Archive for March, 2005

Cavalet Waikiki @ SCUM 2000, IKEBUKURO

Sunday, March 13th, 2005

三鷹の病院に入院している知人の見舞いに午後から出かける。その行き帰りにまた武蔵野市の空と「地平線」を眺める。その後、三鷹からバスに乗りひばりが丘に出て、西武池袋線で池袋に。

そして japanoise の伊藤まくさんの主催する舞踏と即興のライヴに向かう。場所は SCUM 2000 という地下にある10人強も入れば狭くなってしまうほどのハコ。前日に御之道似奎さんからメールで今日のパフォーマンスの連絡を受けたので、行くことにしたのだ。アートランドでの『続・矛盾律の椅子』でも対バンになった<水晶の舟>の二人組、そして当日別演ではなく彼らと共演することになったというイシデタクヤさんのパフォーマンスも観る。

似奎さんの相方は主催者の伊藤まくさん自身。似奎さんたちのパフォーマンスについて。床に横たわってから起き上がってくる後半あたりから最後に向かう展開には感動を覚える。貧困な想像力だと言われそうだが、あの場面は私の大好きなタルコフスキーの『ソラリス』のあるシーンを想起させるものあり。死ぬことが出来ないハリーが「自殺」を図って「壊れた」後に、しばらくして身体に「生命」が回復してくるシーン。衝撃的な場面だが、似奎さんの踊りにも「壊れた」あと、長過ぎるくらいの時間経過があって、徐々に生命が戻ってくる。冷えきった身体に「生きる苦しみ」が戻ってくる。そして、痙攣が、息吹が、身体の各部に発生してくる。そんな感じ。また、その部分、特に伊藤まくさんの作り出す加速するディレイのギター音とのシンクロがすばらしかった。

今まで、自分は純粋に音楽を追求してきたつもりだったが、舞踏やダンスとの共演というのにも以前より関心が湧いてきている。今回は、どのように関わり合えるのかというヒントが随所あったように感じる。

終わった後、まくさんと外でちょっとお話をした際、どれくらいの決め事をしたのかと訊いたが、「完全に即興だった」とおっしゃっていたので、ちょっと驚く。まくさんの即興にパーツパーツに分かれたある種の「モジュール構造」を感じたので、それら「モジュール」の選択や提示の順序などがダンスを演じる似奎さんの方から、ある程度指定されているのかと想像したのだった。でもどうやらそういうことではなかったらしい。ひょっとすると、まくさんの中では頭ではこうした音楽的アイデアのパーツをある程度準備したのかもしれないが、それは打ち合わせによって決められた内容ではなかったということになる。経験的に、良い即興には共通のことだとは思うが、特に複数者による即興が旨く行ったときは、「到底打ち合わせをしていたようにしか思えない」展開になることがある。その日のパフォーマンスにも、そんな感じがしたのだった。まくさんの方も踊りに擦り寄っていこうというような感じもないにも関わらず、昨夜の似奎さんの踊りとまくさんの音楽は、実に自然にシンクロしていた。

その次は、トリとして<水晶の舟>の爆音的なライヴ演奏をバックにイシデタクヤさんが踊る。かなり長いインストだけの部分が続き、どんな風にイシデさんがあの狭い「ソデ」から登場と相成るのか、興味津々で観ていたら、なんと「控え室」となっていたカウンターの後から、狭くて1メートル以上の高さがあると思われるようなカウンターをよじ上り、会場側に迫り出してくる。その狭いカウンター上で、危ういバランスをとりながらのパフォーマンスにかなりの時間が経過する。猫が狭い塀の上でリラックスできるように、イシデさんにとっては実に踊りを踊るのに快適な空間なのであろう。その後、ほとんど隙間なく会場を満たす爆音の中にイシデさんは体を投げ出し、踊りのために確保されたごく限られた床を使って無駄なく身体表現をする。会場全体を押し流さんばかりの爆音の流れの中に「水没」している状態で、踊るのだ。今日的な舞踏の在り方というものを、足のつま先から眼球まですべてを駆使して、顕現させる、そんなベテランならではの自信と日頃の稽古の成果を、とっくり見せて頂いた。

自然体の伊藤さんの飾らない挨拶にも共感。

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3月は、ライヴがない(ちょっと嬉しい)

