Archive for December, 2004

Day 2

Monday, December 13th, 2004

格闘二日目、と言いたいところだが、日中は「仕事」をしているので、もちろん「作業」は帰宅後だけ。

結局、PowerBook G4のHDDを「パーティション*」で区切ったり、OS X用の新しいFirewallを入れたりすることにしたので、日曜日に実現した「すべての設定**」を泣く泣く一旦おシャカにすることに。

* パーティションで自分のMacのHDDを区切るという使い方は、10年以上前、IIsiを購入したのと同時期に1GBのハードディスクを「時代に先駆けて」入手したとき以来。異なるバージョンのOSでMacを立ち上げたりすることが頻発したことと、HDDが区切られていることで、大きなハードディスクの最適化や問題の発見等をするときも、いちいち「フロッピー」などを起動ディスクにせずともパソコンを立ち上げて作業することができた。また、パーティションの1区画だけなら、Norton Doctorなどでスキャンを掛けたりするときも、必要なHDDのセクションだけをチェックするので、HDDが分けてあると色々な点で便利だと思っていた。

** 比較的単純なメールソフトやネットのTCP/IPの設定といった「生存に必要なもの」から、Wireless MouseをPowerBookに認識させたり、AirMac Expressでネットにつないだり、プリンターからワイアレスでプリントアウトしたり、オーディオアンプからiTuneラジオの音をHi-Fi再生したりと言った、ほとんど「不要!」と世間様には呆れられるかもしれないような、もろもろの「贅沢」を可能にするおバカな設定すべてのこと。

設定が完了したばかりのパソコンのSystemフォルダやあれこれのアプリケーションなどをDVD discに全部バックアップを取るというような一見「brilliant idea!」も、気が遠くなるような永久に思われるほどのDVD writingに掛かる時間の長さと時計の針の動きの速さ恐れをなした。というか、ただ待っているということが“針のむしろ”に座っているような苦痛でしかないのだ、この時期は。これは、ほとんど病理学対象的な症状である。しかも何かしながら待つということができないくらい「画面」に去来することに注意が向いてしまっているから、結局本に目を通すというようなこともロクにできない。「ノイローゼになっている」と連れ合いに指摘されるほどの神経質さだ。だから、ほとんど何もすることができない状態で、画面をじっと眺めながら数十分の間、Macのbaby-sittingをし続けるしかないということになる。

何度もbackup作業を「このまま続けるべきかアボートするべきか」に逡巡したあげく、やはり「すべての設定」ごと、OSを最初から再インストールすることに決めた。別に1年掛けて築き上げてきた複雑な設定をおシャカにするというのではない。前日「たった1日」掛けてDay 1にやったことである。それなのに、理解した上で旨く行ったことも、なんだか知らないが偶然旨く行ったことも含めて、それをおシャカにするのは非常に辛かったのである。

一旦HDDを白紙に戻すことを決めたのがもう夜10時半を回っていた。パーティション設定の方法がOS 9のときと勝手が違う。なんども同じ動作を繰り返したりしながら、やっとパーティションができあがる。これですべてHDD上のものが白紙になった。さて、再インストール。それにまた時間が掛かる。巨大なDVD-ROMで提供されるデータ量である。時間が掛かるのも当然である。

思ったよりOS Xには慣れそうであるが、まだ新しいGUIの動きに戸惑うところがある。さっき「開いていたもの」が、一度閉じると、そもそもどこに在ったものなのかが容易に分からなくなる。バカみたいにキーワードを入れて検索して捜したりといったことも繰り返す。ブラウザを使っているときも、たいして早いとは感じられない。テキストのスクロールも然りである。やはりOS Xは重いのであろう。

しかし、そんなことよりなによりも、OS Xは、「パーティションを切らない方が速度が速い」などという記述を何かで読んだ。いまさらいうなよそんなこと。またパーティションを白紙に戻すか。まったく、何をしているんだろうボクは。

