Archive for July 21st, 2005

音楽と音楽に外在するもの
E・フィッシャーを読む

Thursday, July 21st, 2005

「彼(ベートーヴェン)に霊感を与え、彼の音楽的思索を特徴づけているのは楽器なのだ…しかし哲学者・道徳家それに社会学者たちがベートーヴェンに関する数限りない著書の中で論じているのは、本当に彼の音楽なのであろうか。第三交響曲を作った動機が、共和主義者ボナパルトにあろうと、皇帝ナポレオンにあろうと、どうでもいいことではないか。音楽だけが問題なのだ…文人たちが、ベートーヴェン解説を独占している。その独占を彼らから奪い去らなければだめだ。独占できるのはかれらでなく、音楽の中に音楽を聞き慣れている人々なのだ…ピアノ曲に於けるベートーヴェンの出発点は、ピアノであり、交響曲・序曲・室内楽における出発点は、総譜なのだ…彼を有名にした記念碑的な諸作品は、彼が楽器の音を精いっぱい活用したことの論理的な結果である──こう主張しても間違いになるとは思えない。」

(エルンスト・フィッシャー著『芸術はなぜ必要か』(河野徹 訳)に記載されているストラヴィンスキーの記述からの孫引き)

今日、ストラヴィンスキーの主張をここまで読んで共感する人は多いと思われる。実際問題、私自身も相当の共感を以て途中まで読んだ。だが、ストラヴィンスキーの「正当性」に共感できる人間が、そのあとに展開されるフィッシャーの批判的主張に耳を貸すに値しないと思うのは、早計である。そもそも一方が正しければ、他方が間違っているというような二律背反の公式のようなものではない。ストラヴィンスキーの言っていることが正しい一方で、フィッシャーも正しいという「次元」とも言うべき問題圏が、それぞれにあるのだ。どういうレベルでそれぞれが自説を主張しているのかという次元の相違を無視してそれぞれを一刀両断に語ることでは、片手落ちなのだ。

芸術作品は、それぞれがそれぞれの語る方法(形式)自体に「眼差しを与える」とか「耳を傾ける」とかいう直接的な鑑賞行為を通じて、その作品の中からしか、その価値を認識する方法がないという主張には、一見反論を寄せ付けない「正当性」を感じさせるものがある…

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