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反精神論の音楽論 あるいは、非・霊的音楽論

Tuesday, February 22nd, 2005

今更ながらのことで、敢えて私が言うようなことでもないだろう。だが、世の中には「音楽」と呼ばれるものが実に多くあっても、「およそ音楽と呼ばれるに相応しいもの」のなかに、そう易々と作られる(演奏される)ものはない。ただ、その「難しさ」にはいろいろな種類があって、ただ音を出すのだけでも難しいという「発音」レベルの難しさもあれば、指や腕を自在に動かすことの難しさもある。また、音色や音量を操る困難がある。これらのこととも切り離せない密接な関わりのあるのが、フレージングの難しさという「音を出せる」「指を動かせる」というレベルの次に待ち構えている困難である。さらには、他人の出す音とどのように合わせていくのか(あるいは「合せない」のか)、という「アンサンブル」上の困難というものもある(「アンサンブル」については一度書いたことがある)。いずれの場合も、どのような音を目指すのかと言う、一旦身体の外部に存在したことのある、いわば「既存にみとめられたことのある音型への接近」という、演奏者にとって避けて通れない課題が存在するからこそ、起こってくる困難であるということも出来るかもしれない。換言して、これはイメージ(形)への接近という取り組みである。この「イメージ」を便宜的に私は「外在したことのあるもの」と呼んでいるのである。踏み込んで言えば、こうした一連の「困難」は、取り組むに値するものであるし、追求するに必ず喜びを伴うものでもある。つまり、この困難と喜びこそが音楽においてまさに表裏一体のものなのである。

だが「困難」か「喜び」かという議論は、この際、問題の対象ではない。それを生み出そうとしている状況や結果によってどちらにでも転び得るものだし、「どちらが真か」というような問題ではないからである。しかし、以下のことは議論に値する内容であると信じる。それは、「困難」が、容易に音楽家による「精神論」に結びついてしまうという問題について、である。

■ 「かたちから入る音楽」への反省という歴史

人によっては意外なことであるかもしれないが、音楽に関してある程度の習熟を得ている者たちにとっては、「外在する音型を目指す」ということ自体が、すでに「疑問の対象」となって久しいということがある。これは目指すものが、「外在した音のイメージ」ではなくて、あくまでも「内在的なイメージ」であるという、ある程度のまとまった数の人々が口にし始めている別の「正論」のせいでもあるのだ。つまり、外在したイメージの追求は、「かたちから音楽に入るのはどうか」といういかにも説得力のある言い方で忌避されがちなことでもあるわけだ。こうした「かたちから入る音楽」を批判的に捉えている音楽家というのは、当然あるべきイメージがわれわれに内在したものであるべきだ、と言うある種の精神主義によって支えられている。

一度外在したもの同士に存在するひとつひとつの違い(個性)はこの際、問題にならない。それは、音をイメージ通りに具現化した後で問題となる末端的な違いに他ならないからである。他のすべてが型通りに外在化できたからこそ初めて問題になるレベルの話である。

ここでひとつ忘れてはならないのは、およそ「精神主義」や音楽に関するある種の「知恵」というのは、どのようなレベルの修行者にも等しく理解されて良いものではないということだ。ひとつの教えを、あらゆるひとのあらゆるレベルに当てはめてしまうということは、実はミソとクソを区別しない勘違いと大差がない。ただし断っておくがここで言う「知恵」というのは、特定少数の人にのみ公開されている秘儀とは関係がない。

■ 模倣の非神秘 vs. 霊的神秘主義

反論を覚悟で繰り返せば、あらゆる音楽は「物まね」から始まる。つまり外在するイメージの模倣である。あるいは、「かつて外在した音のイメージ」の模倣と言っても良い。しかるに、音楽は心象風景を表現することだとか、精神的活動だとか、あくまでも人間(演奏者)の内的存在の具現化だとか、はたまた自分の属するある種の霊的存在への奉仕であるとかいう、まったくもって反論のし難しい「立派な精神論」は存在しているし、そうした事々が常に多くの演奏家たちを奮い立たせてきた一方で、大いに惑わしてきた言説のひとつようにも思えるわけである。

特に本論で問題にしたいのは、たとえば、精神論の中には音楽以前に演奏家がどんな郷土を持っているのかであるとか、どんな民族的バックグランウドを持っているのかなどという、まかり間違えば、特定の人間にはそれに取り組むこともできない(取り組む資格がない)とさえ取られかねない内容を含むことを、差別と思わずに(あるいは自己の優越意識を自覚せずに)平然と言い切れる人がいる。もちろん、音楽に取り組むにあたっての、ある特定の精神論を過小に評価しようとか、無意味だとか言うつもりもない。それについては後述する。

だが、霊的精神主義は、限られた数の儀礼通過者が、自己の存在価値を自己の作り出す音楽そのものから得ようとして得られない場合の「頼みの綱」とする、いわば選民意識(エリート意識)の様なものとして働く。おそらくたいていの場合、そのような意識を芽生えさせる本人は、そのことに無自覚なのである。

実際問題、自分の関わる音楽創作が特定の人間にだけ許された特権的な「作業」であるという考え方(思想)は、常にある程度の技術を持った人にとって抗し難い魅力であったということは理解できなくもない。それは、先達から弟子への、音楽的な、さらには音楽から観れば副次的な、ある種のイニシエーション(洗礼的な通過儀礼)を経て、今なお伝えられている可能性がある。こうした通過儀礼的体験が、音楽性そのものを深めるという可能性も完全には否定できないが、むしろそれは本人の関わっているある種の音楽へのコミットメント(献身的取り組み)を強化するための、きわめて効果的な方法のひとつと考える方が妥当なのだ。

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