手紙

Monday, December 13th, 2004

Aquikhonneさま

(おっ。新しいメールソフトからメール書いてきてるじゃん! やったね。)

あたらしいOSに切り替えるときは、いろいろな不便があります。私もどうしようか実はとほーに暮れています。前のバージョンのソフトでしかできないことも無数にあるので、私の場合も影響は甚大です。まったくアップルも「おつ」なことをやってくれます。こうやってパソコン会社だけは新規需要を自ら造りだし、利益を確保していくのです。マイナーなOSバージョンのアップデートの場合、古いソフトも新しいOS上で「走らせる」ことができるのが普通ですが、今回の9から10への以降は、ほとんどのソフトを置いてきぼりにする過酷なものです。プラットフォーム(基礎)自体のプログラム形式の変更なので、「古いソフトが全然走らせられない」のです。他にも色々理由はあるけど、これが主たる理由でボクも長いことOS 9で頑張ってきたんですね。でも、さすがにもう時間切れです。世の中がどんどん新しい方に切り替わっていく。世の中で追従するのはいやなことはたくさんあるけど、こればかりはもう追従します。禁断のリンゴ(アップル)をかじってしまったからです。これで私が機種を変えるくらいだから、相当の人が新しいパソコンとソフトに再投資することになっていると想像できます。う〜む。

だから、どうせやるなら再投資に相応しい「大変革」で、しかも切り替えで生じる不便を相殺するくらいのメリットがないとやる意味がないことは確かです。そんなこともあり、「超便利」にしないと気が済まないので、正直、ファイナンシャル的にはちょっと無理をしている自覚もあります(まったくあきれるね)。ただ、中途半端な変革は却って不便が残るので、今回は、思い切って新しいアップルの戦略に「がばー」っと、乗ってみることにしたのです。

さて、Aquikhonneさんのメールのことですが、「送信済み」のアイテムが今のままでは出てこないことは知っています。受信ファイルが新しいメールソフトの方に出てきているのは、遠くにあるネットサービス(リンククラブ)のメールサーバにまだAquikhonneさんのメールが残っているからです。それを昨夜全部パソコン内に読み込んできたから、画面上に表示されているわけです。でもAquikhonneさん送った方のメールは、仕組み上、自分のメールサーバに残らないので、あそこに出てこないわけです。ただ、旧いメールの内容は、Aquikhonneさんのパソコン内にはあるので、まったく参照できないわけではありません。ただ、技術的に、今回の新しいメールソフトに読み込んでくることができるのかどうかは、いまのところ即答できません。できたらいいと思いますが、ちょっといろいろ研究する必要があります。だからちょっと待っていて下さい。

今日Aquikhonneさんが見ているメールソフトは、今まで使っていたものと「見た目」だけが変わったのではなく、OS10用の「まったく別のソフト」なのです。意味は分かりますか?

 

これもちょっとボクの研究が必要なことなのですが、新しいOS 10上にOS 9を上から載せて、「画面上に表示してみせる」という機能があるらしいです。OSの二層構造です。これは、新しいOSに切り替えても、古いファイルやソフトを使う必要があるひとがまだ世の中に沢山いるので、アップルが苦肉の策で作った機能です。これで表示された画面は、「クラシック環境」と呼ばれるものらしいです。つまり、時代は変わったけど、「古典」的な画面を表示してみせられるわけです。「大きな扉(OS 10)」に付いた「小さな窓」から、昔の自分(OS 9)を覗き見るみたいな、いわば「退行催眠型パソコン」機能もあるわけです(笑)。

あ、この書き方って初心者向けパソコン雑誌のライターみたいだね。こういう「作家」なら、今とあまり変わらないからゴメン被りたいけど、Aquikhonneさんのためなら書くのは楽しいです。

とんちんかん

Day 1 (Sunday G4)

