Archive for May 20th, 2005

A letter from R

Friday, May 20th, 2005

Rさんという方からメールを頂き、即興音楽に取り組むべきかどうか、みたいな不安の表明があったので、それについて返事を書いた。すごく真面目で真摯な人です。その真面目さに共感した訳です。自作の音源も聞かせて頂いたが、とても易しい人柄が伝わってくるような音楽だった。また、音楽の遍歴も私と似たようなところが感じられたというのもある。本人に了承の上で(とは言っても個人を特定できる名前は伏せた上で)公開し、自分の本日のエッセイとする。ただし、文面は適宜必要に応じて推敲してり膨らましてあるので、そのままのやり取りを反映したルポにはなっていない。

集客云々という話(自分から始めたんだが)の流れがあって、こんな感じで始まる。

>> このときのQユニットの時もライブは5人見に来た位で勿体無いなーという印象でした。<<

■ それは現実ですよね。いくらでも素晴らしい音楽家はいる。でもその人たちが「売れている」とは限らないし「飯が喰えている」とも限らない。でも音楽の価値が分かる人が何人かでもいる(あなたのように)。そこが重要だと思います。「勿体ない」なんて、ボクでさえも言われるんですよ。大体いつもお客さん少ないから。でも「勿体ない」なんて言う人には、「贅沢できて良かったじゃないですか」とか「じゃ、もっとたくさんの人が聴いたら、勿体なくなくなるんですか?(舌噛みそう)」とか切り返したくなる。要するにお客さんの質より量なんですかと。「それでも勿体ない言うくらいなら、じゃ、ここにお客さん連れて来て下さいよ、オレはそれでなくても音楽を支えるための経済活動、演奏準備、そして演奏そのもので忙しいんですから。素晴らしいって言うくらいなら、ひとりでも多くオレを知らしめることに奔走しろ」ってね。(「同情するなら客をくれ」です。旧くてすんません。)

おそらく今でも店がいっぱいになるのは(どんなにマイナーであっても)一部の日本人ファンが夢中になる「外タレ系」ジャズ・プレイヤーが来た時くらいではないでしょうか(あ、でもこの間は自分の知り合い2バンド出ただけでグッドマンが満員になっていたな。それに、「外タレ」であってもお客が少ないということもありそうだ、この頃は。正常なことですよ、これも)。この状況は日本人が外国から来るものに追随する(理想を見出す)という心理がなくならない限り、なくならない。いつまでも「良いものは海の向こうから来るもの」と思っている。聴いていつまでも有り難がるだけの人はそれでいいのかもしれません。実際問題、われわれのような演奏者も最初はほとんどがリスナーとして音楽人生を始める。そして喜んで「海外発」を素晴らしいものと思って追いかけて来た背景がある。でも、やるわれわれがいつまでもそれではダメなんです。 いや、もっと言うと、表現にコミットしようという人が、国外であろうと国内であろうとスターばかりを立てる発言を続けているようじゃ、自分の世界を築けない。聴いている人も、「このオレが最高のヤツを見つけた、誰も知らねーだろー、口惜しいか?」くらいの気持ちで、自分の「お気に入り」を貪欲に見つけてほしい。もう、みんなと同じことを繰り返すばかりのプロの評論家に頼るのも止めましょうや。

集客と言えば、あとは「会場全体クラブ状態」を目指しているようなグループが成功している模様ですね。あれくらいになると磁場が人を呼び、人が多くなるとさらに磁場が増し、という「良循環」が起こるんでしょうね。とにかく、自分の中ではなるべく人は呼ぶ、できるだけチラシをまく、ネットでも叫ぶ、というくらいの努力で、集客は当面目的にしない、自分の演奏と練習に集中する、という風に割り切ることにしています。 それだけでも大変なエネルギーなんですよ。

>> ふと思いましたが僕は基本的なジャズ理論も通った訳ではないんですが、インプロには非常に魅かれております。この辺りのことに関しては僕は凄く悩みます。。<<

■ 「インプロに魅かれる」って、それだけでいいじゃないですか。一体どこに「悩む」余地があるんでしょう?(って言ってるボクも悩んだことがあるから、人のことはよく分かるんですけどね。)