Saturday, March 12th, 2005

3月はまるまるひと月ライヴがなく、4月も予定されている<もんじゅ連>の23(土)のライヴまでとりあえず何の予定も入っていないのである。ほぼ2月のお休みということになる。これは、ここ数年の中で相当な異常事態である。

そもそも、ライヴの回数を減らそう減らそうと思ってすでに2年以上が過ぎた。もっと積極的にライヴのあり方というのを考える必要があるとは考えていたのだ。ライヴ回数を減らすというのは、決して消極的な考え方ではないのだ。

確かに月に3度以上もライヴがあると、「兼業・週末音楽家」としてはかなりキツい状態になる。音楽を外でやるのは好きだが、他の諸々のことが疎かになりがちなのだ。人との縁やら偶然やら、いろんな有り難いことが重なってなーんとなく外で演奏をすることになって、もうかれこれ数年が経つ。そしてそれ自体が非常に楽しく、何よりも優先して取り組みたくなるほどのものだが、それでもライヴの時間が生活そのものを圧迫してくると、そわそわと落ち着かなくなる。だれでもそうだろうが、自分も音楽に気軽な気持ちで取り組みたくない性分でもあるので、精神的な余裕がなくなるのだ。単純な話だが、そうなると部屋は荒れ放題になり、自分で自分の部屋に足を運ぶことさえ億劫になるような「瓦礫の山」になる。それでもライヴに備えて準備だけはしなければならないので、荒れた自分の部屋で音出しをするという精神衛生上も非常によろしくない状態になる。

部屋自体に入りたくなくなるほどになると、もう悪循環で、いろいろな生活に必要なはずの書類の類いなども見つからなくなり、ぎりぎりになっていざ必要になるともう間に合わないという日常の生活にも支障を来すような悲惨な状況に陥る。ちょっと軽い気持ちで取ってある新聞や雑誌バックナンバーやチラシやらなんやら、あらゆるものが床に散乱して、とてもじゃないが突然の来客でひとを部屋に招く、なんてことは出来なくなる。整理整頓はこどもの頃から苦手だったが、本当は「きれい好き」なのである。部屋の混沌が好きという方もいるようだが、自分はそうではない。きちんとしているのが良いに決まっているのだ。だができない。だから精神的にも荒れてくる。こういう荒れた生活をなんとか解消するためには、週末を純粋に自分のために確保する必要がある。

そもそもライヴを始めた動機のひとつに「録音してそれを聴きたい」というオーディオやレコーディング趣味という側面があったので、自分のライヴに録音は欠かせない。だが、ここまでライヴの回数が増えると、音源ばかりがどんどん増えていくが、それを整理したり自分の望むようなカタチに編集し直したり、という「本来の目的(のひとつ)」が果たせなくなってくる。編集しなければならない音源がこれほどに溜まってくると、もうどれを優先しなければならないかという記憶や判断も怪しくなってくるのだ。人に渡さなければならない音源で最も旧いやつなんかは、もう5年以上経っているんじゃないだろうか? つまり、ウェイティング・リストが5年待ち状態とかいう人がいる訳である。まったく申し訳ない。

それに「練習」がしたいのだよね〜。オーボエはリードを削らなければならないし。練習なしに良い音楽もないものである。

そして何よりも、「結婚生活」がある。畏友I氏がどこかで実に旨いことを言っている。つまり「家庭政治的にきわめてマズいことになる」んである。

というわけで、もうすこし、「ちゃんと生活」を立て直さなければならない時期が来ているのである。(つまらん結論だと思うだろーなー、ハングリーなミュージシャンにとっては!)