Sunday, December 12th, 2004

記録するべきことが多いほど、実際それに夢中になっているので書けなくなる(何度も言っているように)。だから、「後書き日記」が可能なblogは、便利なのだ。

6年ごと位に起こる文字通り熱病のようなパソコンの買い換えイベント。というか、投資したもろもろの特殊な周辺機器や古いOSしかサポートしないearly versionの音楽ソフトとの兼ね合いなどなども色々あって、古いパソコンも結局手放せないので、実は「買い足し」というのに近くなるのである。一度きれいさっぱり、古い周辺機器やらソフトやらを含めて全部廃棄処分したら机の上も部屋も気持ちも良くなることは分かっているのだが、なけなしの金を投資して買ったモノなので、まるで大事な「お気に入りの家具」のように、「10万もするサウンドカードが入っているから」というようなおバカな理由で10年以上経つIIsiとかを、ハードディスクレコーディング・音楽記譜マシンとして後生大事にとってあるという案配なのである。しかし、early versionのソフトだけ使っていると、古いマシンも実にOS Xに負けないくらいさくさくと早いのである。

現役で使っている(た)のは1998年に出たPowerBook G3のコードネーム「Wall Street (300MHz)」である。IIsiに引き続き、音楽編集用に使おうと思っていたが、実際はほとんどウェブの構築やウェブ・ブラウジングというテキストベースのファイル制作くらいにしか使わなかった。一時は自宅と会社を往復して数ヶ月間職場でも使用する日々が続いたこともあるが、それもテキストをいじるのが主であった。

その当時、Wall Streetを駆け込みで購入したのは、それに先立つことほんの2年くらい前に、DTM用に購入したやや本格的な1Uラックマウント式のMIDI Interfaceへの投資額が8万近くしたために、その当時徐々に出始めていたUSBタイプのMIDI Interfaceへの切り替えがどうしてもためらわれたからであった。しかもPDという今では完全に忘れ去られたオプティック・マグネット式のメディアドライブもSCSI接続だったこともある。「過去を断ち切る」のではなく、「過去にしがみつく」ことを断然選んだのである。

Wall Street(虹リンゴ)は、その後にUSB & FireWire式のPowerBook G3(グラファイト色・白リンゴ)が出たために、Serial portとSCSI portを持った最後のPowerBook G3のひとつとなった。その当時、まだMIDI Interfaceとの接続はSerial Port(あるいはモデムポート)が主流で、私のように「高額」の投資をした人にとっては、USBやFireWireという新しいインターフェースの方式が世に出始めたことを強く意識していても、付いていく気も、付いていけなかった人も多かったのではないか。つまり、Wall Streetは、その前に使っていたIIsiの外部装置(HDD, MIDI interface)との相性の点で非常に優れていたのである。

今回「白羽の矢を立てた」も、やはりPowerBookであった。単に、ステイタスを落としたくないと言うことだけでなく、薄いコンパクト設計にどうしても魅力を感じたからだし、いまさらbulkyなデスクトップ型を購入する気にもならなかった(もちろん、出たばかりのiMac G5を店頭で見て、その速度とディスプレイの大きさに一瞬心は動いたものの)。タイミング的に今購入するのがやや早すぎた可能性はある。これは、「PowerBook G5というのが比較的すぐに出るんじゃないか」と噂されていることもあるからだが、そうした噂の類は今回一切考慮しなかった。「G5が出れば今度はG6が出る」と噂されるのである。パソコンというものはいつ買っても「早すぎる」のである。

前回ならその当時得られる最高のスペックのマシンを手に入れることしか頭になかったが、今回は逆にパソコンのライフサイクルが短くなることもある程度予期して、PowerBook G4の一番小さいモデルを(つまり予定より低いバジェットで)購入することにした。つまり12″モデルである。

