Archive for June 11th, 2005

韜晦の終わり #1(詩がわれわれに語るもの)

Saturday, June 11th, 2005

私がここ10年以上にわたって変わることなく、一日たりとて頭から排除することのできなかった「或る題材」について

確かに、その種の「題材」とは、数学の定理の証明と同じような科学的な精度を以て、証明・論証できるようなことではない。ただ、「詩の言葉」だけがそれを扱うことが正当であったし、それが正当であったということ自体にも理由といきさつがあった。

詩の言葉で語られたものが指し示すものとは、時として「別の詩のような言葉」や象徴的図画やある種の動作によって翻訳することができたかもしれないが、ある題材が特定の表現手法を通して語られてきた事自体、その手法がおそらく最も得意とするものであったからに他ならず、当然のことながらそれを別の表現に置き換える事自体に第一の困難がある。これは「手法変換」に関わる困難と呼んでもいい。

ある特定の「題材」が、言葉で語り尽くせるような内容のものでない場合、しかもそれでもなお語られなければならないとき、やはり「詩」として(あるいは「詩のようなもの」として)われわれの前に何度でも再生してきた。だが、その「題材」をわれわれの日常語で論じることは、詩や映像作品を別のものに置き換える際の、一般的な「手法変換」の難しさとはまた別の難しさがある。

これはその特殊な題材そのものを「諒解する」ことの難しさである。したがって、その「題材」を扱う「作品」について日常語で語ることには、二重の意味で困難が待ち構えている。だからこそ、この「題材」そのものを日常語で語ることは、歴史の早いうちに諦められ、「詩のようなもの」が単独で取り上げ続けたのだ。おそらくそれが、その「題材」が「詩」の専門領域になった経緯なのだと言っても、おそらく過言ではないのだ。

さきほどまさに「数学の定理の証明」と言ったが、一見自明そうでいて、その証明がどうしても困難であった「フェルマーの最終定理」の様な極端な例を持ち出すまでもなく、ある程度複雑な定理証明を理解するためには、それを理解できるだけの、様々な既に証明された定理や高度な公式に関する知識が必要となる。だが、ある種の数学者同士にとってその「正しさ」がすでに自明のことであっても、それを部外者にも分かるような説明を求められたら、それは困難を極めよう。しかもその説明に失敗した場合でさえ、それが間違いである、と素人のわれわれには断定することが出来ない。

この場合、その「正しさ」を知ろうと思うなら、数学者が数学領域の外に出て来るのを「受け身」で待つのではなく、数学の部外者が数学領域の中に積極的に入って行く以外に、それを共有することは出来ないのである。

その「正しさ」を実感するためには、その数学者と同じだけの知識と知力、そして経験が要求されるからである。したがって、その「題材」を扱うこととは、その点においてのみ、「数学の定理の証明」をある程度の習熟者同士が共有することに、幾ばくかは似ている。だが、繰り返すと、その「証明」は、数学の証明ほどの正確さで再現できないところに、「題材」を共有することの難しさがあり、またその内容の途方もなさに単なる「虚妄」として退けられる傾向も排除できない。だが、繰り返し繰り返し時代を超えて伝達するに値する「題材」というものは確かに存在したし、ある種の実感を持ってその題材自体のリアリティを理解することのできる人というのは、歴史上幾人も存在した。

また別の喩えである。たとえば神学に通じていない人々にとって、二者の神学者の間で交わされる神学論争の言葉がまったく何の意味をなさない符丁のようなものであるばかりか、間違った根拠をもとに闘わされる単なる虚妄の論理の応酬のようにしか聞こえないだろうことは想像できる。だが、神学者たちが積み上げて来た理論というのは、その領野内において、それ独特の精密さを持ち、また、その言語を知る者同士では相当に正確なコミュニケーションが可能なのである。つまり、その前提となる「公理」が正しいのだとすれば、その上に築き上げられた理論自体は、とりあえず「間違い」ではないのである。つまりその条件下においてそれは真なのである。ただ、その「公理」の正しさを受け入れるか、不可知であるという理由で、「取るに足らないもの」と思うか、それはこの人の不可知領域に対する敬意と態度で決まる。

あるかどうか分からないものに、どうして敬意を払うことが出来るのか、と訊かれることがある。だが、今日あなたが乗った電車が渡ったかもしれない鉄橋が、ある種の精密な構造力学上の計算によって構築されているにも関わらず、それをあなたが理解できないという理由で、力学上の理論が「存在しない」と言う事は出来ないであろう。つまりそれは理解を超えているが、それでもなお、そこにあるもの、なのである。

また、先天的にものが見えない人に、視覚という感覚がどういうものであるかを説明するのがいかに困難かを考えてみよう。しかし、それがいかに困難ではあっても、「ものが見える」人にとっては、見えていることが絶対的なリアリティなのである。そしてものが見えることが、見えない人より優れているかどうか、という議論は全く不毛なのである。私はどちらの方が優れている、などということをあえて主張する気もないのだ。だが、見えていない人が、見えている人に向かってを「視覚などというものがあると主張すること自体が傲慢だ」と言い出すことがある。あくまでも喩えに過ぎないのであるが。

理解し得ないことが「あるかもしれないこと」として互いに敬意を払うというのは、実はあらゆる「専門領野」においても求められてよい最低限の礼儀であると言えるだろう。なぜなら、専門を異にする者同士でのコミュニケーションというものには、多大な労力と忍耐が要求されるからだ。

そして、この異種領域の専門家同士の間で「会話」を成り立たせることが出来る場合があるとすれば、そこには優れた比喩(メタファー)が介在していることがあり得る。それほどにわれわれ人間同士が対話をするには比喩というものの不思議な潜在性(ちから)に依頼するところが多いのである。

もし、数学者や物理学者が難しい定理や公式をいちいち説明することなく、その数学や物理学の世界の「真実」(あるいは真実らしさ)を門外の人々に理解してもらおうとするならば、おそらくある程度単純化された図表などの視覚的な表現方法、あるいは「すぐれた比喩」を案出しなければならないはずだ。

だが、こうした理論が正しそうなだけで、正しいことを他者に説明できない場合に、それを聞くに値しない、知るに値しないと思えば、「あるかもしれない世界」のその扉は、彼らには永久に閉じられたままになろう。数学者が数学について知らぬ者よりも相対的にそれをより多くを知っているという事自体は、傲慢ではなく、それ以下でも以上でもない、単なる事実を言っているだけの話である。

その「題材」とはかつてこのように表現されたことがある。

「(秘教の唱える教義は、)現代科学がすでに時代遅れと見なしているさまざまな教義の一つであり、実験的に証明できるような正確な対象物をすでに失っている」(『秘儀伝授 - エゾテリスムの世界』(リュック・ブノワ)と。

またブノワはライプニッツを引きながらこのようにも語っている。

“「あらゆる理論は、その肯定するところにおいて真実、否定するところのにおいて虚偽である」(略)。あらゆる否定は、現実から可能性の一部を切り捨ててしまうが、実はこの部分を解明することこそ科学の役割なのである。”

これを、今、私ならこう言い換えることが出来る。「実はこの部分を開示することこそ<詩>の、そして<ある種の芸術>の役割なのである」と。