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音楽と絵画に見出される根本的な相違:
同列に論じられない部分についての考察

Saturday, August 20th, 2005

即興を抽象表現としての絵画/視覚表現の生産の方法として取り入れる場合と、即興を音楽の生産の方法として取り入れる場合とでは、どうしてもうまく比較することができない部分がある。

これは、とりわけ「うまく譬えられた比喩(比較)」に潜んでいるかもしれない誤謬の可能性に対する警戒という、私が意識的に自分に課してきたテーマを再確認する意味もある。つまり、うまく言い表された比喩は、人を説得させ、感動させ、行動に駆り立てる力さえ持っている一方で、犠牲にされる側面というのがどうしてもあるからだ。つまりその両者を「芸術とか創造行為とか表現とかいう点で同じだ」という理由で大風呂敷に包みこむタイプの総括の中で、切り捨てられてしまう具体的な事象というのがあまりにも多くあるからで、しかもその具体的事象の中にこそ、それぞれの分野で追究されてきた成果があり、また独自の苦闘やら喜びというものもあるからである。だから、両者は「違うものだ」という前提で話を始め、その上でそれでも「やはり似た部分がある」という控えめな結論に至る方が、それぞれの当事者にとってフェアな態度だと思うのである。

絵画/視覚表現を得る場合の「即興」は、その結果がひとつのキャンヴァスなり諸々のメディア上にその軌跡を残し、まさにその軌跡が、静止した「抽象表現」としての体を成す。そして、その時間経過がメディア上に「凍結*」される。一方、音楽創作の場合、その音を聴いて音楽的なものとして了解できるものとするためには、イディオムを身につけなければならず(これは絵画と共通?)、その身に付けたイディオムを出現させ展開させるためだけに、リアルタイム(適当なタイミング)で止むことのない身体的なオペレーションを「その場」で維持しなければならない。[記録媒体を前提とした録音作品に関しては、必ずしもそれが当てはまる訳ではなく、視覚作品を作るのにより一層似た作業となる。つまりテープやハードディスクといった記録媒体をキャンヴァスとして音を塗り重ねていくという行為になる。]

* もちろん、その作品の中に凍結された「時間」を「解凍」して、解かれた時間を「体験する」というのが心眼をもった本物の鑑賞者のできる鑑賞方法ではあろうが。

ここで自分は絵画と音楽のどちらが難しいとかいうような話をしているのではない。また、どちらが高次元の表現だというような霊的不可知領域についての話をしているのでもない。ただ、単純で情緒的な二者の比較や比喩の無効性と、比較自体の困難さを言語化しようとしているだけである(むしろそのような言語化の過程こそ「比較可能な部分」をあぶり出すことにつながる作業とも言えるのだ)。

まず、音楽においては、それ自体が本質的に「抽象的」なもので、且つ時間芸術であり、したがって、それが作り出される現場でしか本来的に共有できないものであり、また、その「制限時間」内で把握する(しようとする)鑑賞者(立会人)の存在が最低限の条件である。そして、「抽象表現」自体が目指されるべき第一の目標ではない、ということがある。抽象性はすでに達成されているのであるから。

また、描写されるべき外在する対象を写真のように写実するというような役割を音楽は最初から担ってこなかった(一部例外はあるが)。音楽に於ける抽象性とは、提示される音素材のひとつひとつのパーツに生得的に備わっている本質であって、それらはどこまで行っても具体的な外在物を置き換えることにならない。そうした素材を組み合わせてはじめて「音楽体験」と言い得るもの──鑑賞者の体験は具象的かもしれない──が生み出される。そして、仮に音楽が何かを「表現」するのであるとしたら、それは世界に存在する「音楽同様に抽象的」にしか言い表せない「何か」(それは、筆者によれば<普遍的題材>)であって、その描写対象(題材)そのものが、「時間」に深く関わるものであれば、音楽が極めてその役割を担うのに「うってつけ」でもあった訳である。例えばつまり、「人の生涯」という時間経過の関与した物語を描くのに「演劇」がその表現手法として極めて好都合であるのと同じ意味で。

だがご多分に漏れず、元来本質的に抽象的であるはずの音楽の中でも、19世紀末から20世紀初頭に掛けて、とりわけそれが「抽象的」に聞こえるため、の努力が払われた。興味深いのは、音楽の「イディオムの解体」や音楽上の「因習破り」や「予想不可能性への到達」を目指した結果生み出された──すでにその成果や意味が明白になっている──諸作品の類は、西洋音楽に於いては、即興を通してではなくて、むしろ譜面に向かう厳密な「音符の操作」(作曲)によって試みられたということである(新ウィーン楽派など)。しかも因習的イディオムを深く理解した上で。そしてこうしたイディオム回避のための試行錯誤は、音楽について言えば、ヨーロッパという辺境の地域で発生した「伝統」音楽のフィールドだけの独壇場であった。つまり、世界中の、およそ音楽と呼ばれるあらゆる諸範疇の中でも「西洋の発展系音楽」のみが至ったひとつの手法(袋小路)であった。日本の伝統音楽も、インドの伝統音楽も、それが西洋近代の音楽と出逢うまでは、そうした「解体」や「予想不可能性」に魅せられた形跡がない。音楽は、破壊を志向して新たな刺激を求める一部の需要に応えるためのそうしたギミック以上の、何か神聖なもののための供物だったのだ。