今回は店頭で12″モデルが19″モニターと接続されているのを見て、「あ、これが解決策だ」と直感した。候補のひとつであった15″モデルとの差額は10万円近く。差額の10万があれば、外付けディスプレイを買ってもサードパーティのものならお釣りが来る。そとに持ち出してレコーディングなどで使うことを考えると、15″ではやや大きすぎると感じる(電車の座席や外の喫茶店で作業することを想定しているのである)。17″などは問題外である(一体どういう使い方を想定すればいいのだろう、17″って?)。連れ合いのiBookが12″なので、だいたいのディスプレイサイズは分かっていた。ディメンション的にはiBookよりも薄くて軽い。これは、「気軽にソトに持ち出すことのできるハイスペックのサブノートマシンである」と勝手に位置付けたのである。

スペック的にはiBook G4とPowerBook G4の差はあまりないことに驚くが、ボディを閉じた状態で、外付けディスプレイとの接続使用が可能なのはPowerBookの方だ。それにiBookの厚みはやや気になる。DV編集などを考えるとやはりPowerBookだろう(と勝手に思った)。

AirMacを使ってプリンタを連れ合いと共有することを考えた。また、リビングと自室の間をパソコンを持って往来したり、リビングをはい回るコード類をシンプルにすることを考えると、AirMacが解決法なのである。家中からLANケーブルを一掃したらさぞ気持ちよかろう。マックのiTuneでペルシャとかからのDervish音楽などを受信してステレオから垂れ流すのにもよい。DVD playerとしてテレビとつながっているPowerBookをApple Wireless Mouseで、食卓から操作する。これはリモコンなのである。

こうして楽しくもストレスフルな「新世代型」Mac環境の構築に励むのである。楽しみとストレスは表裏一体なのである。これからノートンのファイヤウォールをシステムに噛ませてセキュリティ確保することを考えると、まったくうんざりだし、PHSを使ってのモバイル環境の設定もある。クリアしなければならない問題を考えると実にやれやれで「楽しみ」なのである。

それにしても、PowerBook G3で活躍したOS9用のDreamweaverとかFireworksとかPhotoshop LEとか、Firewallとか、全部揃えたら一体どうなるんですか? OS X用に変えたら、ソフト投資額もバカにならんじゃないですか?などとぷんぷんしながら考えつつ、あらゆるハードの「設定」に日柄一日過ごした日曜日だった。

そうそうわれわれには信じられないことだが、結婚3周年でもあったのだ、12/12は。(こちらについても後記予定。)

映画『モーターサイクル・ダイアリーズ』

Saturday, December 11th, 2004

チェ・ゲヴァラの学生時代のバイクでの冒険日記をベースとした映画『モーターサイクル・ダイアリーズ』を劇場で観る。11月中に一度恵比寿の映画館の前まで行ったのに満員で見ることができなかったもの。1ヶ月半以上前にMから借りた原作はとうに読んである。この日は珍しく午前中の輝かしい朝日を拝みつつ、起床することができたので、きちんと「朝食」と名のつくものを食べ、コーヒーを飲み、午前中の回(11:00)を並ぶことにしたのだ。そしてそれは思いのほかうまくいく。

この映画に限らず、原作との違い、みたいなことを論じてみてもはじまらないことは分かっている。映画は映画だ。原作に忠実であることが立派であるわけでもないし、原作と違うことで映画として面白いものなどは沢山あるし、その逆もある。だが、自伝などを基にした作品はどこまで脚色ができるのか? ここには監督や脚本家の倫理とかを問いただそうというような無粋な「原典忠実主義」を披露するつもりはないのだけれど。

だが、まさに革命家ゲヴァラの若い頃の冒険箪を、イメージの先行した革命家像と「離れたもの」としていかに描き、読者に届けるか、というところが「モーターサイクル日記」の出版の眼目のひとつであったと考えれば、いかに革命家と離れたゲヴァラがこの映画で描けるのか、というところに自分は興味があったのも確かなのである。そして、その点に関して言うと、ガエル・ガルシア・ベルナルというゲヴァラ役の俳優は、とても納得のできる配役だったと思う。つまり、内向的で繊細な「喘息持ち」の青年のイメージとして相応しかったという意味でである。

