Archive for June 17th, 2005

『日本の軍隊』吉田裕著(岩波新書)を読む

Friday, June 17th, 2005

戦争の「正」の側面を知るということには意味がある。(負の側面など今更強調するまでもないという前提で…)だが、「新手の戦争肯定論か?」と早合点する前に次を読んで欲しい。

こういうことです。つまり、「戦争はみんなが考えるほど悪いものではないんだ」という主張や考えに、どういう事柄や現実認識が「支持」を与えているのか、戦争のどういう側面が戦争肯定論者に「勇気と力」を与えてしまうのか、ということを識ることにつながるから、だから意味があるのです。

戦争の負の側面については、その度し難く無秩序な破壊と混乱、そして人命や人間の尊厳を奪い去る暴力の組織的(というか本当は無秩序で混乱した集団による)な行使であるから、つまり殺人という取り返しのつかない罪の本質は如何なる理由においても正当化できない、という理由以上のことをあらためて語る必要さえない。それほど左様に、すでに自明のことである(もちろん、どれだけ語ったってそれで「こと足れり」とされるものでもないほどに、語り継がねばならないことが無数にあるのは言うまでもない)。

したがって、いかにして戦争を美化し、その価値を称揚し、その存在を正当化して来られたのかを知ることには価値がある。例えば、青春時代を「戦争を生き延びる」ことで過ごしてきた「戦争しか知らない(かつての)こども(青年)たち」の論理を、如何にして無効化するのか、という批判材料を得ることにつながるのである。そして、そういう戦争肯定論者(一部肯定論者も含む)の言い分を単純に信じる(あるいはその「言い分」に対して同情的な)人々の存在、あるいは戦争の悲惨さを自分の問題として想像できないだけなのではないかと思えるような、皮相的な戦争肯定論を「口真似」する若い世代の人々。こうした存在が増殖しつつあるということを考えるにつけ、彼ら「肯定論者」を包括理解し、その論理のどこに決定的な穴があるのか、ということを知り尽くす必要があるのだ。そういう人々をバカ呼ばわりしても、人格否定しても、それは肯定論者、否定論者のどちらのタメにもならないのだ。

戦争というものの“多面性”に冷静な光を当てる『日本の軍隊』(岩波新書)によれば、軍隊に入って初めて満足な3度の食事にありついたという青年たちが大勢いるという。これ自体が私にとっては衝撃であったし、「目から鱗」の記述であった。戦争前夜、そして戦中当時の農村の「貧困層」に属する人々からすれば、軍隊での生活はそれまででは考えられないほどの贅沢であり恩寵であり、飢餓からも労役からも開放された、ある種の安楽世界であったという、明確な実感を持つ元兵隊達がいる。あるいは、社会階級とは関係なく、軍隊という組織は(部分的だとしても)「能力主義」が実現していたある種の「公平なる社会」であって、軍隊の機構上、ある程度明確な上位下逹の「主従関係」はあったものの、一度一兵卒として入所した時点では、その全員が、すなわち金持ちも華族も農村出も、すべての者が同じ飯を食い、同じ訓練や仕置きを受けた。これは軍隊の外の世界では、当時まだ「実現していなかったこと」だというのである。

そして、われわれ戦争否定論者が正面から対峙しなければならないのは、これらの理由を以て軍隊を肯定せざるを得ない人がいる、という事実である。

そればかりではない。さまざまな理由を以て、なるほど軍隊が「よい場所」だと感じることにはいくつもの「根拠」があった訳だ。

しかるに、こうした軍隊のもつ一連の「長所」を以て軍隊(兵隊)というものに課せられている機能、期待されている役割、そして何よりも破壊と暴力を可能にする道具でもって武装している組織であるということ、そして「防衛のための道具である」と主張して維持される軍備そのものが、結果的には、他者(他国)から見れば脅威を感じる対象そのものに他ならないという点、そして、「防衛」と云う名のもとに侵略*さえ実現可能にするという点、最終的には命令が絶対であるというトップダウンの命令形態、そうした軍と言うものの一切の暴力的本質を根本から書き換えてしまえるような「価値」なのであろうか?

* かつて防衛という大義なしに行われた戦争というものがあっただろうか。すべての戦争はそれを始める人たちによって「防衛手段」であると主張されているのである。それは現在アメリカ合州国政府によって成されている先制攻撃ですらそうである。日本人が朝鮮半島に入植したのも軍隊を展開させたのも、「ロシアや清国の脅威に対する本土防衛のため」という説明がある。すなわち、「防衛」などという言い訳は、誰によっても可能であるという理由で、すでに無効であり、それにまともに耳を貸す必要がないほどである。「攻撃してくるかもしれない」と一部で脅威が叫ばれている某国に関して、彼らの側からすれば日米や韓米の軍事条約を背景に外交を展開する日本や韓国に対する脅威を感じている訳で、「祖国防衛のための先制攻撃」という口実を持っている訳である。この際どちらに「正義」があったのか、と言うことは問うまい。だが、確実なのは朝鮮戦争が起きた当時、ソヴィエトのバックアップを得た金日成に率いられる朝鮮民主主義人民共和国の側にも、共産主義に対する防衛を声高に叫んでいた合州国にバックアップされた大韓民国の側にも、等しい「正義への感覚」があったわけである。互いが「防衛」を旗印を上げて血を流し合った訳である。

軍隊の長所によって「戦争(戦時下の世界)というものは悪いものではない」という戦争観は、さしずめ、「必要悪」を主張する言説の別名に他ならない。だが、必要悪を口にする者は、「悪」を「必要」によって免責できると考えている。悪に対する根本的な無理解、あるいは悲惨への想像力と感受性の欠如がある。そればかりか究極的には根本的な差別主義の発露に他ならないのである。

つまり、必要悪でもって「必要」を満たされる人々がいる一方で、「悪」の犠牲になって死ななければならない人が出るという不条理を前提として肯定しているからである。そこには明確に「生存できる人間」と、それに与れない人間のグループに人間を分つ差別構造を認めてしまう精神的な弱さがある。そこには、「必要悪」によって「必要」を満たされる側にいるだろう自分(あるいは身内*)への愛と、悪によって滅ぼされるかもしれない側にいる人間(他者)への明らかな無関心という根の深い差別意識なしにはあり得ない思想なのである。

まさに戦争とは究極的な人間の選別とそれを可能にする抜き難い差別意識なしには実現不可能な「政策」なのである。そしてその政策は、いつの時代でも、安全圏にいて自分(や自分の身内)が生き残る者達が、自分たちの安全を無条件的な前提として造り上げられるのである。

こうした差別され「消耗」される側に対する無関心は、「必要悪」を軽々しく口にする人間たちの間に目立って見出される特徴である。必要悪を認める自分は、他でもない「自分」の犠牲というあり得べき可能性に関して、どれだけ想像力を働かせることができているのであろうか? 仮に自分がその犠牲に身を投げ出すことが本当にできたとしても、それは他者の犠牲をも同時に強制する類の「自己犠牲」ではないのか。戦争というものはひとりではできないのである。

* 身内への無条件の愛は、自己愛とどれほどに違うのであろうか? 血縁の子供や愛する人間を優先的に生存させると言う本能的行為のどこにヒューマニズムの崇高性があるのであろうか?

どんなに勇ましい戦争における自己犠牲(壮烈な死)であっても、死に臨んで、どんな貧困も、どんな悲惨も、生きられれば「死よりはまし」と思うかもしれないではないか。いや、私は思うに違いない。

そんなことを考えさせてくれる良書として、筆者は『日本の軍隊』を評価するのである。