Archive for February 26th, 2005

「独自の文化」を逆上る

Saturday, February 26th, 2005

NHK教育で放送された5分間番組「地球はうたう」で、中国の道教の修行者、道師の演奏する音楽というのをやっていた。笙や琵琶といった楽器を含む編成から勝手に想像した音よりやや騒がしく、いかにも中国の音楽だなという感じで、音楽的には何の共感も覚えなかったが、道師たちの髪型に興味が向いた。彼らの髪は総じて長く、上の方で束ねるのであるが、それは日本の力士と思わせる髪型であった。道教と相撲。やはりどう考えても「つながり」がある。おそらくその昔、道教の道師たちが神の前で西の強者と東の強者に分かれて勝負をし、それを「奉納」した訳である。中国にあのようなレスリングというのは現在ないのだろうか? 相撲が「神事」だということは知られたことだが、日本の神事たる相撲には道教の影響が大きいのは明らかだ。というか、「日本の神事」というものが、そもそも中国から来た道教(taoism)の影響を大いに受けて発展してきたと言うべきなのだろう。

ところで、今年の我が家のカレンダーは、漢字学者の白川静氏の「サイの発見」というものである。漢字の「くち」の字型に当たるものは、そのほとんどは「口」にあらず、白川氏長年の研究によると、「神に祈り、誓うときの祝詞(のりと)を入れる器である」らしい。実際、この見方で漢字を観て行くと実に面白い。「語」という字のゴン辺(言)の下の「口」も作りの下の「口」も、はたまた「告」の下の部分も「サイ」である。「曰く」の「曰」も、「サイ」の器で、「器の中に神の告げるしるしが現れるのでその蓋をちょっと開けてみる」というのが、その漢字の由来であると言う。まったくおもしろい。

古い時代の漢字では、「言」も「音」も下の「口」(サイ)の部分に一画だけ線が加わっているか否かの違いしかない。現代の漢字では「言」と「音」が同じ由来を持っていることはちょっと想像し難いが、昔の字では一画違いなわけである。それによると、器中に、「ある気配」が現れることを示すのが「音」である。白川氏曰く、“神は「音なひ」によって「音づれ」るのである。音は、霊なるものの「訪れ」のしるしであった”。これを読んでいて思ったのは、英語でも「訪れる」には「visit」以外に、「call on」という言い回しがある。この表現にも、「音づれ」を感じられて興味深い。誰か(何か)が来るときは、まず、「音のしるしが先に来る」訳である。

さて、その一画違いの「言」の方であるが、白川氏の説明にはこうある。“「言」は訴えを意味し、そのサイ(器)を榊の枝にかけて神に訴えることを「告」という”。榊の枝を掛けるという日本の神事も、遡ると「漢字の成立に逆上れるほど古い」ものであるということになる。そして、それは漢字文化の中に見出される儀式な訳である。