原作の「日記」自体が、どきどきするような二人乗りバイクによる実際の旅の顛末を反映しているわけではおそらくなく、日記というもの自体が事実を反映していると考えること自体にすでに疑問がある(このblogだってそうだ)。それを裏付けるように、一緒に旅をした道連れのアルベルトも、この旅の回想録をなんらかの形で残しているようだが、同じ事件を扱った記述がすでにゲヴァラのものと違っているとさえ言われている(訳者による「あとがき」による)。視点が異なれば、ものの見え方が違うなどということは、いまさらことさらに言い及ぶほどのことではないだろうが、日記さえ「作品」として原作者の手を離れれば、さらに異なったものになっても不思議はないことの一例だ。

正直言うと、原作の「日記」自体が最初に予期した印象よりはるかに地味で、思ったほどおもしろおかしく書かれているというような感慨を持たなかった。加えて、文章自体が執筆活動を専門とする文学者のように練られた文体でもないので、どちらかというと、読みやすいものではない。非常に独特の語り口を持っていることが想像できる。おそらく翻訳者も頭を抱えたであろうところが何ヶ所もある。それは翻訳が不味いとかいうことではなくて、おそらく不可能なのだ、あれを訳することなど。

それにしても、やはりというか、この脚本家もこの「ダイアリー」を映像化するに当たって「革命家としてのゲヴァラ像」と日記の作者を結びつけないでは済まさなかった。「ダイアリー」自体が、革命家像と結びつけて読むとやや拍子抜けするような内容だと本書を日本で紹介した訳者自身が断っている。たしかにそうだ。それでも、この旅がゲヴァラにとって大きな体験であった以上、後にその経験が革命家になっていくゲヴァラに「影響を与えていない」と考えることにこそ、もちろん無理がある。だが、言い方は悪いが、この映画ではこの旅が「後の革命家ゲヴァラを作る主たる原因であるかのように描く」という脚色上の誘惑に、ものの見事に負けている(べつに負けても悪いわけじゃないんだけどね)。そして、おそらくそれ以外にこの原作を映画化する理由も動機も方法もなかったのだ。

つまり、それが映画を見ようと思う人々の「観たいモノ」に応える制作者の抜きがたい傾向なのだ。

むしろ、革命家ゲヴァラが「そうなって」いく直接の原因というのは、このモーターサイクル冒険を終えて何年か経った後の「何か」、しかも「活動に参加する直前の何か」であって、その点については、原作の「日記」には何の片鱗もない。それは、本人もそう断っていたはずだ。

理由もある。そうした本当に大事な「何か」は文章化できない。するヒマもない。それほどかように「大きな出来事」は本人を恐ろしく多忙にしたはずである。しかも、それはある種の暗合がばたばたと連鎖的に起こり、それも一見行き当たりばったりに動いているようにしか見えないものであって、多分に言語化するとものすごく「詰まらない理由」だったりするかもしれない。おそらくそれは「単なる運命の悪戯」だったかもしれない。同じ旅をしても、その「詰まらない理由」と「本人の世界解釈の思い込み」がなければ、案外革命家に生まれ変わることはなかったかもしれないのだ。だが、それをどうやって「あの地味な日記」から「面白い映像」に変換するのか、それが脚色家や映画製作者の追求するべきテーマとなるのは、まったく理解できないことではない。

だからということでもないが、若いゲヴァラたちが通った道中を映画に携わった人たちがカメラで辿っていくことで、おそらく「現場での出会い」のような連鎖があったとボクは想像するのだ。この映画は、作っていく間に、ゲヴァラの目から見た当時の人々の表情を、現代にそのままに映像として捉えることができるということが製作者達によって悟られた時点で、「革命家像と切り離されていないゲヴァラ像」、あるいは、その片鱗を描くための口実と化すことに決まったのである(きっと)...

