Archive for September 1st, 2005

「農耕は殺戮する」Returns!
今も残る山本七平の「民族論」の罪科

Thursday, September 1st, 2005

「日本人には農耕民族としての文化的背景があり、腰をおとした田植えの動作がリズムの基本となっており、欧米人は騎馬民族として、乗馬の動きがリズムの基本となっている」

これは『日本音楽療法学会誌』に掲載された「パーキンソン病患者の歩行障害に対する音楽療法の効果」という研究論文に出ていたという一文だそうだ。木下愛郎さんの楽しいブログに引用されていた。木下さんの名誉のために言っておくと、彼には他に語ることが沢山あるので、この稚拙な民族観に「鋭い突っ込み」こそ入れていないものの、「全面的には信じにく」いと断っていることは明記しておこう。

「日本人=農耕民族、欧米人=騎馬民族」という論議。「欧米人=遊牧民族」あるいはもっとひどいのだと「欧米人=狩猟採集民族」などなど、いろいろな混乱したバリエーションはあるものの、どれも大同小異に単純化された浅薄な民族観/歴史観である。というか、この手のことをすぐに口にする連中の「民族観」というのは、実にこの程度のものがほとんどである。しかも、それを疑問の余地のない前提として、自分の主張の強化を図ったつもりになっていて、いまだにあちこちに見出されるのだ。

「この問題」については、われわれの間では既に十年以上前から言い続けている言わば「古典」に属する議論で、今さらいちいち反論するまでもないはずの自明のことだった。決定的な論考として、盟友石川初の名文もある。

「日本人=農耕民族」を始めとする唾棄すべき単純な論法が、『日本人とユダヤ人』を書いた真性衒学者・山本七平あたりに起源があることを指摘し、その論理の浅薄さや山本の根拠とする聖書理解そのものを徹底的に批判した浅見定雄論文(『にせユダヤ人と日本人』)がある。これらにはほとんど付け加えることがあると思えないほどの広範かつ深い聖書への理解と洞察があり、相当多くの人がすでに引用している。だが、深く考えない連中はいつまでも「日本人は農耕民族だから…」という、とうの昔に相対化され無効になっているひどく単純な論法にしがみついて「何かを言ったつもり」になっている。そのすでに何の意味も有効性もない浅薄な根拠を基に、「自分たち:日本人」や「他者:欧米人」を理解したり説明した気になっている。今回引用したものも含めて「農耕民族としての日本人」を根拠にした論文などは枚挙に暇がない。そしてこれが日本の「アカデミズム」の程度である。だが、どんなアカデミックな装いをしても前提が間違っている以上、主張していること自体に大層価値のある内容があるとは思えないのである。

前出の石川のエッセイ『農耕は殺戮する』でもすでに述べられているが、およそ文明(都市文明)と呼ばれるに相応しいものは全て、農耕活動が基盤となっている。定住せずに土地を移動し続けるいわゆる「騎馬民族」や「遊牧民族」が、定住が条件である都市文明を築くことはない。都市文明の破壊者としてヨーロッパ史に登場する東方の「騎馬民族」などは確かに存在したが、彼らがそのまま都市に定住し、彼らヨーロッパ人を制圧し、その文明を継承したというような話もない*。

* チンギス・ハーンなどを初めとして、ユーラシア大陸を移動しながら都市文明を破壊したり「保護」したりした騎馬民族の例外的な隆盛というものは歴史上存在したが、彼らは文明の建設者であるというよりは、文明の僭奪者(横取りするもの)として、一瞬存在したのみだ。なぜなら、彼らが都市文明の頂点に君臨するという支配の雛形自体を異民族支配の方法として採用せず自分たちの移動式のライフスタイルというのを固持したからだ。だがこうした遊牧民の「文明」の存在は、「遊牧民族/騎馬民族としての欧米人」という論理を、何らサポートしない別史的な事実なのである。