>> フリージャズに関して言えば、理論を否定するのがフリーと教えられ理論も知らないで、ただ否定するのは右翼の街宣車と同じと言われました。Qさんのユニットはしいて言えば僕のMな部分を持続させて、ときおりそれを解放させてくれるので「あーいいなー」と「感じます。<<

■ 「Mな部分」って「マゾな部分」という意味でしょうか? それにしても、「右翼の街宣車」。名文句だね〜。でも、内容はありきたりだな〜。その「理論を否定するのがフリー」という理屈。それってQさん自身が言ったんですか? 誰が言ったにせよ、ろくなこと教えてないですね。というか、自己保身の理屈ですね。自分がそうやって来たから、次の人もそうでなければ自分の基盤ややってきた努力の前提を否定することになっちゃう。「家元の論理」って呼ぶことにします。それを言った人のつくる音楽は素晴らしいのかもしれませんが、喋っていることは詰まらない。むろん、言っていることと演っていることは(とりあえず)別ですから、そのことで彼の音楽の価値を云々する気はないですけどね。彼が「フリージャズ」あるいは「ジャズ」という枠で音楽をやっているから「崩す」とか「理論の否定」という話に行き着く訳ですよね。完全に「理論」や「枠」を持っている人の見解だな。音楽に理論を持っている人の即興音楽に興味ないな、今は。ジャズ、フリージャズとしては逸品なんだろうけどね。

ただし、「いろいろな音楽を知っている」とか「好きな種類の音楽がある」ということはいいことですよ、即興演奏をやることについて言えばね。でも理論を知らなきゃ否定もできないというハナシとは別。「じゃ、あなたの理論外で音楽やります。否定する事自体にも肯定することにも関心はありません(ところで、あなたの音楽は素晴らしかったです)」でいいじゃないですか。

言っちゃいますけど、確かに「フリー(自由)」というのは「○○からの自由」あるいは「縛り(不自由状態)からのフリー」という風に、否定的にしか定義できないものです(ほとんどの場合)。その点、某氏の理解は正しい(これについては書いたことがある)。そこには、「自由」「フリー」という概念の始まり自体から持っている性質だ、ということの認識がある。つまり、自由に関心があるのは奴隷(不自由者)であって、まさに不自由であるという自意識がフリー(自由状態)に向かわせる、ということはあるわけですよ、どうしても。

でも、最初から理論なしで音楽始めた人がいたとしたら、そのひとはどうしてフリーであることを、ことさらに目指すと思います? いまさら「理論なしで音楽始められるの?」なんて訊かないでくださいよ。もともと理論のない所から<音楽>は始まったんですから。それは分かりますよね。そして、理論は後からそれを真似したい人によって発見されるものでしょ。音楽理論が、具体的作品に先立って存在し得たと思います? 「何々風」の音楽をしたいという理由で音楽をしようと言うなら、理論でも理屈でもその人の書いているものでも何でも勉強してそのように演奏し、飽きたらそれを壊して、とか、繰り返し繰り返しやってりゃあいいんでしょうけど、あれだけの音楽を作っているあなたが、どうして今更「ジャズの理論」がどうのこうの言っているんですかね。下らないっすよ。「凄く悩みます」とか言うの卒業しませんか?

>> enteeさんのような方とお知り合いになれたのは僕にとっては非常に貴重なことです。宜しくお願いします。<<

■ このメッセージ読んだ後でも同じように思って頂けたら本当のお友達です。いやだな、苦手だな、と思われましたら、そうおっしゃってくださって全然結構ですよ。あれ聴いたこれ聴いた、というのをいつまでも言っているんじゃ、詰まらないですしね。おかげで私も目が覚めましたよ。ここ10日ほど自分の方でもいろいろあったためもあり。

entee

PS. ところで、「理論」ではありませんが、「美学」は持っていていいと思いますよ。これがオレの思う恰好いい音楽だ、という思い込みですよ。もちろんそれが「思い込み」に過ぎず、美学ごと自分自身も変化成長するということを自覚してでの話ですけどね。

私も再びこういうことを書くきっかけを頂けて感謝しています。