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MFC-410CN!

Thursday, December 9th, 2004

ホーム用に購入を検討している、BrotherのMFC-410CNを家庭のパソコンによって無線LANで共有するためには、クライアント側(PowerBook, iBook)にはAirMacカードが入るので、あとは、MFC-410CN側に何らかの無線受信装置が必要。こちらには無線LAN NC-2200wがBrotherから出ている(\ 19,800 税込)が、AirMac Expressという受信装置でも代用可であることが判明。15,540円(本体価格:14,800円)。NC-2200wというプリントサーバ専用機よりも、AirMac Expressの方が多様な使い方ができよう。

これは、アップルの出しているAirMac Extremeベースステーション(23,100円 税込)と無線でコネクトできるもの。しかも、マック側からのサウンドデータの発信を受けられるので、ステレオの近くに置いてアンプとつないでいれば、マックからの音をステレオで受信して「再生」が可能だという。つまりAirMac Expressは、単なる「プリントサーバ」以上の「何か」なのだ。

完全に備忘録。こんな「日記」を人が読んで何か意味があるとは思えない。申し訳ない。

破天空

Sunday, December 5th, 2004

今日は、現在比較的遠方に住む小川氏が実家での大事な法事を忘れていて「ダブルブッキング状態」となり、破天空に出演できなくなった。そのために、久しぶりにラッパの斎藤剛さんとのコラボレーションとなる。当の小川氏にはちょっと気の毒だが、「怪我の功名」と言うべきか、結果的には楽しい展開となった。「東京即興許可局東京即興許可局東京即興許可局」方式で、斎藤さんと餓号さん、そしてナベさんの4人から、3人を抽出して4つのトリオをやるというやりかたでライヴを行った。

廃人餓号さんのヴォイスパフォーマンスは、芝居掛かったセリフ調の語りをしていたかと思えば、感極まった調子で絶叫したり、ラッパさながらの美しいロングトーンで調性を感じさせるハーモニーを聴かせたりと変幻していく。言葉に関しては、オリジナルのテキストや、ある言葉の音(おん)から連想される他の言葉にどんどん逸脱していく即興性を感じさせる「言葉アソビ」、そしてある漫画家の「マンガの朗読」まで何が次に出るのか分からない。だが、彼のパフォーマンスには深刻になりがちな即興音楽の中にあって笑いがある。時にはシニカルなそして時にはホッとする笑いが待っているのである。

自分はと言えば、無我夢中で3つのセットをこなした感じだったが、帰宅後に録音を聴いていたら、今回のこの組合せに非常に高い可能性を感じる。これを「定期化」するのは諸事情でおそらく難しいが、餓号さんとも斎藤さんともライヴをやりたいと思った日であった。斎藤さんとは随分長いことご無沙汰していたが、また再びある程度定期的に顔合わせをしていければと願わずにいられない。

ソルボセイン、おそるべし

Saturday, December 4th, 2004

カーペットのないリビングの方に最近移動したスピーカーのサウンド・インシュレータを入手。さっそく試してみる。

こちらに越してきて2年以上住人がいなかった階下に、ついに入居者が来たために、夜遅くまで聴いているステレオの音の下への影響が気になり始めていたためだ。スピーカーの下には鉄アレイのように重量のある金属製の専用スタンドを敷いているのであるが、それでも床に伝わる振動がやや感じられていたので、より一層の音の伝道遮断が必要と判断したのだ。

購入したのはDAIKにあった「ソルボセイン」という素材を使ったもの。先週末に吉祥寺のオーディオユニオンで見たのは、どうも音を向上させる目的ためのものであるらしく、どれも硬質のものばかりで音の遮断に効果があるとは思えなかった。ソルボセインも決して安価ではないが、目的を考えると試す価値ありと考えたのだ。適用法は、インシュレータをスピーカーとスピーカスタンドの間に挟み込んだだけだ。

