Archive for May 4th, 2005

フレデリックの描かれざるキリスト像
(ベルギー象徴派展を観る)

Wednesday, May 4th, 2005

休日中は遠出をすることをスッパリ諦め、午前中は12日のライヴに備えて練習をして午後からは展覧会へ行くという美術大食漢コースに決めた。決めたので、「ベルギー象徴派展」(於・BUNKAMURA)に行く。昨日鑑賞してきたルオーの深い衝撃からまだ立ち直りきっていないせいか、あるいは作品に質そのもののせいも当然あるだろうが、かえって昨日観たルオーの衝撃が減衰して行くどころか、大きな銅鑼やら釣り鐘が初期打音よりも数秒経ってから残響するときの余韻の方がむしろ大きな音になってくるが如くに、自分の体内でより大きな音響の衝撃となって広がり始めているほどである。これについてはもっと書きたい。

だが、気を取り直して今日のベルギー象徴派について書く(「ルオーの残響」がすべてを覆い尽くす前に)。全体の印象としては「嫌いではない」だが「夢中になるほどでもない」というのが正直なところ。だが、いくつかの特筆しておきたい作品についてだけ、備忘録としてしたためて置くに留める。

レオン・フレデリックの大作「聖三位一体」と「祝福を与える人」の2作。

■ 聖三位一体:いわゆる3つ1セットのトリプティック(triptych)の伝統を踏まえた作品であるが、きわめてモダン。連れ合い曰く、右翼にある「少女」の作品は以前も別の展覧会で公開されたらしいが、そのとき単独で公開されたらしいことからも、必ずしもtriptychとして扱われなければならないわけではないらしい。

左翼にあるのは、「天地創造」の場面。主は両手の各掌にひとつづつ玉(ぎょく)を持っている。主の頭部の周囲に五芒星が散りばめられているところがきわめてモダン。だが、見逃してならないのは星のひとつが「迷子」のように雲の切れ間から地上に落ちようとしていることだ。これこそが地上に炎をもたらすプロメテウスの第一のトーチとなる。

中央の絵に描かれている二人の可憐な子供の天使は、おそらく四大天使の二人である。左側にいて右手で百合の花を高く掲げている方が後に「受胎告知」をするガブリエルで、右側にいて左手で百合を低く持ち蛇を手なずけているように見えるのが龍と闘うミハエルである。6弁(3弁)の百合は「祝福」であると同時に、「敵を殺めるもの」である。その二人の「大天使」が広げているのが、「布上のイコン」=「マンデリオン」である。時系列的には前後するが、その顔は、全時代を超えてまぼろしのように“疾走するもの”である。「私はあなたの陰に寄り添って走ります」。アルファでありオメガであるものが、それぞれイエスの「旗」の左右に配されているのである。

右翼の少女は、「フレデリックによる創作である」と会場にて解説があったが、とんでもないことである。彼女こそ、エデンの園において蛇に騙されて禁断の木の実を取り、それを食したイヴ。幼い少女イヴは、泣きながら自分を誘惑した蛇を足で踏みつけている。そしてその周囲を囲むすべての天使たちも同様に嘆き悲しんでいる。だが後悔は先にたたずというのはわれわれの知るところである。これは、楽園追放に通じる場面に他ならない。

左翼において「天地創造」、そして右翼において「楽園追放」というように1セットでふたつが同時に描かれるというのは、ジョヴァンニ・ディ・パオロの「天地創造および楽園追放図」から試みられている挑戦的な手法と同様のものを感じる

■ 祝福を与える人:ほとんど写真のようなリアリズムによって描かれている「祝福を与える人」は、現在でも世界の各所で現存しているような非文明的な「知恵者」の姿であるが、その雛形になっているのは洗礼者ヨハネ (St. John the Divine) である。これほどのリアリズムによって描かれた他の「ヨハネ」を私は知らない。ヨハネとは一言も断られていないが、それが「荒野に呼ばわる声」の主であることは私の目に明らかであった。こうしたリアリズムによって眼前に出現したヨハネが祝福を与えようとしている相手が、画面には描かれていないにも関わらず(というか、描かれていないからこそ)、その祝福を受けて(画面外の)そばに跪いているのがイエスであり、この「祝福を与える人」が持っている写実性を以て我が眼前に迫り来るのである。これは、「イエス不在のキリストのイコン」と呼んでも言い過ぎではない。

この上に言及した2作品だけでも、「ベルギー象徴派展」を見る価値があったと今は思うことにしている。