Archive for September 19th, 2005

その「名称」で何を分かったつもりなのか
「entee memo」のタイトル再考

Monday, September 19th, 2005

このblogは、entee memoと冠せられているものの、それは読む人によって、あるいはその取り上げるテーマについて切実な関わりを持っていると感じる読者氏によって、単なる「メモ」以上の何かであっておかしくない。少なくとも、自分が書いているこの様式が「メモ」以上の何かであるということはほとんど明瞭であろうと思っていた。人によってはそんなことには意に介さないだろうが、見ての通りの情熱も書くことに捧げている。

だが先日、ある友人訪問によっていくつかの「価値あるやり取り」が実現した。

私が自分のblogのタイトルを言及した際、彼は「メモね…、メモなんだ…」それを何度も繰り返し、彼の中で「何かがすっかり腑に落ちた」ようだった。多分、6回か7回、いやそれ以上その言葉を繰り返しただろう。

件の友人は、私の「entee memo」が「メモ(備忘録)」である(あるいは、「メモ」に過ぎない)ということを知り、したがってどうしてあのような書き方なのか、どうしてあのような「分かりにくい書き方」なのかということに「納得した」ようであった。あれが「メモの一種」であることは、そのタイトル「entee memo」から既に明らかだと思っていたが、それを今改めて確認し、「深く」納得したらしい。やはり「呼び名」が、彼にとってひとつの意味を持ってきたわけだ。

だが何をどのように納得したのか、というのが私にとって重大な関心ごとだ。「○○だから、なるほど、さもありなん」というのが、「納得する」「腑に落ちる」ということである。別の言い方をすれば「○○であるなら、何々が××であっても仕方がない(当然だ)」ということ。

今回は、「だから、なるほど、さもありなん」は、「enteeの文章は<メモ>だから、なるほど、あのような書き方であっても仕方がない」となる。「さも」とか「あの」のところには、「文章が読みにくい」「読者対象がいる感じがしない」「観念的である」などなどのことが代入できる訳である。これら上の評価については甘んじて受け取ろう。

だがなによりも、その納得の仕方の「腹の奥底」には、そのように腑に落ちることで、おそらく「それが自分には関係がない」「読むに値しない」ということに自分を納得させることにも成功したのだと私は解した。納得はしたとしても、しかし一体そのタイトル(呼び名)から彼は何を本当に理解したというのだろう。それはむしろ「理解しなくてよいもの」という風に彼が納得したのだという風にしか聞こえなかった。

おそらく彼にとっては、このような冗漫で過度に抽象的、そして忍耐を強いられる文章を読まないで済ませられるならそれに越したことはないのだが、いまや彼は「読む必要がない」という決定的な動機と理由を得たのだった。しかもそれはその文章の内容や題材によってエッセイひとつひとつ個別に判断するというよりは、その文章が「“メモ”という名前で呼ばれるものに過ぎない」というただ一点によって、友人の文章を読まなくても構わないと言う「免責」を得たのだった。

それが「メモね…、メモなんだ…」と6回も7回も繰り返し(納得し)たことだと思うのだ。

メモの実態(内容)がなんであるのかということ(それを掴むのは簡単なことではない)ではなくて、とりあえずその「呼び名」が何なのであるのかというのが解れば、納得できて、話はそこで終わってしまうのである。それが、名称や名前、そしてカテゴリーというものの持つ落とし穴でなくて何であろう? だから如何なる名前/カテゴリーというものも、ある特定の前提あっての単なる便宜以上の何ものでもない。したがってその全体を検討し直せば、いかに名称そのものは、その内容ほどの重要性を持たないのか、ということはもはや議論する必要さえない程、自明なことなのだ。

名前やカテゴリーが人の考えに境界を引くことにしか役立たないこのような典型的な例を見るにつけ、自分のカテゴリー不信というのはさらに高まるのである。だがこれが一般的な意識のレベルなのであろうか?

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というような、私に発せられた言葉への批判は横に置いておいて、実際問題、文章の内容が「entee memo」と呼ばれるのに相応しくないということは、それはそれで検討しようかな、などと思ったりもしている。だって、「メモなら読むに値しない」なんていうレベルの感想を抱く人がいるんだったら、そういう人のレベルにあわせるというのも「読んでもらう」ための戦略じゃないですか。やはりそれに変わるタイトルは「衒学のためのレクイエム」しかないかな(と、何度でも出て来るのである)。