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「学び捨てる」機能を思想に内包させる

Monday, April 11th, 2005

ある方からコメントを頂いたので、ちょっと補足します。

「学び捨てる」で、スピヴァクが言いたかったことは、「自己探求」というよりは、生きている間に蓄積されていく「知」というもの自体が、多くの思想家が批判対象とするところの「特権」そのものに他ならないという自覚、すなわち、依って立つところの自己の否定(自己の批判)抜きにはあり得ない、ということであろうと思います。つまりひとを批判しているつもりが、その批判の矛先は持論の前提となっている自分の収集した「知」そのものにも最終的には向かう、ということです。

ところで、unlearn(学び捨てる)という言葉を見たときに私が連想したのは、コンピュータ用語としてわれわれが現在普通に使うことになったuninstall(ソフトの削除)という単語です。すべてのソフトウェアに付いてくる機能ではありませんが、メジャーなところではinstallerとともにuninstallするソフトが付属してくることがあります。今やパソコンの構造が複雑になっているために、ひとつのソフトを一旦インストールしたら、そのソフトが不要になっても、そのソフトに関わるパーツの一切をHDから完全に取り除くことがなかなか容易でない。だから、こうした「削除するためだけに用意されているソフト」というのは実に有り難いものです。そして、非常に奥ゆかしいばかりにuser-orientedです。

翻って、思想においてもその思想自体が「uninstall」機能をあらかじめ織り込み済みなのか、ということについて考えるわけです。それは、モノを喋ったり表現したりする発信者側に自覚としてあるのか、ということです。つまり、ある考え方や観念を自分の発言の中に取り入れるときに、それ自体を必要なときにもう一回「なかったときの状態」として現状復帰できるか、できたとしたらそれはどういうことか、ということです。

これは単なる喩えに過ぎませんが、ある考えや思想、そして「知」が頭の中に「ある状態」と「ない状態」の両方を自由に行き来して想定することの出来るのか、ということです。ですから、これは、あくまでも自己探求云々ということではなくて、他者との関わりにおいて、自分の立場や考え方を相対化できるかという、他者への想像力についての話です。引いては、それは自己探求ということとも関連があるのかもしれませんが、それがスピヴァクのそもそも意図した主旨ではないと思います。

もちろんひとつの言説がさまざまに了解できるという言葉の多義性・象徴性ということを鑑みるに、やはり面白いことだとは思います。ただ、私が物理的に、精神的にどこまで自分や自分の周囲に堆積したあらゆるものを捨てきれるのか、ということは、全く別に「見出される課題」のひとつである、とここではとりあえず申しておきましょう。