Archive for January 9th, 2005

第8回「風の、かたらい」

Sunday, January 9th, 2005

石内矢巳の主催する詩の朗読と器楽即興を中心としたパフォーマンスあり。今年最初のライヴにふさわしい楽しい展開。主催者の石内さんはビジネスで不在であったが、皆の機転と、そして何よりも彼の一任した松田景子さんの「しきり」によって、難局を乗り切る。彼女には感謝。

出演者はいつものように多様にして多彩。前日に別用で電話連絡のあった黒井絹さんに助っ人を頼んだら快諾。電気ギターを持って駆けつけてくれる(そしてレギュラー出演者よりも早く現場で待機してくれていた)。ラッパの斉藤剛さんにも声を掛けたところ、顔を出してくれる。実に、頼もしい人々なのである。あとは、レギュラー出演者の小川圭一さん、永山、松田景子さん、えみゅさん、佐野さん、そして第3部に遅れて登場した廃人餓号さん(即興俳句、声)。

全体を三部に分けることにした。(以下敬称略)最初のセットで、小川+黒井+ナ カ ミ ゾ のトリオで始める。思いのほか、というか、推して知るべしというか、よく「合う」3人なのである。それを好しとすべきなのかどうかは、人のテイストにもよるだろうが、黒井さんと自分はかなり満足ができたのである。そのトリオに松田、永山の2人が機を逃さずに登場。

第2部は永山のプロットによる「朗読プレイ」。あらかじめ用意しておいた朗読用のテキストを永山+えみゅ+ナ カ ミ ゾ の3人で同時に読み始めるという一見ナンセンスな試み。テキスト朗読の即興性と偶然性を味わうという至ってシンプルなアイデアなのであるが、それを石内さん不在を良いことに試してみる。5人のヴォイス集団、「空・調・音・界」以来の試み。永山はこれが実に好きなのである。鑑賞者側にいた佐野さんは、実に率直かつ批判精神に富んだ反応を客席からしてくれて、正直なかなかつらいところではあったが、永山が演者側に招き寄せることでなんとかやり過ごす。その後は、小川さんがサックスで入り込んできたことをきっかけに、器楽即興の世界になし崩し的に突入。景子さんの朗読が始まると、フロアタムとシンバルを叩いてみようと思い、それを実行。

第3部は、やや演奏し過ぎのきらいを感じた自分は、聴く側に回る。最後はアルメニアのダブルリード楽器のduduk演奏を結局してしまったが、ピアノに切り替えて曲を終わらせてしまった。これには小川さんはやや不満のご様子だったが、時間的にはちょうど良かったのである(などと言えば、暴言かな)。

ライヴ後は、青梅街道沿いの中華料理店の二階に、餓号さん、黒井さん、えみゅさん、永山、そして自分の5人で打ち上げ。打ち上げの集まりとしては5人は少ないが、ここではまた、黒井さんと餓号さんが中心になって、「癒し系」「ニューエージ系」など音楽のジャンル談義が始まってしまった。究極的には、「カテゴリー」は各人の解釈の問題であり、解釈者の主観を如何に面白く、説得力あるカタチの器に盛るか、のハナシでしかない。それはそれで悪くはないが、いくら解釈してみても、音楽のあるがままの実態は、あるがままのものとして存在する。それは、何をどう捉え、位置づけたいか、享受者の希望を反映したものにすぎず、実態を把握することとは別問題なのである。

ニューエージと呼ばれて、嬉しい人がいないと言ことう(私の主張)が、いわゆる、後になって「ニューエージ」と呼ばれる音楽カテゴリーの、もっとも端的に現れる「本質」の一つだと自分は考えるが、それはなかなか分かってもらえない。第三者が名前を与えるカテゴリーから、実は、あらゆる創作者は逃れようとするものなのである。それは「ニューエージ」だけの話ではなく、「ジャズ」から逃れる、「ヒュージョン」から逃れる、「ロック」から逃れる、という感じで、名前の数だけ、われわれが逃れてきたいカテゴリーがある。「あんたの音楽はニューエージミュージックだ」と呼ばれて喜ぶ音楽家を、私の前に連れてきてもらいたいもんである。

それは、「癒し」の商品化に伴って、ビジネス上の便宜で付けられたというのが、おそらく真相だろうし、それをわれわれ鑑賞者が正面切ってそれを真に受ける必要などないのである。

それにしても、「ニューエージ」への分類というのは、実に悪意に満ちている(というのが言い過ぎであれば、「否定的感情と結びついている」)典型的分類だと思う。