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「靖国問題」に対する批判は内政干渉ではない

Wednesday, April 13th, 2005

国家元首による靖国神社参拝に対する批判は、中国のみならず日本国の内外の誰によって成されても可笑しくはないものである。むしろ、「なぜ」そのような批判がなされるのか、という歴史的経緯について、日本国内での知識や認識がなさ過ぎる。靖国の問題は、日本の宗教と政治を分ける政教分離の原則に反する憲法違反であるという重大事さえ含むが、それをとりあえず棚上げしても、そもそも内政云々の問題ではなく、まさに日本の外交政策そのもののもたらした結果と言って良い。よその国の宰相が批判するということを「内政干渉だ」と呼ぶのは、日本の政権やその取り巻きが批判をかわすために採っている常套表現であって、それをわれわれのような一般人が無反省に繰り返すことは、単なる政府の代弁者になっているに過ぎず、自分で考えたり調べたりしてものを言っている態度からはほど遠い。

そもそも、どうして日本の政治家による靖国参拝に対して批判があるのか、ということについて、われわれはどれだけ分かっているのだろうか?

1978年に日中間で締結された「日中平和友好条約」というのがあるが、その際、中国は日本への賠償請求権を放棄し、形式上、「日本の戦争責任がA級戦犯を中心とする一部の人々にあり、日本国民の多くは犠牲者であった」と、いわば大人の解釈をすることを選んでくれているのである。われわれ現代を生きる日本人が、「戦時中の日本国民の多くは犠牲者に過ぎなかった」という考え方をそのまま鵜呑みにすべきかどうかは、また別の課題であるが、とにかく、条約締結当時の中国政府は、先の解釈を以て、中国の内政的には多くの犠牲者やその遺族を抱える中国人民を納得させ(黙らせ)、外交的には以前の加害国たる日本との「前向きで未来志向」の関係を結ぶことを選んだのだ。

しかるに、条約締結国の一方である日本においてはどうか? 単なる一個人としてならまだしも、国家元首たる首相が、公人としてA級戦犯を祭っている日本の戦時体制を象徴する、その靖国神社(私的宗教法人である)に参拝するということは、大人の判断をしたその中国政府の顔に泥を塗るということなのだ。そうした日本の不誠実に対し中国が怒るというのは、至極真っ当なことである。つまり、靖国問題が単なる日本の内政の問題であるというのは、完全な認識不足であって、まったくもって日本の外交政策上の一貫性と節度のなさに帰されるべき問題なのである。

参照:小泉首相に“歴史観”はあるのか(窒素ラヂカルの「正論・暴論」)

われわれは、植民地支配下で抑圧された経験がない。だが、もしわれわれの立場が全く逆で、暴力的かつ抑圧的な植民地支配をされていたとしたらどうだろう。しかもその支配国と抵抗の闘争をし、多くの同胞の血を流したあげく独立を勝ち取った後も、その植民地政策の加害責任を持つ相手国が、戦争に負けた後でも未だにその加害責任について無自覚であるばかりか、その責任者が「神」となって祭られているところに、いまだに現今の元首がお参りをする… こういうことが起きたとしたらどうだろう。そういう態度を、われわれの目には「不誠実であり反省していない」と映るであろうことは想像に難くない。ましてや、友好関係樹立にあたって、われわれが当然持っている賠償請求を取り下げる代わりに、当時の植民地政策の責任者を敬うのは「今後一切止めろ」と求めるのは当然であろう。これは相手の立場に立って考えられるか、というまさに想像力の問題なのである。

加えて、靖国神社は、断じて単なる戦死者を葬っただけの国立の戦没者慰霊設備ではない。もしそういうものであるなら、日本人/外国人/在日外国人を問わず、あるいは空襲によるか戦闘によるかを問わず、戦争が原因で死んだあらゆる人々の霊を慰めるものでなくてはならない。だが、靖国神社はそういうものではなく、特定の信仰を代表する私的一宗教団体で過ぎないばかりでなく、先の日本の戦争を美化し、戦地にて戦死した軍人だけを軍神として祭り上げた上で、日本に戦争責任などはない、などと未だに嘯(うそぶ)いている集団なのである。そして、A級戦犯として裁かれた戦争責任者が、その他の一兵卒として闘って死んだ兵隊と共に合祀されているのである。百歩譲って、私的宗教法人が何を教義にし、何を信じ、どれだけ信者を集めようと、それはその法人の勝手だが、そこに国家元首が私人としてではなく、公人として参拝をするということは、外交問題になって当然なのである。

中国の学生が騒ぎ始めているということには、「靖国」や「教科書問題」だけでなく、いろいろな政治的背景や動機があるだろう。国内問題を外にそらすという意図がないとは言いきれない。だが、問題の本質はそこではない。そのような政治ツールとして学生運動が利用されているとしても、発端となる種をまいたのは他でもない日本なのである。したがって、今後、日本の対応いかんによってはもっと激化してもおかしくはない状況である。おそらく、日本からの明確な返答があるまでは中国が幾度でもこうした「挑発」ともとれる行動に出ても不思議はない。政治問題である以上、中国の政府主導による陰謀や操作があったって不思議はない。だが、それは、お互い様である。

しかし、中国が今どうしているか、ということではなく、日本がこれまで中国に対し、あるいはその他の植民地支配をしたアジアの諸国に対しどれだけ不誠実であったかということが、そもそもの根本原因であるということをわれわれの方が自覚する必要がある。他国の残酷な植民地政策からなんとか逃れた戦勝国なら、当然持っている賠償請求権を、自主的に放棄した中国政府が、それによって友好関係を築こうとした相手国から、なんらの誠実性も納得できる説明も期待できないばかりか、未だに戦争責任者として裁かれた時の指導者を礼拝しているとなれば、最後は「もはや自国民を黙らせている必要がない」と判断したとしても不思議はない。これは、彼らがそれだけ納得できていないし、怒っているというサインを送ってきているということなのだ。怒っている側の主張に耳を傾け、自分たちに何ができるのかを考えることこそが、隣国と争わずに隣人として共存して行く、本当の意味での「未来志向」であるはずなのだ。

全部賛同できる訳ではないけど、まだ、こういう言い方の方が、まだましだとおもうんですよね。