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「愛」を強制する奴らの本音

Tuesday, May 17th, 2005

愛することは心の中に自発的に生起する感情であって、愛することを強制することはできない。いや、百歩譲ってできるかもしれないが、強制によって「期待した通りの愛」を得ることなどはできない。また、愛は自覚的な相互関係によってこそ、もっとも健全な形で培いうる。ここで言っているのは、子供や弱いものに対して自然とわき上がる母性や父性と同根の、いわば反射的・動物的感覚としての「愛・慈」を指しているのではない。もしそういう意味での「愛」を指しているのであれば、なおさらそのような感情が全体主義に資するようなものとして期待できるはずもない。ここで問題になる<愛>とは、やはり、相互に尊重し合い、尊敬し合う大人の愛(友愛・敬愛・仁愛)のことになるであろう。

だが、こうした「愛」を憲法やら法律、そしてやがては警察力などの強制(暴力)によって得られる(得るべきだ)と考えているらしい御人らがいる。その歳になるまで一体どこで何を学んで来たお方なのであろう。このことは、既にどこかで書いているが、大のオトナがテレビなんかで相も変わらず「愛国心」の必要性、愛国心育成の重要性について激しく主張していたので、唖然としながらまた書く。

一度ならず書いたが、「我を愛せよ」と迫ることで得られることは、「蔑み」や「畏れ」ではあっても、愛ではない。(「哀れみ」くらいはあるかもしれない。)それはどこまで行っても「愛に非ざるもの」なのである。「求めるほどに得られないもの」が他人の心に宿る感情である。後でも書くが、「愛せよ」と求めてくる者たちが本当に求めているのは「愛」ではない。「従順」である。

むしろ、この期に及んで「愛国」の必要性を謳う輩(やから)の本音は、「国家への忠誠」の養成であろう。各人が心でなにを思っていようが「忠誠を示させる」ことはとりあえず強制できる。彼らが「国柄」や「天皇」という特殊なコードでもって今日ふたたび「議論」の対象にしようとしていることの本音は、国家への忠実な従属を行為で示せる人々の育成、すなわち「支配の強化」に他ならない。もっと言えば、戦争するときに命を投げ出すことのできるロボットの作成だ。

もし、「愛国心の必要性」を主張する人間自体が、そうした「国家への忠誠の必要」だということに、気付かずに言っているのだとすれば、それは度し難い愚かさである。

だが、自分の言っていることに気付いていて、主張しているのであれば、そいつは相当な悪党である。愛国を求め、新憲法にさえ滑り込ませようとしている当人たちが、命を賭してでもわれわれの安全を守ろうとか戦争になった時に最前線に身を投げ出すなどという「愛」を発揮して見せてくれることは絶対にないのである。あるいは、彼らは、愛国を憲法に盛り込み戦争を準備することに汲々としても、その動物的な父性・母性愛は、自分の血縁の子供たちを戦場に赴かせることは絶対にしないのである。

一体われわれに「愛」を強制する奴らが、われわれを「愛」したことなどあっただろうか? もちろん否、だ。「愛国」なるものは、弱者の支配強化の別名に他ならず、無条件な従順の強制以外の何ものでもない。われわれを愛することなく、地獄に突き落としてしゃぶりたいだけその生命のエネルギーをしゃぶり尽くす化け物に付けられた甘い名前なのだ。

左右に分かれて議論になっても、親米側も親中側も、反米側も反中側も、「誰でも国を愛していることには違いない」などと立場をまとめに掛かったり、安易な妥協を口にするが、「愛国」という思想そのものの持っている、巨大に閉じられた身内(国内)だけに向かう「愛」というものの持っている欺瞞性を考えたことがあるのか。その危険性を、一度も吟味することも相対化することなく、「やっぱりみんな自分の国が好きだ」というような単純化され、沈思せぬ者どもの共感を容易に集めてしまう論理自体に与する前に、「一体国家とは何であるのか」「国家はこれまでに何をして来たのか」「自分の生まれ故郷、イコール国家(政権)なのか」と一度、自らの胸に聞いてもらいたいのである。