(でも、「より良い音楽を創る」という努力となんらの矛盾点もないんだな、これが。)

もっと強力で知的な武装を!(新旧の概念を超えて)

Friday, March 11th, 2005

「そんな考え方は古い」という言い方で、ある種の思想なり嗜好なりを評価したり批判したりすることがある。われわれの言葉のやり取りの中で、「時代錯誤(アナクロ)だ」という言い方も、強烈な説得力として機能することが多い。しかし、ちょっと考えてみれば分かることだが、「古くて良い」ものや「古くて正しい」ものがこの世にはあるし、場合によっては「古いから良い」というような単純な例外もある以上、「古い」という理由だけで対象を否定して事足れりと考えるのは、実は片手落ちである。「新しくて悪しきもの」という物事もいくらでもあるのだ。

[ましてや「伝統」という大きな鍋に、伝統芸術やもろもろの伝統文化、そして伝統的 family valueやら、何でも一緒に入れて煮込んでしまってはならない。伝統芸術にはそれらが保持されてきたのには、それぞれ独特の理由があり、伝統的な芸術を受容できても伝統的な family value は肯定できないというスタンスはあり得るのだ。ただ、受け入れ可能な伝統芸能の価値を支持する者たちが、「伝統」的な国家観やfamily valueというものを、ひとつのパッケージにして十把一絡げに肯定するというやり方は、国家や社会を全体主義に持っていこうとする支配者にとっては、やり易い常套手段であろう。]

いずれにしても、「古いか新しいか」という論拠で価値判断をする安易なる陥穽を避けなければ、議論の場で一時的に優位に立つことは出来ても、論理的にまさっていることを示していることにはならないのである。断じて、超えるべきは新旧の概念なのである。

繰り返すが、「考えが古い」という言い方をしようが、「アナクロだ」と表現しようが、「時流に反している」と断じようが、その言い方自体をわれわれはおそれる必要もなければ、あるいはその逆に、われわれが「古くて悪いもの」を断じるときも、「古い」ということが論理正当性の決め手になっていないことも、よくよく自覚している必要がある。いずれ、「古き」を断じるその「新しい」思考法は、「より新しき」思考法の登場によって克服されてしまうだけなのである。新旧を超えられない思想は、いずれ破綻する運命にある。

われわれは「古い/新しい」を超えた普遍価値を根拠に論敵と闘う必要がある。「普遍価値」などと言うと、それだけで「古いものの代表格」のように思う諸氏もいらっしゃるかもしれないが、たとえば民主主義やヒューマニズムというのはフランスのような国においては、すでに「普遍価値」として広く肯定的に認知されているのである。もっと言えば、グローバルな自由主義経済やこれからいよいよ席巻するかに見える新自由主義というものは、そうした普遍価値から否定されることもできるのである。

たとえばわれわれは、古いか新しいかではなく、「なぜ民主主義が良いのか」という根本原理から語る準備ができていなければ反民主主義という反動がもはや反動としても認知されなくなり、やがて「新しい考え」となってしまった暁には「民主主義はもう古い」という乱暴なほどに単純な断定によって「相対化」されてしまうに違いない。

われわれの生きる時代は、こうした長い時を経て多くの犠牲を払って戦い獲ってきた、人間の目指すに値する「普遍価値」と信じられた価値観を手放す方向に向かっている、明らかに。つまり(思想の)自由や(法の)平等や福祉(目的とする経済活動)というすでに忘却されつつある価値観が、「人間がより人間らしく生きるために」という似非人間主義のスローガンによっても、容易に否定され得るのである。

「人間的」とか「人間らしく」という表現が出たが、これも大いなる課題である。どちらの側が人間的かということも、意見が真っ二つに分かれる。「自由から逃走する(隷属へ向かう)」側も、権威への服従や全体主義的・家父長的な「秩序ある」道徳観を「人間的」と表現するのであり、「自由や平等を獲得するために闘う」側も、ヒューマニティ確保のための戦いだと思っている。

この際、どちらが人間的かという議論もあまり実りの多いものではないかもしれない。早い話が、隷属からの逃走も隷属への逃走も、所詮人間の持っているキャラクターなのだと言ってしまえばきっとそうであろう。だが、私の考えは明白だ。人間は隷属状態が続けば自由を希求するのもであり、社会がいかに安定的に見える「秩序」状態であっても、支配層の経年変化に起因する腐敗によって、形式化され、多くの声なき人々に犠牲を強いるということ。そして、人間はそうした腐敗が起きたときに、それを更新する力や道(方策)を持っていなければならない、ということ。そして、いかなる人も、平等な扱いをされたいという本能的な希求を持っているということ、そして、助け合う心を持ちうる、ということである。隷属がわれわれの社会が向かっている方向であれば、それにブレーキをかけようと<抵抗>することが、断然人間に見られる普遍的傾向なのであり、真のヒューマニズムと呼ばれるにふさわしいものである。

