Archive for August 26th, 2005

ボクたちの「覗く」権利

Friday, August 26th, 2005

時間のない方のための

ショートバージョン(笑えます)


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朝家を出る直前に、ワイドーショー的なテレビ番組を垣間観た。所詮、三面記事的「ニュース」を垂れ流し、似非評論家がとるに足らぬコメントを吐くという下らない番組だと言ってしまえばそれまでだ。だが、今朝たまたま観た番組の特集は「盗撮」を巡るもの。湘南かどこだかの海岸に「盗撮」だけを目的に現れる男たちが、海岸で遊ぶ水着姿の女性たちを携帯付属のカメラやビデオカメラを使って撮影してその映像(画像)を持って帰ると言う。そしてそういうことはケシカランということで、海のセーフガードたちが自主的な「取り締まり」をしているらしい。しかもこの“自主警護団”は「盗撮画像を提出しなければ警察に通報するぞ、二度とするな」という警告や指導をしている。こうして撮影された女性たちの映像は、違法な覗き映像のビデオやDVDとして違法プロダクションとの間で取引されたりする場合もあると言う(一部は確かに本当かもしれないが)。本番組では「自主的取り締まり」や「取り調べ」の映像や、盗撮する男性の隠しカメラによる映像などが、モザイク処理の上テレビに流された。また、水着姿でくつろぐ女性たちの「そういう人たちの行動は絶対いや!」というインタビュー映像なども紹介された。

最後に、司会進行者や評論家の集まるスタジオでの生放送映像に戻った。曰く、こうした「盗撮」を取り締まるための法律はなく、かろうじて自治体などで制定した禁止条例などで注意・指導することができる程度であるということで、つまり罰則はない。また、「盗撮取り締まり」の法律の早急な制定が望まれる、というような優等生的かつ予定調和的なコメント(宮崎哲弥)などで締めくくられたようだ(全部は見られなかった)。

この「盗撮」を巡ってはいくつかの想定できる議論がある。

被写体本人の意向を無視して映像/画像撮影、そしてそれらの取引が行なわれるということ自体は、当然非難されて然るべきかもしれない。これについては議論を単純化するために、いったん便宜的な前提としてもよい。

しかし、敢えて言うが、「女性の盗撮 = 悪」という、いかにも誰もが無条件的に不快を表し、「取り締まり」に賛同するというような分かりやすい文脈をもって「盗撮 = 悪」という図式が既成事実化されてしまって良いものなのだろうか? 筆者はここに非常に危うい「悪 = 取り締まり対象」という安易な法至上の論理を見出す。そもそも「本人の承諾を得て行なわれる撮影」というのは、どこまで実質的に可能なのであろうか? 

ちょっと考えてみても、たとえば、海岸で遊んでいる男女が互いにカメラで撮影するときに、背景に入ってくる無数の水着姿の「内輪でない人たち」をすべて画面から排除することは不可能である。それでは、彼らは撮影機器を持って海岸に来ること自体が許されないのか。そういうことではあるまい。もし「取り締まり」を徹底するなら、それをしなければ完全実施はできない。ということは、カメラの海岸への持ち込み自体は制限できないことになる。となれば「悪しき意図」をもった撮影と「良心的意図」をもった撮影の両者をどうやって区別する必要があるが、いかにしてそれは可能なのか? 服を着たまま海水浴場に入ってくる男性は、すべて「盗撮」目的なのか?

翻って、NHKの夜7時のニュースなどで挿入される「今の渋谷の映像」などは、いつカメラの前を横切るか分からないあのような不特定多数の人々に、いかにして「映像使用の許可」を得ることができるというのだろう(できやしないし、していない)。あれは、私に言わせれば公共のお金と電波を使った立派な「盗撮」である。あの時刻、あの場所にいてはならない事情をもった人が、あのカメラによって捉えられ、本人の承諾を得ずに全国に垂れ流されてトラブルになったというケースはないと言えるのだろうか? それは誰がどこにいようと自由であって、それを秘密にすることも自由であるという個人の持つ当然のプライヴァシー権の侵害ではないのか? 

