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「NHK受信料支払い拒否」に伴う別側面

Thursday, February 24th, 2005

「NHKは腐っている。一連のNHK職員による金に絡む不祥事や、安部晋三自民党副幹事長とのやりとりでNHKが政権政党の圧力を甘んじてを受けていたことが明らかな以上、まったく信用ならない、云々。【結論→】だからもはやNHKには受信料を払うまい」。まったく反論の難しい正論である。それには心底賛同出来る。私だって支払い拒否を今すぐしたいくらいだ。人の金をなんだと思ってるんだ?ということだ。巨額の退職金や給料を当然のように貰いつつ血税を無駄遣いして憚らない悪徳公務員に対する怒りにも似た感情を、こうしたNHK職員に対して感じる。政治家に番組のチェックをさせていたとすれば、もうすでにNHKの内部にはジャーナリズムは生きていないということだ。云々。

だが、そこまで考えたとしても、そうした「良心的不払い」の主張者さえ、NHK独自制作の、すぐれたドキュメンタリーや「視点・論点」などの歯に衣を着せない世評批判を含むコラム番組の放映、優秀な海外ドキュメンタリーの紹介といった優れた仕事をしてきたことも、同時に否定できないだろう。だからこそ、NHKを部分的にでも支持していた者たちからすれば、「裏切られた」との気持ちは拭いがたいのである。ナイーヴな考えだと言う嘲笑はいくらでも予想は出来る。しかし、そこまで分かっていて、なお、「受信料不払い」にはブレーキが掛かるのである。

そう。NHKに対する感情的な怒りと当然の啓蒙運動としての不払いの選択。これは、どう考えても「払うものか」と言う視聴者の主張の方に分がありそうに見える。だが、われわれの直情的なNHKに対する反応と、本来何がわれわれにできるのか、ということは分けて考えるだけの理性を持つ必要はないのか? 視聴者の不払いと言う一人一人にとって一見当然のように見えるその行為の集合的な効果とその結末、というところまでわれわれの想像は至っているのか?

ここまで来て、すでに「ああそうか、要するにお前はNHKを擁護しているのだな」と感情的に反応している方がいたとしたら、少し冷静になって最後まで読んでほしいのである。

皆は認めたくないかもしれないが、NHKはある種の「公共放送」public broadcasting であるかもしれないが、「国営放送」national public broadcasting / state-run channel ではない。準国営放送的な役割を担っていることは、放送終了後に「君が代」を流したりするところから見ても明らか(民放も流したっけ?)だが、NHKは、国家の「representative」もしくは「スポークスマン」としての役割を限定的にしか担っておらず、決してその持ち主は「時の権力」ではないという体裁を、少なくとも(建前上)とってきたとも言えるのである。とにかくNHKは政府機関ではなく、特殊法人の一つに過ぎないのだ。今回浮上したような無視しがたい問題(国の検閲を受けていたという一大事)がNHKにはあるにせよ、ある種のバランス感覚で、いわゆる諸外国の国営放送がそうであるような「完全なる国の代理人」ではないという絶妙なポジションを維持していたことは確かなのだ。完全に国家の徴収する税金から予算を貰い受け、国の意思を伝えるだけの国営放送ではなく、大雑把に言ってサービスの半分が、放送を見る人のドネーションによって支えられているという体裁をとってきた訳である。

つまり、自発的であるか否かに関わらず、そうした視聴者のドネーション(寄付)によって放送が支えられているという根拠によって、むしろ「完全な国のコントロール」を回避することが可能であったという面はどうしても否めないのである。これからも、受信料を払っている視聴者こそ、国によるコントロールを制限する権利を持っており、国のものではなくてわれわれ視聴者のものだと主張する義務を負っているのである。

しかるに、仮に、こうした良心的な「自発的ドネーション」を完全に失ったNHKが、将来最終的に「完全なる国の代理人」としての大本営放送に質実ともになってしまう可能性があるのである。「あのNHK」(瀕死かもしれないが僅かに良心を残しているNHK)をわれわれの手に残すために、条件付きの「受信料支払い者」であり続ける、というのは、われわれにとって取り得る最後の手段かもしれないのだ。

つまり、「受信料は払うが、国の機関に墜ちないことを約束しろ」と迫るオプションをわれわれはまだ持っている。もし、NHKがその約束を出来ない、果たせない、と言うなら、そのときは「受信料不払い」と「視聴せず」という不買運動という<当然の帰結>をNHKは甘んじて受ければいいだけの話である。それを、一度や二度の失敗を理由にわれわれの手で安楽死させてしまっていいのだろうか? 一度や二度の失敗、という言い方が拙いならこう言ってもいいだろう。NHKの中にまだ生存している良心的な番組を作る制作者から、その手段を奪っていいのか、と私は皆に訊いているのである。

受信料を払わない視聴者が、NHKに対して何か要望を主張できると思っているなら、それは、逆にNHKを国営放送か何かだと勘違いしているためのような気がしてならない。繰り替えすが、NHKとは、むしろ日本国内で、受信料を払っている人こそが「自分の投資した分に相応な番組を提供せよ、さもなくば…」と権利を主張できる唯一われわれに開かれた放送局なのである。われわれが得意げに受信料不払いの権利を行使し、現NHKに引導を渡し安楽死させたら、今度は宣伝広告で番組をつくる放送局に生まれ変わってしまうか、あるいは押しも押されぬ「本格国営放送」になってしまうか、どちらかしかなく、そうなってから「しまった」と思っても、もう後の祭なのである。この一連の不祥事に過剰反応をし、「良心的不買運動」を展開し、そのために招来されることが、誰を利するのかまで考えなければ、本来運動というものは評価出来ないのである。(そもそも、海老沢の退陣、金に絡むスキャンダル、朝日との対立、受信料不払い運動、とこうして観てきて、その後にニヤニヤ笑っている腹黒いやつらがいる気配が感じられないのか?)

では、どうしたらよいのか? われわれは、受信料の「無条件的不払い」を一方的に主張するのではなくて、本当は「NHKとの受信契約が受信料支払いの条件」なのだから、まず一旦契約を破棄し、再契約を結ぶ際に、こちらからNHKへの希望を契約書に反映させればいいわけなのだ。その契約内容にNHKが賛同できないのであれば、契約不成立、受信料を払う義務も発生しない訳である。NHKが勝手に電波を垂れ流しして、われわれの何人かがそれをたまたま「傍受」しても、契約違反ではないのだ。

(関連:支払い義務は契約があってこそ成立するもので、放送法が支払い義務を定めているのではない、という主張)

ちなみに私はNHKの回し者でも受信料徴収者でも何でもない、大企業の利益を代表するばかりの、コマーシャルに毒された民間放送局 private broadcasting stationsだけが犇めき合う日本を望まず、少しでも多くの質の良い番組と真のジャーナリズムの生存に期待している、ただの視聴者の一人にすぎない。

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