美輪明宏の何を「観る」べきか - NHK教育の『人間講座』

Thursday, March 10th, 2005

最初はなんて髪だろう、これが<美>を語る人のスタイルだろうか、そう思った。あの、真っ黄色に染めた長髪。しかし違うのだ。 あの髪の色はハレーションで飛ばして<観る>べきもので、われわれの「目で見る」ためのようであって、実は見てはいけない色なのだ。

それは、ある物体の実体のみに目を奪われると、その周縁の方こそが「絵を作っている」事実に気がつかない、だがあることがきっかけで電撃的にそれに気がつくことのある「ルビンの杯」みたいなことなのだ。

髪を光で完全に飛ばしてしまうと、残るのは顔だけだ。そして、顔を残すためにそのような突拍子もない色の髪にしている訳だ。だが主張している主体は、美輪氏の髪ではなくてあくまでも顔だ。 色に目を奪われると見えなくなる。そして、あの顔が表しているものは、純粋な人間の顔であって、表しているものはわれわれに知る男のようなものでも女のようなものでもない。 それは誇りを持って抵抗する人間の顔だ。

いや、敢えて言おう。男かもしれない。いやいや、やはりそれはナンセンスだ。だが、そこで男か女かということを問うてしまうわれわれのコモンセンス自体がここでは逆に問われる。その<男>が、<女>の様な格好をし、あの顔を通してテレビカメラの前でしゃべっていることは、あらゆる暴力を否定して生に資する美の力を賛美してやまない、美の追求者であり、それをプレゼントするための、いわば「標識」である美輪氏の顔なのだ。

だから、あの姿を日常的なわれわれの目で見て美しいかどうかを語っても意味がない。あくまでもわれわれが見つめるべきは、そのライオンの鬣(たてがみ)のように燃える黄金色の中心に輝いている<顔>の方なのだ。

それにしても、美輪氏は真の語り部だ。歌は役者によってもたらされる。そして声は、どこか高いところから響いてきて地面さえ轟かせるような深さを持っている。

Hikariの「滲入」(単なる自慢)

Wednesday, March 9th, 2005

結構速くてそれなりに満足していたのだが、ケーブルテレビ会社が提供する常時接続サービスから、某社の提供する光ケーブルによる接続に切り替える。ついに100Mbpsの世界。私有地内の電柱の使用について不明瞭なことがあったりして、あらゆる「方面」に連絡を取るなど、さまざまな乗り越えなければならない壁があったが、今日、ついに無事工事が終わり、晴れて「光」が部屋に入ってくることになった。

築年数が随分経っているマンションのため、かえって管理が「良い加減」なので外壁を這わせてのラインの引き込みが可能だったし、エアコンのダクトのために開けてあった「大雑把な穴」の存在が「工事可能」の判定の決め手となったようだ。ガチガチのモダンな最新集合住宅なんかだと、こう言うわけにはいかないだろう。おそらくケーブルレディの物件でも同軸ケーブルが主流のはずだし。

部屋が2階だったことも一戸建て家屋における工事と同じ扱いになる点で有利に働いた。集合住宅のようでいて集合住宅に非ず、という判断になったので、ほとんどウチの単独の交渉でここまで持ってくることができたのだ(あちこちに電話をしたものの)。

驚いたのは光ケーブルの径だ。「ちょっと太い針金」くらいの太さしかなく、おそらく直径1mm位。ケーブルテレビ用の同軸ケーブルやLANケーブルのおそらく10分の1ほどしかないだろう。オプティカル・ファイバー・ケーブルは、自在に曲げるという点では不利だが、小さな穴に通すという点では非常に有利だ(しかし同軸ケーブルだって太くて曲げられない訳だから、有利とも言い切れないんだが)。

それにしても、はやい。サクサクという感じではなくて、「ぱっぱっ」という感じ。ウェブページの表示も上から順繰りにパラパラと現れる、というよりは上から下までが一気に、ほとんど同時にパッと表示されるのだ(そのようにボクの目には見える)。