結果は、床への振動はずいぶん押さえられたように思えた。柔らかな材質なので、音にある程度「もや付き」が出ても仕方がないと最初から覚悟はしていたが、驚いたことに、音が「好み」の方にチューニングされたことだった。

床から伝わる音が、実は却って「もや付き」の原因になっていたらしく、こうした共振のファクターを遮断したことで、音の輪郭はこれまでよりもくっきりしたような印象さえ持つ。しかも耳に痛いような感じもなく、実にまろやかな味が出たような気がするのだ。音量を上げても昔ほど疲れない。

今日は、いろいろな作業をしながら昔入手して最近聴いていないジャズのLPソースを聴きまくったりした。そのあと、セルの「田園」のLPを聴いたが、あまりの音の暖かさを再認識し、オーディオの深さを垣間見た気がした。

リビングの蛍光灯を暖色系に変えたために起きた「錯覚」なのだろうか? まさかね。

明日は、ライヴ。あまり夜更かししないで明日に備えなければならない。

マルクス発、スピノザ行き

Friday, December 3rd, 2004

確かに何か大事なものとようやく邂逅しているという全身の血が沸き立つ感覚。二重のとまどいと嬉しい驚き。「当たり前」の錯誤に気が付く自分への根拠なき信頼。進むべき道の長さと険しさ。時代の何を問わず、「あらゆる時代は優しいものではなかった」し、そうした中で思想は鍛えられていく。敬意と愛。そうしたすべてが押し寄せる。

最初に盟友のひとりによって強く勧められた「エチカ」の著者としてのスピノザが先行。その直後にMから譲り受けた「マルクスを再読する」を“再読”し始め、1章を割いて言及されるスピノザへ、興味が喚起される。しかし「再読する」を読み終えるその日に古書店で電撃的に出合ったのがドゥルーズの「スピノザ─実践の哲学」。

ドゥルーズはソーカルの『「知」の欺瞞』によって、その「科学」的概念の社会学への錯誤した比喩を通じての「ねじれた濫用」が批判された。でも、考えてもみれば当然のことであるが、一つの間違いがあらゆる論述の間違いを意味するわけではない。信頼を損ねたことは、覆うべくもなく、またその責めはだれよりも本人がすでに受けている。だからして、一を以て全を否定するのも別の極端である。少なくとも、「実践の哲学」は、ソーカルの著書で指摘されているような「科学的」を装った曖昧な比喩などが散見される妖しい文章ではなく、私が読む限りにおいて、頭にすっと入ってくる極めて明解な文章で書かれている。たまたま翻訳者(鈴木雅大氏)の翻訳がよかったのか、それさえもよく分からないし、ドゥルーズの何もまだ知らないに等しい自分だが、この本に限って言えば、非常に分かりやすい「スピノザ」の解説書になっている。

「マルクスを再読する」の再読が終わらないので、ちょっと読んでみるつもりで40ページほど読んでみたが、止まらなくなる。数ページ読み進んですでに感動を覚え、幾つかの文章を書き出してみたくなった。

曰く、「スピノザは、悲しみの受動的感情にはよいところもあると考える人々には属していない。彼はニーチェに先だって、生に対する一切の歪曲を、生をその名のもとにおとしめるいっさいの価値観念を告発したのだった。私たちは生きていない。生を送ってはいてもそれはかたちだけで、死をまぬがれることばかりを考えている。生をあげて私たちは、死を礼賛しているに過ぎないのだと。」

曰く、「風刺とは、およそひとびとの無力や苦悩になぐさみのたねを見出すもの、軽蔑や悪意、侮蔑、おとしめの念によってつちかわれるもの、ひとびとの心を打ちくじいてしまうものすべてのことである(圧制者は人々のくじけた心を必要とし、心くじけた人々[隷属者]は圧制者を必要とする)。」

衒学に始まり、衒学を葬り、新たな「衒学」へと至るための鎮魂は、まだ始まったばかりなのである。