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悪ルールの犠牲はだれか、そして誰がそれを受け入れるのか

Thursday, April 28th, 2005

「音速の貴公子」と呼ばれたアイルトン・セナがレース中の事故で死亡した時もそうだったらしいが、事故が起こるところには、事故を起こした本人の「力量」だけではなくて、その「レース」を司るなにか「ルール上の」とも言うべき事故発生を誘発するもっと大きな問題背景が隠れていることが多いようだ。セナの事故死の時も危ないルール改正がレースの直前にあって、セナ自身が「危ないからそのような改正は受け入れられない」と身内には漏らしていたらしい。だが、そのルールを受け入れたほとんどのレース参加者によってその言葉は無視された(事故を起こさないように走れば良いのだし、起こす人の力量の問題だろう、ということに違いない)。セナが死ぬ直前にも、彼が心配した通り事故が多発したらしい。だが、結果的にその「危険なルール」を「自らの死を以て抗議・告発する」結果となった。(ちなみにボクはF1のことやセナのことをよく知るわけではなく、セナを愛していた友人から聞いた完全なる二次情報である。)

今回のJR西日本・福知山(尼崎)線の事故にも、「ルール上の問題」というのがどうしてもあるようだ。が、そのルール自体を批判したり拒否したりというような権限を現場にいる一運転士はふつう持たない。あらかじめ決められ、「目標達成のため」という会社から求められる至上命令の前で「その無理なのはダイヤではなくて、その目標をこなせない(運転している)現場(自分)の力量のせいだ」と思うより仕方がないというような「空気」があるわけだ。そして、先輩や管理者からのプレッシャー、経営や管理者からは矢のような効率向上の催促があったはずなのである。

事故がなければ着いていたはずの次の尼崎駅というのは、「神業」と呼ばれるような運転士の技術と時間管理を可能とする「体制」がなければ成り立たないような乗り継ぎと待ち合わせの集約する場所であったらしい。いろいろな関係者の話を聞いていると、どうも競争を勝つためという至上命令を実現するための無理なダイヤであることが想像できるのである。

こうした「無理なダイヤ」を現場がどうにか「こなさなければならない」不条理を感じたベテランの運転士がこの事故が起こる前に自殺している。「日勤教育」という名のお仕置きが日常化していて、それを厭うばかりに鬱になり自死を選んだ。この自殺という事態は、その福知山線区で起きた「純然たる事件」である。だが、もちろんその死を以ての抗議にJR西日本はもちろん答えなかった。その後も、当然のように「日勤教育」は続き、在来私鉄との時間競争を現場に強いた。そのあげくが、今度の事故である。

その難しい現場でおきたおよそ百名の犠牲者を出さなければ、効率優先の経済や社会構造の在り方そのものを問うことはなかったのである。(というか、これでもその「在り方」を問わずにいく可能性の方が高い。)