問題は、まだAirMac経由で繋がらないことだ。ワイヤレスでアパートのどこでもwwwに接続出来るという環境に慣れたボクにはLANケーブルが金魚の糞のようにずっとついてくる、というのがすでに苦痛で仕方がないのである。便利に慣れることはげに恐ろしいことなのである。しかし、この度は設定が今ひとつ分からないのだ。そもそも、いままでどうして繋がっていたんだろう?(さしたる問題もなかったのに…)

Camera Virginal

Tuesday, March 8th, 2005

これが最初の写真(家のバルコニーから) by Aquikhonne (Coolpix 5900 Nikon)

これが最初の写真(家のバルコニーより)

by Aquikhonne (Coolpix 5900 Nikon)

「ニコン10年以上の経験よっ!」

(おそれいりました〜っ)

「Joy to fly」と三鷹再発見

Saturday, March 5th, 2005

20050307-propeller.JPG

愛でたくも、今度タモリクラブに2週連続で登場する運びとなった大学のクラスメートいしかわ君のblogで、「先行デザイン宣言支持宣言」というのを金曜の夜にたまたまクリックした。すると、「調布飛行場」という文句が目に飛び込んでくる。それって「見学のできる飛行場」が比較的近くにあるということじゃねーか!と、ちょっとどきどきして寝た。格納庫の一角をカフェにしたというプロペラカフェというのもあるらしいので、これは特に行ってみたいと思わせるものだ。それで午後からさっそく出かけた。三鷹を経由してバスに乗って終点まで。周りには天文台や武蔵野の林の丘以外にあまり何もない。ここまで来るバスの中でも思ったが、道が広く、空も広々としていて、こんな平らで開放的なエリアが東京にあるのかと改めて驚く。柵の向こう側でセスナがエンジンをかけて飛び立とうとしている。橙色の吹き流しが飛行場中央付近で少し風にたなびいている。管制塔には人の気配がないように思えるほど寂しく佇む。空は青空と銀色の雲が半々。

停留所から5、6分のところにあるAEROTECという建物の1階が<propeller cafe>になっている。なるほどここか。人の気配がしなかったので、閉まっているのかと心配になったが、ドアを開けると、すぐ前がセスナの離着陸する様子を見ることのできる大きな窓あるだだっ広い部屋になっていて、左側には厨房があり白いシェフの格好をした料理人と給士がきびきびと仕事をしている。そして美味そうなケーキのフレーバーがする。右側はすぐに飛行機の格納庫があり、単発エンジンの4人乗りセスナとそれより一回り大きめの8人乗りくらいに見えるジェット機が停まっている。

美味いコーヒーを飲みながら飛行機やヘリの離着陸を眺める。ヘリの教習をしているとおぼしき二人組が危うい感じで大空に飛んで行き、小一時間くらいして戻ってきたりする。ヘリのプロペラの回転を見ていると、随分乱暴に空気を切っているなあと思う。最初は柔らかくて弾力性のあるプロペラが遠心力でピンと張り、水平に空気を切る。今空中散歩をしてきたという人がカフェに戻ってきて一休みしている。鎌倉まで15分くらいで着いてしまう、海岸線をレーダーに補足されないほどの低空で飛ぶのは快感だ、と話す男性。趣味で飛んでいるのだ。「ヘリに乗り始めてまだ100時間くらいしか経っていない」と控え気味に自分の飛ぶ喜びを話す男性。ここへ来て、ヘリか飛行機のパイロットになろうと決心する人は1年に最低365人位いるんじゃないだろうか?

それにしても、プロペラカフェのBLTホットサンドはセントルイスの石川邸で食べたもの以来のとろけるような異様な旨さだったぞ。それにデザートの紅茶フレーバのシフォンケーキも逸品だ。今度はオムライスを食べてやる、と食い意地ばかりが働くのである。

17:36の最終バスに乗って、三鷹に戻る。野川公園には行かなかった。帰りに三鷹に寄って買い物をしたが、ひょっとすると吉祥寺よりも生活するのに便利そうな店が多くある。渋谷と新宿に<三平酒寮>を構えるあの<三平ストア>が2カ所も店を出しているしね。

