Archive for August 18th, 2005

「即興」さえも相対化するという視点

Thursday, August 18th, 2005

[タイミングがタイミングだから、これが何かに対する「反論」と思われるかもしれないが、反論を意図していないし、反論になっていない。]

これは長い長い(形而上学的考察に関わる)精神論的音楽論に突入する前にわれわれがまず大前提として了解していても「損はしない」話の一つである。

もうこの辺りは、私の足りない頭でも考え尽くし語り尽くした感があり、いまさら何か付け加えることがあるのか分からない感じが正直なところだが、あえて「知らない部分」をもう一度洗い出すために自己にこれを課す。まずは便宜的に、捉え難い「精神論」をすべて省いた純粋に現象面での話をする。(それだけでも長大な文章になるだけの課題がある。)

第一に、今日的な音楽表現に於いて、その手法が「即興か、プランか」というのは、結局は「程度の問題」にほかならないのであって、「完全に即興」であるか「完全にプラン」であるかというような前提で語ること自体がナンセンスになってくる。「全くの即興」ということはあり得ぬ話だし、「全くのプラン」ということも同様にあり得ぬ話なのだ。つまり、即興に対して「全か無か」というような二者択一があるのではなくて、それらをどう「ブレンド」するのか、つまりどれだけ「非即興」という要素も加味・想定できるのかということが、真の即興者にとっての自由の度合いでもあるはずだ。まさにそれはわれわれの人生そのものと同様に。

その点で極論を敢えて言えば、手法としての(あるいはカテゴリーとしての)「即興音楽」に何の幻想も過大な期待もない(実は、後に言及する?ように、これは部分的には嘘なんだけど)。以下に述べるように、「即興」とは、即興音楽やその他の芸術創作だけの独壇場ではないからである。生きることそのものが純然たる即興であるということを了解していればこそ、なおさらに音楽の即興性の側面だけに過剰な評価を加えることに対して、私は常に「それは公平さに欠いた精神論である」と批判して来たのである。即興を絶対視/特別視する一種の「精神論」だと言う意味で。当然、即興を実践している多くの人からは反論を受けるだろうことは覚悟の上で。

最初に音楽に限った話をすれば、古典楽曲を「楽譜通りに奏している」かに聞こえる演奏でも、すぐれた演奏であると感じられるものは、きわめて“即興”的で、しかも有機的である。つまり「作曲された音楽が人間を奏している」としか思えないような「特異な必然性」を具現化している場合がひとつ。そしてもうひとつは、「楽譜通り」とは言っても、音楽の全てが記譜されることがありえぬ以上、当然のことながら、速度、音量、アタック、音符の長さ、音色、その他の、あらゆる音楽表現に不可欠な、厳密な記譜が不可能な要素については、ほぼ不可避的にその場その場の判断でその「匙加減」が選択されていく。実は、これこそがむしろ音楽の「主要な部分」である。である以上、古典に関しては「解釈」が必須となり、古典楽曲の演奏行為さえ演奏行為の瞬間に於いては「即興行為」から不可分な訳である。これは能などの日本の伝統芸能に関しても同様のことが言えるはずである。

まったくもって、記譜されていること自体が作品実体のごくごくわずかな部分なのだから、音楽家にとっては、それらをどう解釈し、どう実際の行為に転化するのかという部分こそが表現の本体なのである。ここで言った「解釈」とは演奏行為に先立って行なうもの、演奏最中にスポンテイニアスに行なわれるもの、その両方である。後者の場合、「解釈」が即興的に行われる。

だから、古典楽曲演奏を完全に「即興に非ざるもの」と考えるならば、その時点で既に錯誤がある(そんなことを言う人がいるのかどうかさえ疑わしいのだが)。ひるがえって、社会通念的に「即興音楽」と考えられているさまざまなジャンルについて言えば、それらがすべて純然たる「即興」であるのか、と言えば必ずしもそうとは言い切れぬ部分があるのであって、逆にそのことの意味を関係者は持続的に問い続ける必要がある。自分のやっていることは「即興」だが、本当に<即興>なのか…と。

しかも、「本当に即興なのか」という問いについても、その本質論(精神論)に至る前段階として、それへの各自の関わり方の深さに見合った設問が、重層的に想定できる。そして答えも様々であり得よう。

例えば、有限な技巧上の「引き出し」を利用する気まぐれな「自己反復性」を基に、安易な即興を<即興>と看做さない厳格な即興上の「思想」や「教義」があるのも知っているし、表現者による「偶然」の能動的な制御不可能性を根拠に、そもそも即興演奏を「表現としての音楽」と見なすべきかどうかという根源的な(そして古典的な)問いがあることも知っている。一方、音楽を表現者の意思と完全な意識のコントロールの下に置くような即興を<即興>と呼ぶべきかどうかを問う向きもある。仮に偶発的要素の少ない「即興ソロ」などが、記譜されていないにも関わらず、その展開がほとんど想定範囲(予想可能の範囲)であるとき、それを即興と呼ぶべきなのか、という問いがある。そうだとしても、それはそれで理解可能である。だが、さらに「予想可能である」からと言って、その価値がそれを以て計れるというものでないという部分もある。もし「予想不可能性」こそが音楽の価値であると断じれば、今まで存在した全ての反復的に演奏家たちによって取り上げられてきた古典楽曲には価値がないことになるが、それはわれわれの認識に反する見解である。「予想不可能性」は、人生自体がそうであって、ご大層に音楽だけに求められるべき独壇場でも絶対的機能でもないのである。

