Archive for May 3rd, 2005

ルオー断章

Tuesday, May 3rd, 2005

展示#21「二人の友」これは、第二次欧州戦争が間近に迫った1938年の作品。色彩的には暖色系が少なく、やや目立たない印象の作品であったが、そこにはひとつの明瞭な秘技伝授系の伝統を感じた。向かい合う二人の顔は、波頭や神話上の獣や動物などが側面から描写されるのと同様に捉えられており、彼らが身にする黄色い服の色彩がそうであるように、ポーズ的にも構図的にも対峙し合うその対称の配置が強調されている。そして注目すべきは、右側の人物の頭上に描かれている窓からは、いつもの白い太陽、そしてそれとは正確に線対称の位置には置かれていないものの、左側の人間の頭上に、室内の明かりなのか、黄色く彩色される人工の灯火が、あたかも月(あるいは目)であるかのように、欠けた天体として描かれている。対称な二人の人物とその頭上の月と太陽の配置は、錬金術絵画のウェヌスとマルスの婚姻(そして生まれ出ずるはメリクリウス:水銀)の図と相似である。そして、この伝統的な構図を完成させるものは、向き合った二人の「友」の間に置かれている「花瓶」である。その花瓶からは暖色系の花々がまさに「炸裂せん」と咲き誇っているのである。これを私はブレイク風に「fearful symmetry」と名付けている。

展示#65 <<受難>>25「善い盗人…悪い守銭奴…」この2人の罪人とのイエスの磔刑を捉えたイコンは、ゴルゴタの丘に立てられる3つの十字架上の典型的な磔刑図のひとつのようでありながら、左右の罪人の十字架は、左右脇ぎりぎりに押しのけられており,それらはもはや十字架ではなく、イエスの左右に打ち立てられる2本の柱のようにしか見えない。そして、左右に伸ばしたイエスの腕はその二人を結びつけ、あるいはイエス自身がその2本の柱によって支えられているかの如くに見えるよう巧妙にデフォルメされている。左右ふたりの磔刑者の肉体は、柱に刻まれる文様パターンに半ば変容しており、右側の罪人はイチヂクの木に絡み付くイブを誘惑した蛇のようにさえ見える(こちらがおそらく磔刑によっても改心することのない「悪い守銭奴」の方であろう。となれば、左が、十字架上の改心を遂げる聖ディスマス、すなわち「善い盗人」ということになる)。

展示#103 <<受難>>63「聖心と三つの十字架」においては、左右の磔刑者がルオー一流の「絵の中の額」のように、絵の中に描かれた木枠となり、とりわけその左右が絵を支える「人柱」であるかのように、すでにあたかも「トーテムポール」と化している。そしてその構図の奥に、丘の上の3つの十字架が朝焼けの逆光の中に黒く浮かび上がっている。この二本の柱のモチーフは<<受難>>1「受難」、<<受難>>2「聖顔」、<<受難>>22「燃ゆる灯火の芯のごとく…」、<<受難>>48「マリアよ、あなたの息子は十字架の上で殺されるのです」でも繰り返し現れている。そしてその「柱」の通常ならざる特徴は、人間の頭部が柱の上に載っている点である。この門のような「二つの柱」はメイソン・ロッジの左右の柱においては、柱とその上に載っているグローブ(地球儀)の形でそのバリエーションが今に伝えられている。

展示#92 <<受難>>52「おお主よ、唯一の顔…」これも「fearful symmetry」のひとつ。「二人の友」と同じ対象の構図を採っている。対面する二人が互いに手を差し出しているところも同じ。だが、花瓶の位置に置かれているはずのその「華」は、聖ヴェロニカの差し出した亜麻布の浮かび上がったイエスの顔である。イエスが対称な配置の人物に挟まれるよう中央に、「今にも届こうとするそれ」として描かれているのである。

(一度イエスの血を拭ったその布は、その痕跡をその布地に残す。そしてそれは、地図のように浮かび上がって「炸裂」するのである。顔の存在自体がひとつの福音の伝播として機能する。すなわち「enlightenment(「光」をもたらすもの)」として。)

監獄の「監視窓」から覗いているのは誰か(ルオーの窓に啼く)

Tuesday, May 3rd, 2005

清澄白河(きよすみしらかわ)の 東京都現代美術館 へ、「ルオー展」を観に行く。実は、「ただ券」を入手した関係で竹橋の東京国立近代美術館のゴッホ展を観に行こうとしたのだが、美術館前の舗道まで溢れ出した「70分待ち」の無慈悲で長大な行列に恐れをなす。そして結局夕方再び戻るつもりで、一旦、竹橋を立ち去る(だが今日は決して戻ることはなかった)。5月の紫外線を浴びながら喉には乾きを覚えつつ皇居の内堀沿いを大手町まで歩く。そこから半蔵門線に乗り、初めて赴く清澄白河に向かったのだが、この番狂わせが実に幸運であった。ジョルジュ・ルオー。そのステンドグラスを思わせる黒く太い輪郭線。青や赤の光。三次元的に迫り出してくる油絵の具のクラスター。そして苦悩する人々、キリスト像。受難の道行き。

展示物の最初の方から、本物の木枠の額の中に、さらにルオーによって描かれた「額縁」がある。フレーミングされ、その中にはめ込まれた顔がある。まるで「絵」を絵の中に押し込めたような絵。「肖像画」という顔の絵をカンバスの中に大事に収めた絵の絵。つまりそれは肖像画という絵を対象として扱う絵画なのである。ルオーの「フレーム(額縁)」を絵の中に取り込んだそうした手法に、最初すこし興味をそそられたが、多くの受難画を観ている間にそれを忘れた。やがて展示物の最後の方に出てくるシュアレスの詩による「受難」のシリーズにおいて、そのフレーミング(場面の切り取り)そのものに、重大な意味が込められていることに気付き、慄然とする。

切り取るということ。切り取ることで絵の中に選択される場面とは、穴のこちらからあちらのシーンを覗いている自分が、実は覗かれる側でもあるのだ。だが、これまでこのルオーのフレーミングについて語っている人というのはいるのだろうか? 

大きさを自在に変える小さな「監視窓」によって切り取られ描かれた(様な)、聖書時代を扱った囚獄の図は、それを窓から覗いている自分こそが、実は現世における囚獄の身であり、その受難を生きている主体そのものに他ならない。

ミセレレ12の「生きるとはつらい業…」で、やがてくるだろうこの世の地獄を想い、そしてミセレレ13の「でも愛することができたなら、なんと楽しいことだろう」のふたりの見つめ合う顔と顔に、そしてミセレレ22の「さまざまな世の中で、荒れ地に種播くは美しい業」に私は涙した。そして誰ひとり人の姿のない街角を描いたミセレレ23「孤独者通り」にひとり佇むルオー自身を見た。

欧州の二つの大戦に挟まれたその時期に(というより二つ目のより大戦の直前まで)描かれるキリスト像、そしてミセレレ。「懊悩」と呼ばれるに相応しい深刻な課題に正面から取り組んだ黒の版画。これは、20世紀の半ばまで続くキリストのイコン像の絶えない系譜の生き残りであるに他ならず、また、時代を正確に照らし出した証言でもある。

そしてこれはひとつの必然か、キリストの顔を描き続けている梅崎幸吉氏の絵を思い出していた。