「半分が八百屋で半分が酒屋」という面白い店に立ち寄る。そこの店の主人は、気の良さそうな八百屋の「おやっさん」のようにしか見えないんだが、天井にはBOSEのスピーカが4つ設置してあって、店に一歩入ると、音のまっ只中にいて、ブラームスの弦楽四重奏第2番とかを良い音で掛けている。珍しい選曲だ。もしかして有線かなあと思って訊くと、自分でCDを掛けているとやや心外そうに答える。以前三鷹に住んでいた頃にもっと頻繁に来ていたという永山に言わせると、かつてはLDでヴァイオリン奏者のリサイタル映像とかを店で流していたらしい。確かに天井に立派なビデオモニタが2つ吊るしてある。東京で一番いい音のする八百屋(兼酒屋)なのではないだろうか? しかしあの音を聴いていたら凍りついてしまって買い物にならんだろうが。永山はあすこをいまだに「酒屋だ」と言うのだが、ボクには「お酒も売っている八百屋」のようにしか見えない。おそらくだんだんと親父さんの関心が変わってきて酒屋から八百屋へとなし崩し的に傾斜してきたのだろう、あの店は。好きが高じて八百屋になりつつあるせいか、店に並べてあるお惣菜とかも、いかにも手作りで素材は厳選していそうだ。いくつかの珍しい野菜の他に蕗の醤油漬けというのを「入手」。

カキ入りのお好み焼きを頬張ったりした後、駅にほど近い老舗のワイン屋さんで白い濁り酒と赤い発泡酒を買って帰る。店に貼ってあるフランスのワイン・ヴィニヤール・マップを見ていたらワインマップポスターを3つも丸めて下さる。「また三鷹に来てくれ」と言っているようだった。

また必ず来るだろうね、近々。

ソメイヨシノはなぜ特別なのか(entee流補説)

Thursday, March 3rd, 2005

現在各方面で大活躍中の「現実庭師」の畏友I氏が「地上の星、天上の桜」というタイトルでblogを書いている。最初、記事タイトル自体にはあまり注意を払わなかったが、ふとその意味を考えてみると、あれっと立ち止まらざるを得ぬところがあった。「地上の星」というのは、おそらくこのところ有名になったある歌を意識しただけかもしれない。が、「地上の星」に「天上の桜」を対置させているところが特に良いのだ。「桜」≒「星」と考えるメンタリティというのは、実はそんなに新しいものではなくて、五芒星を大胆にあしらった合州国の星条旗を初めて見た江戸時代人達がそれを最初「花条旗」と呼んだらしいところからも伺える。これは最近I氏の「趣味」に関心を持ってA新聞で寸評を書いている偉大なる博物学者A氏がどこかで書いていたことだと記憶する(なぜ星が5つの角を持つ「五芒星」になったのか、なんてことはここでは深入りすまい)。つまり、当時の日本人はそれを「星」であると読む決まりを知らずにも、白い星々を五弁の花びらの花と見た訳だ。だが、重要なのはそれを星と気付かなかったという点ではなく、「5」という数性にはきちんと着目していたという点にこそある。つまり、その五芒星は星であるということを一気にすっ飛ばして、より重要かつ本質的な「性質」だけをきちんと「異境人」たちにコミュニケートした、と言うことができるのである。

さて、さらに興味深いのはその日本が合州国と(どんな手続きを経たにせよ)国交を持ったあとに、日本の権力者がやったことである。私がまだ読んでいない「桜が創った『日本』- ソメイヨシノ 起源への旅 -」でも言及されていることかもしれないが、日本が米国に「ソメイヨシノ」を贈ったという逸話である。今では春になるとポトマック川河岸で満開になって、観光客たちをはじめ、政界を含む権力に近い人々をも喜ばせているワシントンDCのサクラであるが、明治時代に「日米親善の徴」として贈られたものであることを知る人も少なくないであろう。

だが、この五弁の花、しかも満開になったらすぐに潔く一気に散ってしまうというその「無常の徴」を米国に贈り物として献上し、ホワイトハウスからほど近い場所に植えさせ、しかもかの地の人々が愛でるようにした、というのは、実になんとも心憎い計らいだったと思えるのである。隠しながら「情」を伝えるという万葉の時代からのヤマト人の伝統的マナーは、当時も生きていた訳である。まさに「地上の星、天上の花(桜)」である。