また生産活動の高度な分業を要とする都市文明は、すべて<貨幣経済>を頼みの綱としており、その貨幣自体が農耕によって作り出された「余剰生産物」、すなわち自分たちが消費する以上の作物の生産と蓄積がまず発端としてあり、そしてその蓄積された物品の交換手段として登場したものであり、それらを保証し司る権力の集中などの出現なしにはあり得ないものであった。つまり、古今東西を問わず、文明(都市文明)と呼ばれるものは、すべて農耕と定住を生活の基盤とする生産者階級、そして第一次産業に従事しない都市生活者という分化された社会階級制度と、それらが緊密に組あわさった社会構造および法制度があって初めて成り立つものなのである。一方、移動する民族としての遊牧/騎馬民族たちは、移動が生活の基盤である以上、余剰生産物の蓄積ということが生活の中で採用できない。放牧に必要な草のあるところを目指して牧畜たちと移動し続けるしかなく、居住スタイルは基本的にテント式である。

地域によって、農耕や分業という経済制度の導入が歴史上どの時点で起こったのかという時間的な差異はあっても、現在のわれわれが断絶なく継承している文明活動としての農耕は、今からわずか3000年から6000年位前から、地球上のあらゆる場所で起こっていたダイナミックな流れであったのだ。その農耕化(文明化)の度合いや、農耕開始時期の差異によって、「農耕民」と「非農耕民」の悲劇的邂逅があった。当然、定住する農耕民は土地の所有が必要な訳で、人口を爆発的に増加させる農耕文明は、増えた人口を更に養うために、所有する土地の拡大が絶対に必須となる。一方、定住せずに移動を続けざるを得ない土地の所有の概念も計画生産もない「非農耕民」たちは、増加していく農耕民によって制圧される運命にあった。

遺跡などから発掘されるあらゆる文明の跡とは、こうした農耕が経済基盤として存在した都市文明の名残なのであって、西ヨーロッパが文明を築き始めた2000年前の時点で、一部の少数派を除いては、歴史の表舞台に登場する「記録する側」の人々は、すでに「狩猟採集」や「遊牧」などのフェイズはとうに脱却していた。むしろ生き残った遊牧や狩猟採集の生活を営む人々は、文明圏の外に暮らすいわゆる「低開発地域」の人々や、後からやって来た「殺戮し定住する」農耕民族たちによって迫害・殺戮され、土地を追われた「ネイティブ」の人々なのである。無論、日本列島で起こったことは、世界中に見られる迫害の対象としての「ネイティブ」の人々の上に起こったこと(卑近な例としてはアメリカ大陸、オーストラリアなど)と、大同小異であり、言わば歴史時代以降に起こったこととは「農耕」(特に稲作)をもたらす侵略者と、農耕という文明制度をまだ知らなかった狩猟採集の先住民たちの衝突であった。むろん、土地を耕すなどの生産手段をもたない、すなわち自然の供給する量以上の生産をしない狩猟採集民は、自然を可能な限りあるがままの状態として保存し、それとの共存こそが生きる道であり、おそらくほとんど定住することなく列島の隅々に散って移動しながら生活していたはずである。むろん、こうした非定住民に衝突したのは後からやって来た「農耕民」なのであり、侵略者たる農耕民族こそが「殺戮する側」なのである。

このあたりが旧約聖書の「カインとアベル」の逸話として残っていると考えることが出来る。計画生産する(未来を見通して土地を耕し種を蒔く)計画する「農耕民」と、その兄弟であるが農耕をしない(自然の与えるもので満足し、明日のことを思い煩わない)「非農耕民」との間の緊張関係として描かれている点で、すでに聖書時代にその宿命的対立の萌芽があったことを示している(これについては浅見のみならず、エリアーデによっても同様の指摘もある)。そして石川が指摘するように、神はカインの行なった農耕に対して「憂鬱」なのであった(神はアベルの供物を喜んだがカインの供物[農作物]を喜ばなかった)。そして、都市文明に属するわれわれは、すべからくカインに付けられた徴(原罪)を背負っているのであり、「決して負けることのない」農耕民、そしてその発展の終末期に差し掛かっているわれわれは、文字通り「カインの末裔」なのである。そしてカインに復讐するのは、アベルではない。それが出来るのは「神」(自然の摂理)のみである。つまり、自然から一方的に収奪したいだけ収奪する「農耕民族系」文明人たちは、最後の最後に、自分たちのやってきたことに対する報い(自然の大逆襲)を受けるのである。

