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マルクス発、スピノザ行き

Friday, December 3rd, 2004

確かに何か大事なものとようやく邂逅しているという全身の血が沸き立つ感覚。二重のとまどいと嬉しい驚き。「当たり前」の錯誤に気が付く自分への根拠なき信頼。進むべき道の長さと険しさ。時代の何を問わず、「あらゆる時代は優しいものではなかった」し、そうした中で思想は鍛えられていく。敬意と愛。そうしたすべてが押し寄せる。

最初に盟友のひとりによって強く勧められた「エチカ」の著者としてのスピノザが先行。その直後にMから譲り受けた「マルクスを再読する」を“再読”し始め、1章を割いて言及されるスピノザへ、興味が喚起される。しかし「再読する」を読み終えるその日に古書店で電撃的に出合ったのがドゥルーズの「スピノザ─実践の哲学」。

ドゥルーズはソーカルの『「知」の欺瞞』によって、その「科学」的概念の社会学への錯誤した比喩を通じての「ねじれた濫用」が批判された。でも、考えてもみれば当然のことであるが、一つの間違いがあらゆる論述の間違いを意味するわけではない。信頼を損ねたことは、覆うべくもなく、またその責めはだれよりも本人がすでに受けている。だからして、一を以て全を否定するのも別の極端である。少なくとも、「実践の哲学」は、ソーカルの著書で指摘されているような「科学的」を装った曖昧な比喩などが散見される妖しい文章ではなく、私が読む限りにおいて、頭にすっと入ってくる極めて明解な文章で書かれている。たまたま翻訳者(鈴木雅大氏)の翻訳がよかったのか、それさえもよく分からないし、ドゥルーズの何もまだ知らないに等しい自分だが、この本に限って言えば、非常に分かりやすい「スピノザ」の解説書になっている。

「マルクスを再読する」の再読が終わらないので、ちょっと読んでみるつもりで40ページほど読んでみたが、止まらなくなる。数ページ読み進んですでに感動を覚え、幾つかの文章を書き出してみたくなった。

曰く、「スピノザは、悲しみの受動的感情にはよいところもあると考える人々には属していない。彼はニーチェに先だって、生に対する一切の歪曲を、生をその名のもとにおとしめるいっさいの価値観念を告発したのだった。私たちは生きていない。生を送ってはいてもそれはかたちだけで、死をまぬがれることばかりを考えている。生をあげて私たちは、死を礼賛しているに過ぎないのだと。」

曰く、「風刺とは、およそひとびとの無力や苦悩になぐさみのたねを見出すもの、軽蔑や悪意、侮蔑、おとしめの念によってつちかわれるもの、ひとびとの心を打ちくじいてしまうものすべてのことである(圧制者は人々のくじけた心を必要とし、心くじけた人々[隷属者]は圧制者を必要とする)。」

衒学に始まり、衒学を葬り、新たな「衒学」へと至るための鎮魂は、まだ始まったばかりなのである。