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韜晦の終わり #3(神秘思想の真相/深層)

Wednesday, September 14th, 2005

文字通りの意味で、「実に、有り難い」ぴかたれらさんとの対話の中で出て来た言葉:「元型(アーキタイプ)の表象について網羅的,博物誌的,収集的には語られているものの,それそのもの核(コア)は,ユングにしてさえ口が重くなり曖昧になる」という傾向、そしてそれは何故かということについて…

元型(祖型)が何を「起源」とするものなのか、という問いについては、当面、どう考えようと、それはどうでもいい。

象徴体系/神秘主義などについて語ろうとすると、ある種の「韜晦」がなぜ生じるのか、ということについて、「語ろうとする立ち場」から説明してみる。

ひとつには、どのような方法によってかは問わず、「識っていること」をただ話すだけなら簡単だが、その結論自体に「科学的根拠があるとは思われない」という理由で排除される可能性があるということが大きい。要するに「実験的に証明できるような正確な対象物がすでに失われて久しい」(リュック・ブノア)からである。一方で、「超心理現象から地球外生命まで」の類にすぐ飛びついて、「何でも信じてしまう」傾向の人々からも、それが「超心理的」なことではない、ということが納得してもらえない*し、そうした「信者」達によって、この分野が疑わしい似非科学であると混同して理解されてしまう怖れが、われわれを再び寡黙にさせるのである。

* 人によっては「荒唐無稽の程度の問題だ」と言うかもしれないが、人間以外の何か (something super natural) に原因を求めるその「神秘主義」は、起きたかもしれないまったく物質的・身体的レベルでの「途方もなさ」を信じるよりも、かえってそうしたSF的な「不思議」の方に一足飛びに心が奪われるようである。

そうした事情から、説明者は真面目に受け取ってもらいたいと願うあまり、エリアーデが試みた如く、「実験的に証明できるような正確な対象物」が無いにも関わらず、畢竟、「論理実証主義」的な方法を採らざるを得ず、そのために退屈なほどの長時間を要する迂遠な手続きを経なければならない。(しかも、不運なことにそのような「証明」につきあえるほど「現代人」はヒマではない。)

単に博物学的な資料の羅列なら、蒐集に掛ける努力は大変なものだろうが、博物学者にとって「説明」は比較的「気が楽」である。なぜなら、そこには収集提示することが目的となっているので、博物学的な資料として必要なデータを見せながら必要最低限の資料についての説明することが、「語ること」を意味するからだ。だが、全体としてはそれらが「何を表しているのか」、「何を意味をするのか」という「総合の要請」に答えなければならないとなると、一見荒唐無稽にしか思えないことに言い及ばなければならなくなる。

そして、総合的(包括的)な回答を示そうとするほど、それに掛かる時間と、それをそれとして理解するために必要な博物学的な知の量が結局、本質的な問題となる。ということは、「総合の要請」には応えたくとも、回答を受け取る側にもその答えを「受け入れる」ためには、発信者と同等かそれに近いだけの知の量が求められる訳である。従って、それを説得するプレンゼンターが自身で体験したのと同じ手続きで、パブリックが「それ」を追体験することは無理だろうことにも想像が至るので、やはり理解を得る事自体が無理だろうと諦めてしまう訳である。

だが、むしろ網羅主義的な「蒐集」というものが起こるのも、ある意味、むべなるかな、という面がある。何故なら、「まだ前提となり得ていないこと」を一般的原理として打ち建て(創造し)ようとすることなので、その方法は帰納法(事例の収集)を採らざるを得ず、総合を計ろうとするほどに、事例収集は徹底せざるを得なくなるからだ。だが、自分にとっては、蒐集は人に任せたい。私に言わせれば、「もう十分に揃っているよ」ということなのだ。だから、巨大な演繹法を使って、次なような結論を出さざるを得ないということなのだ。

それはもう前提となっているではないかと言われそうだが、私の言っている意味では、まだ十分に認定されるほどの前提となっていない。それは「文明は死ぬ」ということである。そのどこが、珍しいことなのかと言われそうだが、

大前提(一般的原理): 文明は死ぬ

小前提(事実): 「われわれの世界」は文明である

結論(個々の事情): 「われわれの世界」は死ぬ

ということである。そしてさらに言うと、

大前提(一般的原理): 死んだ文明は生き返る

小前提(事実): 「われわれの世界」は死に往く文明である

結論(個々の事情): 「われわれの世界」は死んでその後、生き返る

これだけ読めば、ある意味「自明」過ぎて、「神秘主義」とさえ呼べない話であろう。だが、ここで言う「文明」が、どういう意味の<文明>であるのかをここでは断っていない。たとえば「歴史は繰り返す」と言う時、どういうスケールの<歴史>を語っているのかをここでは明示していない。誰もが「知る」ように、私が断るまでもなく、文明や歴史には隆盛があり滅亡があった。「栄枯盛衰」「驕れるものは久しからず」などなど、言い古された言葉達がある。つまり、やや古い地層から発掘されるような意味で、あるいは古い歴史書や神話や伝書を紐解けば見つけられるという意味で、はたまた「実験的に証明できるような正確な対象物」を有する時代の範囲内で、「文明がかつてあった」「人類史は似たようなパターンの繰り返しである」というような、自明な意味での「歴史」や「文明」ではないからである、ここで語っていることは…。それは、それはエリアーデが高く評価していたというハシデウの「歴史に関する大胆な仮説」の中でも「さりげなく」使われている「超歴史的」という言葉が指し示すスケールのものである。

そうしたことを「鳥瞰する」体験、というものはある。過去が見えたためにありありと見えてしまう未来というものがある。それが如何にヴィヴィッドなものであれ、「歴史的に証明できる対象物」は失われて久しいのだ。そうしたときに、何を語るべきものとするのか。語るべきものを持った人間が、どのような言語によってそれを語るのか、それが大いなる問題となるのである。詩がもっと読まれた時代なら、少しは事情が違うかもしれない。映像表現というものを人間が持たなかった時代よりは、以前より有利な立場にあるという言い方もできる。しかし、たとえばタルコフスキーやキェシロフスキが、どのように多くの鑑賞者から捉えられているのかという現実を見れば、一体どれだけ、「詩が読まれた時代」より有利と言えるのであろうか? 私に言わせれば、それは「絶望」と呼ぶに相応しい状況である。

だが、「絶望」を絶望しているだけでは、ダメだという心を養生するすることを、この10年で覚えた。恐怖を畏敬という言葉で言い換えることを学んだ。そうして、『解読』を世に問うことにしたのだ。

それでも「酔った勢いで話す」みたいな状況は出てくる訳で、そこで暗示的に語られることは、おそらく第三者からしてみれば、「思わせぶりなだけ」の発言と思われて、ほとんどの場合終わったとしても、私は驚かない。どれだけ、あからさまな表現をしても、それでも分からないという人は必ずいるものなのだから。

韜晦の終わり #1(詩がわれわれに語るもの)

韜晦の終わり #2(これを、あれから区別する)