音楽においては、すべてが根本的に<抽象>であるという前提を了解した上で、括弧付きの「抽象」と「具象」を論じることができる。例えば…

○ 音楽においては、一定のリズムの反復が起こるだけで、すでに「具象的」である。リズムを感じさせないパルスのランダムさは、自然界には多く存在する。このリズムの解体によって音楽は容易に「抽象化」される。

○ 音楽においては、一定のハーモニーが発生するだけで、すでに「具象的」である。調和を感じさせない不協和音や予定調和を裏切る手法は、音楽に「最も暗い闇」の成分をもたらした。ハーモニーの解体によって音楽は容易に「抽象化」される。

○ 音楽においては、モード(音律)が発生するだけで、それはメロディーとして認識されるべき基盤をなし、すでに「具象的」である。モードを感じさせない音列は、旋律の解体であり、もっとも音楽を掴み難いものにした。モード/旋律の解体によって音楽は容易に「抽象化」される。

無論、音楽における「抽象」表現は、それの登場した時代との濃厚な影響関係やそれを必要とする「思想的」「文学的」の需要上の意味合いもあって、その方法によってしか伝えられない一連のムードを代表することになった。だが、生涯そのような音を聴いたこともなければ聴いても音楽として認識できないかもしれない一連の作品を生み出した。そのような「音」でなければこの世の不条理を表現できないと「決めつけた」かのように(そもそも不条理なるもの自体が疑わしいにも関わらず)。そしてあろうことか、ロマン主義の時代、交響する音楽の時代は終わったと一方的に宣言されたのであった。そして、その「新しい音楽様式」の重要性は、もっぱら別の「新しい音楽家」やプロの「評論家」や「興行主」たちによって論じられた。実際の鑑賞や演奏よりも「論じられること」の方が多いと揶揄されるほどだった。そしてそれらの不断な努力の甲斐もあって、ついにその「音楽」は「社会的地位」を得たのである。音楽を本当の意味で必要とする大多数の人々を置き去りにして。

だが、いわゆる新ウィーン楽派らは、音楽が「音楽らしくなく」聞こえるようにすることを、生涯掛けてやった。あたかも音楽が「音楽らしくある」ことに対して怨嗟を持っていたかのように(そう、そこには「分かりやすい音楽」への遺恨があった)。だが、もはやわれわれの時代では(一部の教条主義者たちを除いては)それらの試みの数々はすでに乗り越えられており、その価値は相対化されているのである。今の西洋の音楽家は、それが超克された後の時代を生きている(もっとも希望的に発言すれば!)。

絵画については知らないが、音楽に於ける「抽象表現」は、その経験からその効果を学び、より具体的且つ「具象的」な音楽をより効果的に顕現するための「影/闇の要素」として利用されることになった。つまり、音楽上の「解体」は、新たな構築(コスモス)のための「耕作可能な混沌たる原野」として、もはや演奏家や作曲家にとって(言わば、「お決まり」となった)常套表現手法の一つとして獲得され身につけられたのだ。それは、絵画で言えば、もう一つ重要な絵の具や画材を入手したということに相当するのかもしれない。控えめに言って絵画については知識がないが、真の音楽行為において、「抽象」が至上のものとして目的化されたことは、あとにもさきにも西洋伝統音楽のごく一時期の、「あのとき」だけである。

もし、「新ウィーン楽派」やそれに追従する音楽家たちの目指す方向性を「抽象性」と呼ぶのであれば、現在は、「抽象と具象の調合」が、その時代である。そして、新ウィーン楽派やその心理的追随者によって「発明された」手法は、<より大きな音楽>の実現方法の一つとして「もっと大きな目的」のために取り込まれているのである。そして、皮肉にも音楽解体の努力は、真の音楽をより輝かせるための「闇」を作ってくれたのだ。

この最後の部分は、音楽の「解体」や「抽象性」の意味付けについて、その外部から語られた言葉としては、まだ誰によっても言語化されたことのないはずの言葉である。

これは、「抽象性」を巡る議論のほんの端緒に過ぎない「ありきたりの言説」のひとつとして捉えて頂ければ、幸いである。