶妙のそこでしか食べられないエスニック料理のようでもあるのだ。わたしなんぞ、ひっくり返ってマネをしたって出来そうもない、彼ら独自の音楽なのである。

本を読みながら聴くという行儀の悪さだったが、それが出来る心地よい音楽であるのだ。もちろん、最後はどうなるか少しハラハラしたので、本を閉じてじっと聴いていた。

東野さんとの再会/ギリヤーク尼ヶ崎さんのパフォーマンス

Sunday, November 28th, 2004

土曜から、日曜に掛けての長いお話。現在東京でベンガル式巻物紙芝居“ポトゥ”の原画展をやっている語り部“ポトゥア”の東野健一さんの最新作品を見るのと、昨年のコラボレーション・パフォーマンス以来1年以上ぶりの再会を果たすために新中野へ赴いた。場所は無寸草という知る人ぞ知ると言われる「画廊」である(この場所についてもいろいろ書けることはあるのだ)。昨年のコラボレーションで共演をお願いした盟友・黒井絹さんにあらかじめこの「イベント」のことを告げてあったので、現地で落ち合うことにもなっていた。

イベントというのは、今回の「原画展」開催中、この土日の2日間やることになっていた東野さんの企画のこと。自分の行った土曜日は、噂に名高い「大道芸人」ギリヤーク尼ヶ崎さんの「映画とお話」、というものだ。私は昨年のパフォーマンス録音の音源をコピーして手渡ししたいという希望を直前になって無理矢理実現しようとしたために、予定より遅れて現地に着いた。そのため、ギリヤークさんの映画はすでに始まって20分ほど経っていたようだ。

到着して初めて来た無寸草の雑然とした土間を通って暗い階段を登りきったが、闇で現場の様子が右も左も分からない。どうやら思ったよりこじんまりしたスペースであり、一角に小さなスクリーンを設置して件の映画を映写している。しばらく映画を観ていて目が暗闇になれてくると、その場所の突出したユニークさと、まるでそこにずっと飾ってあったかのような原画展作品の演出の両方に驚く。しかし、すでに最初を見逃している映画を観ることに神経を集中することにした。ギリヤークさんの踊りの素晴らしさは、連れ合いと熱烈な東野さんの話で聞き及んでいたが、映画とは言え記録となっているその踊りを観ることで、ギリヤークさんの生き方や一つの作品を追究する姿勢などに感動を覚えていた。やはり話でその内容を聞くのと観るのとでは大差がある。

良く時間を掛けて作られているギリヤークさんの『祈りの踊り』というドキュメンタリー映画が終わると、普段数百人の見物人相手にパフォーマンスをする彼自身が10人弱の鑑賞者に向けて自分の踊りと半生を振り返る話を始めた。「トーク」というのを勝手に対談のように思っていたので、東野さんが聞き役となってギリヤークさんとの会話が聞けるのかと思っていたが、実際は1時間くらいに及ぶギリヤークさんの語りの独壇場であった。それ自体が聞く者を引き寄せる魅力的なものだった…

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調和の夢

Saturday, November 27th, 2004

夢で感動して目が覚める。大学か高校生くらいの若い人たちが集まってコンサートの準備をしている。学生達の中に知っている人は独りもいない。が、自分はOBのように彼らと親しく接している。混声合唱団のようなクラブ活動のようだが殆どが女子である。だが、準備しているコンサートはオケとの共演という大がかりなもの。どうやら自分はオケの方の出演者の一員のようである。

ほどなくして照明装置に明るく照らされた舞台上でコンサートをこなす。聴いたことのない音楽。自分は楽器を吹いているだけではなく、指揮者のような一でキューも出すという役割。一体どういう趣向なのかは分からぬが、この世界ではコンサートはそのように行われるのである。そしてその音楽の感動的なこと。合唱団の作りだすハーモニーとオケの感動的なほど劇的な交響。

コンサートはいつの間にか終わり、自分は学校か合宿場の中庭を上から見下ろしている。その場所は山の中腹のような所にあり、周りは優しい自然に取り囲まれている。制服を着た先ほどの女子学生たちが中庭のあちこちに分散して佇んでいる。これは合宿のようでもあり、何か儀式を思わせる空気が張りつめている。

