Archive for June 24th, 2005

感慨:鬼神ライブ@音や金時 6/23

Friday, June 24th, 2005

慣れた訳ではない。ライヴに慣れるはずがない。良くも悪くも(普段の自分でなくなるという意味で)緊張はしているのだが、不思議と今回は、比較的落ち着いて舞台に立てた(座っていたけど)気がする。これはどういうライブならそうなるのか、というような一般化も定式化も全く出来ない何らかの条件で起こる一種の精神状況で、それは年にだいたい30回前後出演するライヴパフォーマンスの中でも、ほんの2、3回程度(あるいはもう少し頻繁)に起こるものなのだ。言ってみれば、それが「たまたま」昨夜起こったということだ。

しかも、そういう「落ち着き」というのが、ライヴの内容に良く反映するとも悪く反映するとも、そのどちらかに体よく収まるということとも無関係なのだ。落ち着いていて良い演奏が出来たと思えることもあれば、そうでないこともある。ボルテージが上がり切り、自分を見失っているのに(いるから)、結果が良いこともあれば、(見失っているからこそ)ダメな時もある。「自分がこうあれば、結果がああなる」と予測できるものでもないので、あまりアテになることでもないということが分かるだけなのだ。

これに関連して以前に書いたことのあるエッセイ

ただ、ひとつだけ言えることがある。とすれば、それはこの度のライヴにおいては、夢中で演奏している自分がいるのと同時に、それをどこかで「楽しんでいる」自分がいたということである。前回初めてゲスト出演させて頂いたAPIAでの最初のライヴの時のように、「ここぞ。ここで出なくてなんとする?」という瞬間をことごとく「見逃しの三振をする」、という感じではなく、全体の時間の流れに自分も乗っている感じもあり、舟から落ちないように櫂にしがみついて必死で川を下っているくせに、周りの景色も突然目に入ってくる、みたいな瞬間があったし、川を下っているスリルを楽しんでいる自分もいた。もちろん、演奏後にビデオを観て初めて気付くようなことだっていくつもあったのだが、それでも演奏中に自覚できることが多かったことは、自分にとって珍しいことであると言えよう。演奏の善し悪しとは別の問題として、演奏している自分を楽しんでいるというのは、実に有り難い出来事ではある。

なぜなら、演奏中の自分を皆目思い出せない数多いライヴの中で、演奏を録音を通してしか「追体験」できないというのは、口惜しくもあり、スリルで冷や汗をかきながらも演奏そのものを演奏中に実感できるというのは、貴重な体験であるからなのだ。

そのためなのかどうかは分からない。今までの浅い経験からしても、「そのためだ」と容易に「何かのせい」に結びつけることは何の足しにもならない。だが、あれだけの熱意を持って楽器を吹いても、自分が思い描いている音として鳴っていない、どこか「ぬるい」部分があることは、録音からでもよくわかった。こうした音色や音圧についての自覚は、演奏後の方が客観的に分かることが多い。それについては、普段と変わらなかった。

せっかく聴きにいらした方のことを考えると、このようなことを書く(思う)こと自体が拙いのかも知れないが、自分を大きく見せる気も神秘化する気もない。あるがままの自分を聴いて下さる方のためにも、自分が何であるのかというのを「隠す」のは潔くないと考えるのだ。

なぜなら、音楽の神秘とは、それを生み出す人間に属するのではなくて、音そのものの中に、そしてそれを読み取ることの出来るひとの心の中に宿っているものだからだ。演奏家にあるのは、そのために格闘するという、それ以下でも以上でもない、あるがままの「いとなみ」だけなのだ。

何度でも書くが、こうした経験への機会を下さった梅崎さん、トシさん、そして皆様に感謝の意を伝えたいと思う。