あるいは、いわゆるジャーナリズム全般はどうなるのであろうか? 政治家と財界の癒着を暴くようなスクープ映像、あるいは戦場における軍の卑劣な行為を、いったいどの報道メディアが「本人の承諾」を得た上で撮影する(あるいは、しなければならない)というのだろう? もちろん、単なる下らないゴシップ記事を紹介して読者の覗き趣味を満足させるような下世話な「ジャーナリズム」もあろうが、政治スキャンダルというのは、一般の選挙権を持った人々に知らしむべき重大ニュースである。このような報道に、被写体になった本人の「肖像権」や「承諾権」というものが認められて良いはずがない。

筆者が断るまでもなく、「盗撮」というのは、ジャーナリストが確保していなければならない闘うための戦術のひとつである。しかるに、今朝の番組の意図は、「覗き」や「盗撮」はいけない、「だから取り締まりを強化せよ」という方向に安易な世論を誘導するものである。番組の意図は、「あらゆる盗撮の取り締まり」というような長期的視野まで持っていたのかどうかは分からない。だが、そのための布石にひとつなのではないかとまで「穿ちたくなる」ような内容であった。つまり、「正義の人代表」を誇らしげに演じる司会者や評論家やタレントたちが、その果てにある未来まで想像することなく、そうした悪しき布石を打っていくのである。

さて、法的に何らの権限も持たない海岸の屈強なセーフガードたちが自主的に行なっている「取り締まり」や「取り調べ」は、まさに「盗撮の取り締まり」が法的に可能になったときに警察などによって堂々と行なわれるであろう状況を先取りして象徴している。「盗撮」がバレた人は、強制的な同行を求められ、カメラを没収され、そのカメラに収められた映像の提供と破棄を求められる(番組で実写紹介された)。あの海岸で実際に盗撮をしていた連中でも気の弱い人たちは、大して抵抗らしい抵抗も見せず、逃げずに「取調室」に赴き、そこで強く求められるに応じて写真画像を提出する(これは本当にヤラセではないのか)。そして、「もう二度と致しませんから、今日は勘弁して下さい」と言って、その場を許してもらう訳だ。だが、カメラに収められている映像の提出を言下に断る人もいる。彼らは実際に盗撮をしていても、それが違法行為ではなくて、単なる「迷惑行為」に過ぎないことを承知しているから、絶対に自主的に提出などしない。

はたして「盗撮の被害やその深刻さ」を視聴者に訴える状況として、裸に近い男女が互いに視たり視られたりすることが前提である海水浴場という場が、そもそも適当なのであろうか? 彼らは互いに記念撮影したりはしないのだろうか? 当然多くのグループがしているはずである。これは所有者が決まっているプライヴェート・ビーチでもない公共の海水浴場における話である。そして、そもそも「視られる」ということに関して、肉眼でリアルタイムで視られることと、ファインダーやモニター画像を通して視られることと、彼ら水着を晒す若者達にとってどの程度の違いがあるというのであろうか?(不穏当な発言は承知だ)。もっと言えば、いったい、視る異性が誰一人としていない「女性専用車両」のような海水浴場があったとして、どれだけの若者がその海岸に魅力を感じるのであろうか?(もちろん、プライヴェートビーチにそういう類の「海岸」があったっていいのであるが。)確かに、これは「海水浴場で盗撮があり得るのか」という前提を問う議論になってしまうのは分かっている。

話が逸れた。

われわれは「盗撮取り締まり」の法律によって、当然持つべき自分たちを守るための方法や手段(権力の腐敗を監視したり知る権利)の放棄をしてはならない。われわれは、覗かれ取り締まられるばかりの「対象」ではない。我々は権力の乱用を監視する(覗く)側でもあり、そのための手段を維持しなければならない。それをくだらない「性的」画像の盗撮のために、権力者に売り渡してはならないのだ。女性の水着姿を盗撮させないための別の方策か、そのような事態が「ある程度は不可抗力である」ことを我々は知るべきなのである。