やがてどこからともなく、そして誰ともなく歌が始まる。あちらでもこちらでも歌の澄んだ声がわき起こり始める。そして、統一的な和声を築き始める。いつの間にか自分は下の中庭の女子学生の間にいて、そのハーモニーのまっただ中にいる。そして、女子学生達の顔を見つめている。すべての学生も感動を表情に顕わしている。だが、抑制して最後の儀式を終わらせるために感動を怺えながら歌を歌い続ける。そうだ、これは今まで行ってきたすべての終わり、卒業式、それも自分たちで企画した卒業の儀式なのだ。

透明で、信じられないような感動的な旋律。建物の隙間から差し込んでくる黄昏の光。その中で彼女たちは歌い続け、だんだんに一つの場所にゆっくり移動してくる。そして、彼らは一列横隊し、最後のハーモニーを長く延ばした。感動で、私は涙を流している。

そして目が覚めた。まだ旋律の余韻が残っていたが、感動して涙が出た。

あのような調和と旋律が自分の中にあったとは。いや、それともある何かが自分を訪れたのか。それにしても、彼の旋律を書き留めることが出来たなら。今は感動以外の何も思い出せないのである。

完璧なうた

Wednesday, November 24th, 2004

コスモスの八の花びら幽美かな
復活告げる秋のあけぼの      鈴木宣明

(旧い手帳をひっくり返していたら出てきたメモから)

聖母の騎士」で見つけた短歌

こういう「方法」があるんですね。短歌が芸術なのではなく、短歌の中に芸術があり得る。(当たり前のようでいて当たり前でないこと)

「いきおい」の原理

Tuesday, November 23rd, 2004

一旦始まると、止められず、やっていて身に付いたある種の「ノウハウ」や「メソッド」は、そのまま別の場面でも利用シタクなる。

職場の場所が変わり、仕事を始めて以来10年間溜まりに溜まった職務上の垢をそぎ落としてきれいサッパリなった。それに対して自分の部屋の、文字通り足の踏み場もない混沌は何だ? よくもこんな場所で、楽器の練習や音源のミキシングをやっていたものだ。精神衛生に良くないぞ、これは。ついに我慢の限度が超えて、今日は休日返上で要らぬものの処分と整理、そして掃除をした。

場所が悪くて機能不全になっていたキャスター付きの棚からキャスターを外し、場所を移動。窓側に移動して、見てくれよりも機能性を優先した。別の棚の上に積み重ねることで、面積効率を上げる。

いつも持ち歩いているためにすり減ったリーフレット、堆積したメモ書き、意味不明の数字の書いてある紙の切れ端、そうしたあらゆる物が挟まったフォルダーをかばんから取り出し、ケースやら書類袋の積み重ねを壊し、いちいち物品を取り出して、捨てたり、いちいちクリアフォルダーに再分類をしたり、地面にとぐろを巻いているあらゆる種類のケーブル類、すなわち電話コード、ACアダプタ、ライブ用のスピーカケーブルやコンセントの延長コード、ミキシング用に使っているシールド、ここ1年ほど使っていないMIDIケーブル、などなどをまとめ、とにかく、足の踏み場を確保することを先決とし、掃除機を掛ける。埃をどんどん吸い込んでいき、やっと床に座れるだけの余裕が出来る。堅く絞った雑巾で棚やオーディオ装置に積もった埃を拭うなどして、どんどん片付けていく。それで8時間に及ぶ<当面の整理>が終わった。これは、前哨戦である。

相変わらず机の上はヒドイものだが、次はキャビネットの中の整理をして、机の収納スペースを確保したら、それも片付けるつもりだ。これは、職場の引っ越しでこの数週間のうちに身につけた「ノウハウ」だ。

きれいになった机で、今度は棚上げになっていた譜面の整理やある古典楽曲のトランス・スクリプションなどができるようになると思えば、片付ける気にもなる。リードも削りたい。人に頼まれて、ずっと放っておいたことも腰を落ち着けて取り組めよう。

今回片付けをやってみた思ったのだが、後で必要になると思ってとってあるものが、結局「堆積」を厚くして、必要なときに必要なものが見つからず、結局、必要なはずのものまでが無駄になっていくというパターン。心をオニにして捨てることや、「拾ってこない」ことがこれからは必要だ。