もし、非定住民系の先住民が農耕民族と混血したのだとしたら(そして実際にした)、現在の日本人を果たして「農耕民族」と呼ぶことが出来るのであろうか。日本に都市文明を築いた我々の直近の祖先は確かに農耕をする人々であったかもしれない。だが、同時に農耕をもたらした大陸系の人々が馬をも日本列島にもたらしているのであるとすれば、祖先の一部は「騎馬民族」でもある。どちらも文明のもたらしたものと考えれば、農耕民族=騎馬民族でさえあるのだ。

したがって、日本人に遊牧民族の血が混じっていないことにも根拠がない。日本には稲作をもたらした民族の血も、馬をもたらした民族の血も、そして制圧された狩猟採集系の生き残りの血も、混じっていると考える方が自然なのである。

冒頭に引用したような文脈においては、「農耕 vs. 騎馬」という対立軸ではなく、同じ農耕を必要とした両文明において、どのような文化的な相違があるのかを論じた方がまだ有益である。例えば、日本人(そして広い東/東南アジア地域に分布する人々)の「稲作」に対して、欧州の「小麦作」という対立軸。日本の「田植え歌」に対して欧州の「農民歌」という対立軸のほうがまだましである。いずれにしても「日本の田植えのリズムに対して騎馬民族の馬のリズム」という対立軸というのはあまりにお粗末である。そもそも日本人の文化のひとつとも言うべき「海洋生活者」としての側面は無視しても良いものなのだろうか? あるいは山岳生活者としても。民謡として現在も残っているものは田植え歌ばかりではない。船頭歌もあれば、防人(軍人)歌もあっただろう。あらゆる雑多な業種を持った人々の集まりが日本人である。それは翻って「騎馬民族」と一方的に断じられてしまった欧米人にしても同様である。いったい、どれだけの欧米人が「乗馬」を文化として共有して来たというのだろうか? 一部の支配階級の人々だけではないのか? そして彼らは日本人が稲作を始めたより以前(もしくは同じ頃)から、一般庶民が乗馬をして来たと言う根拠でもあると言うのだろうか? 「騎馬民族」と呼ばれた欧米人はそのような言説を単なる悪ふざけ以上のものと受け取りはしないだろう。それがある学問領域において「アカデミックな論文」の体裁を以て発表され、しかも日本においては(あまりに馴染んでしまった価値観のためか)本質的な反論も起きない。

この「論文」を書いた人は、おそらく日本の音楽も欧米の音楽も、歴史も文化についてもほとんど不勉強だ。おそらく「日本人=農耕民族」という山本七平が流布し極度に単純化された言説を「不動の真理」として何の批評も加えずに、ただ受け入れて、それを持論の展開にお手軽に利用しているだけの話なのである。こうしたことを平気で論ずる人々に限って、「田植えのリズム」など、およそ自分の身体に染み込んでもいなければ、「内的な実感」を持っているのでもない。完全に稚拙な観念論であるに他ならないのである。

こうした文化的に(後天的に)伝えられ、社会的に発展されて来たものが、すぐに遺伝子(DNA)レベルで刻まれ、伝えられて来たものであるという考え方に結びつける人々の考えにも、疑問の余地がある(絶対にDNAレベルでないとは言い切れないが)。だが、ここではあまり風呂敷を広く拡げすぎない方が良いだろう。

「日本人には農耕民族としての文化的背景があり、腰をおとした田植えの動作がリズムの基本となっており、欧米人は騎馬民族として、乗馬の動きがリズムの基本となっている」だって…。もういい加減、このような歴史観や民族観を卒業しようではないか。