だが、時代を遡ってもう一度「音楽の歴史」というものを鳥瞰したとき、結局「即興」は音楽創作上の「ほとんど唯一の方法」だった時代の方が長い。音楽に「作曲者」が誕生する以前の状態を思い浮かべてみるといい。職業的な「作曲家」が現れたのはせいぜい400年ほど前辺りからである。名前のある「作曲家」が認識され始めるのと西洋個人主義の萌芽はほぼ一致する。一部の例外があるものの、そうした「作家不在」の音楽時代は、ほんの500年から1000年前の世界がそうだった。場所によってはほんの数十年前までそうであった所もある。長く見積もっても「作曲者」の登場は、歴史時代以降(有史以来)の話なのである。歴史以前の時代の音楽は、ほぼすべてが無名の楽師もしくは“シャーマン”による即興“演奏”であったはずである。あるいは、記譜されたこともない「記憶された旋律」を基盤としてのアドリブであったはずである。あるいは純然たる打楽器などによる旋律を伴わない即興。すなわち[音楽]=[即興]だった。このことを思い起こせば、現在われわれが再び音楽創作上の手法として「即興」を取り上げること自体に、何の「真新しさ」もないのである。あるのは、即興を「再び取り上げる」にあたって、それを「正当化」しなければ済まないわれわれの「思想的傾向」である。

しかし、以上のことをすべて前提と考えた上で、言い尽くされないことがまだまだある(当然のことながら)。まず、上記の話には、何らの精神面での説明が加えられていない。だがこれは意識的に選択されていることだ。「即興」という言葉のもっとも平板な用法を巡っての、一般論以上でも以下でもない。一足飛びに即興行為の「精神性」乃至「至高性」を大上段から語ったり、論理的な思惟の手続きを経ずに一刀両断の精神主義に陥ることに対して、私には大いなる警戒があるからである。むしろ、それ以前の部分──それらを前提としてさえ、まだ語られていない部分──を可能な限りあぶり出すことが、「地上で精進する者たち」に課せられた宿題であり、真理に至る近道であるからなのである(と、いきなりこの辺りで「精神」論的な色彩を帯びてくる!)。

以上、言語的に網羅しうる即興の多面性については、自分は相当に自覚的だし集中的に考察をして来たつもりだ。特に、常に自分の追求する類の<即興>が行なえているかということについての点検は、厳しくありたい。だが、もし「即興」が手段ではあっても「目的」ではなく、必然性を帯びた「劇的」性の具現化が音楽表現のゴールであれば、その手法が「即興」を包含した「プラン」であってもよいし、プランされたものであっても、最終的には「その場で即興されたものとしか思えない」というような「必然」性を帯びた質のものを追い求めるだろう。その点において、<音楽>が上位であり、即興が下位なのである。

そして、もっと欲を言えば、人類にとっての<普遍的題材>を表現したとしか思えないものを即興音楽を通じて作り上げることである。それによって、聴者は過去から未来へ至るひとつの「絵」を視るだろう。それが成されたときに初めて“シャーマン”として<音楽>を扱ったことになるだろう。

一方、冒頭で「程度の問題」と断った「即興」が、音楽に限らぬより大きな領野へと話を拡大していっても、もちろんそれは通用する話だ。使い古された言い回しだが、「我々にとって生きるということ自体が即興」であって、予測不可能な世界において眼前で生起しつつあるあらゆる事態に対峙して、われわれの「態度」が、周囲との関係の中で自己の行為を「適材適所」と成すべく、どこまで柔軟かつ直感的で、また事態に乗り遅れないだけの敏捷さを発揮できるか、という「生きるための技術」といった文脈でも語ることができる。だが、それでもなお、「全てが即興」というような世界への「同時的対応」と一刀両断できるほど、現実も単純な話ではない。

その理由こそが「即興」が「程度の問題」であるとあえて言う所以である。なぜならば、日常生活に於いても全てが即興である訳ではない。プランをするときがあり、イメージを作り出す時間があり、思った通りの音を出そうとする修練があり、音を出すためだけの(リードを作ったりという)地道な個人的努力がある。それらが「すべて即興」という言葉で呼ばれるに相応しいものであるのかは、別途判断されれば良いだろう。だが、筆者は<即興>とは他者や環境があっての、社会的/集団的、もしくは外因との「関わり」の中でこそ考慮される方法であって、そういう限定的な言葉の用法こそ、その言葉の「精神」をより本質的に伝えるものだと信じる。

したがって、そのような文脈に於いて、むしろ初めて、即興と言う「日常行為」を改めて音楽に“持ち込む”ことの「正当性」を主張することが出来る。そして、そこには日常に於けるのと同様のリスク、そしてリスクを負う人間だけが得ることの出来るだろう精神的成果(失敗も成功も含めて)という果実が与えられるのである。

これについては、これまた使い古された言い方かもしれぬが、「人事を尽くして天命を待つ」という金言以上のことを今のところ私は思いつかないのである。

私の中では、最初に実践(行為)ありき、であり、「精神」は後から発見されるものだという考えを拭うことが出来ないのである。最初に音楽があって、それが「精神」を呼び寄せるのである。

(と、ここに至ってようやく「即興精神」というものについてフェアに論じる立ち位置を得るのである。)