新しい習慣を身につければ、これまでやりたくてできなかったことまでも実現できそうな気がする。

職場で起きた整理の「いきおい」は、自宅に及んでいるのである。

「銭を払ってでも苦しみを選べ」とはよく言った

Monday, November 22nd, 2004

辛くても後で笑えるたぐいの想い出は書き残せるが、本当の苦しみは記述にさえ堪えない。少なくとも、「癒えた」と実感できる頃までは。だが、一方、「癒えた」時は、それを忘れているのがほとんどなので、そのことは、結局記録されることはない。

だから、結果として「日記」は概ね「楽しいこと」か、「苦しくてもそれを乗り切ったという自信を反映するもの」となる。振り返ってみて、本当の辛さや苦しみを記述したことは、ほぼないように思う。実にその意味で他人にとっては何の足しにもならない詰まらない自慢話が連なることになる。

今までの私なら、この週末に味わった「苦しみ」は、何も記述しないで、あたかも何事もなかったように、心の中で反芻することもなくすませて、心が自ずから癒えるのを待ったところだろう。だがさっきも書いたように、「癒えた」ときはそれを忘れているのだから、自分にその経験はなかったことになってしまう。実に、オメデタイ性格である。

しかるに、今回の出来事は簡単に忘れてしまえそうもないだけの立ち直りの難しいと思われた精神的打撃であった。もちろん、動機がどうであれ、私の貧困な判断によって傷付いた本人にこそ打撃だったことは言を待たない。だが、良かれと思ったことがまったく裏目に出て、その「任」に対するなんらの「ねぎらい」も「部分的な評価」もなく、ただ批判された。しかも私の判断に対する自己説明(弁明)の一言さえ受け付けて貰えなかった。

それが具体的に何であったのかはともかくとして、掛け値なしに自分の成長に役立てられるような経験であったとまず記しておこう。

最初は、こんなミソを付けるだけの結果になるのであれば、こんな「任」を引き受けることはなかった、何もしなかった人が責めを受けずに、何かをボランティア的に役割を引き受けた人が責めだけを被った、なんの自分の現世的な足しにもならなかった、と自分を情けなくも思い、自分を責めもし、「任せたからには結果まで引き受けるべき」ではないかと、「任せた」ことに関する不徹底や根本的な不寛容を、あれこれ心中責めもした。だが、一夜経って、今はそう思っていない。相手の不寛容も感情的な反応にもすべて理由がある。私が誤った判断をしたことにも理由があったように。

つまり、無駄な経験というのは自分が能動的に働きかけて得たものである以上、それがどんな形で終わろうと、無駄であることはあり得ないということを学んだ。どうやって学んだのかは、ここでは敢えて説明すまい。

「風の、かたらい」

Sunday, November 21st, 2004

「風の、かたらい」アリ。

SGさん、HGさん、HMさん、他、初対面の2人を含むゲストアリ。

初めての構成まとめ役で、初めて登場するまったく予期できない出演者の配分など、現場で判断するが、心に余裕ナク、全然思うようにイカズ。それ以上に、主催者の逆鱗にフレル。また、自分の演奏にも集中デキズ、ほうほうの体(テイ)。すべて裏目裏目。その上、「自分勝手」との最高の栄誉まで授カル。

人生いろいろ、共演者もいろいろ、意見もいろいろ、の一夜。

まったくライヴやってて心底良かったと思う一夜。

会社のおひっこし

Saturday, November 20th, 2004

1年余りの間に2度目のおひっこし。今回はより大きなもの。朝から自分のセクションが問題なく移動できるように業者に現場での指示を出し、現場合わせをしたりして夕方まで奔走。

全体の調整をしながらこれだけの大所帯のひっこしプランを立案した人たちの方が間違いなく大変だっただろうと思うが、自分はこういう現場での即興の方が好きだ。

広々としてきれいなオフィスで来週からまた新規蒔き直し。

模様替え地獄

Thursday, November 18th, 2004

帰宅すると、先週の週末に注文していた連れ合いの部屋で使う本棚2つがが届いていた。会社の引っ越しの準備もあり、業務以外にもばたばた梱包や廃棄物の選り分けなどをして疲労していたが、故あってその一つを組み立てることに。もう11:00pmを回っている。

外は雨が降っている。明日は引っ越しの前日。追い込みとなる。そして、帰宅したら2つ目の本棚の組立が待っているのである。

それが終わったら自分の部屋のスピーカーをリビングに移動する。公私ともに模様替え地獄なのである。