Archive for September 22nd, 2005

“火花”を散らせ!──「金剛」への第一歩(続編)

Thursday, September 22nd, 2005

最初、頂いたコメントに対するレスポンスのつもりで書き始めたのですが、長い文章になってしまったので、独立した文章にして、今日の「memo」ということにします。

懸命に「論理実証主義」のフリして言語化へとほとんど不毛に見える虚しい努力に邁進する私が、わざと何も結論を付けずに書いているのに、その私から「より具体的な何か」を引き出そうという意図(魂胆)のある「餌」なんだなという感じがしますね(たはは…)。しかも与えられた「餌」には、だいたい飛びつくことにしています。エンターテイメントなんですよ。つまり、ゼミでは口が裂けても言えないが、ゼミの皆と打ち上げにいった時は「酔った勢いで」思ったことを何でも喋る、みたいな。だから、これは番外編。

ぴかさんが見せてくれた「形状」の定義からいうと、私の知るところによれば、反論ありましょうが、あれは「1. 機能が要請する形状」であったということになります。人間が作り出したものとは言え、一定の効果として必要な自然現象(火花を散らす)を繰り返し引き出すという目的に適うという点から言えば、いろいろな「プラグ」が試されたんでしょうけど、結局「あのような形状」に落ち着いたんじゃないでしょうか? そういう意味で言えば、「人間と関係のある」あるいは「人間の欲望と関係のある」自然の法則とも言えるんじゃないでしょうか。「人類がいる限り、遠い過去、遠い未来、地球上に人間がいるなら火花プラグは同じ形をしている」ことでしょう。したがって「「機能が要請する形状」はつきつめて言えば人間とは無関係の自然の法則の世界」というご指摘は、確かに自然界ではそうですが、人間界(人間の欲の世界)でもある程度当てはめられる訳ですよ。

そしてそのプラグがどのように働くものなのか、本当の意味で何の目的のものなのか、という「1. 機能が要請する形状」の本質部分の記憶は容易に失われるが、それがどのような「こと」と関係があったのかという事件については伝承される。そして「誰」が使ったものなのかという所有者(使用者)についての記憶もいつまでも残る。つまり、プラグを例に採れば、どうして火をおこせるのかというメカニズム(仕組み)については皆目分からないが、「どうやら火をおこすことに関係があったらしい」ということは伝承され、またどうやら武器や火器とも関係があり、その道具はインドラさんが持っていて、「敵を殲滅する」のに使われたという、所有者とその目的についての記憶が残っているということです。

ただ「1. 機能が要請する形状」の本質的意味が喪失すれば、今度は「2. 約束が要請する形状」として、そのものの持っている重要度に応じてその後の歴史を生き延びる。意味や仕組みに関しての理性による説明が不能になれば「発し手 - 受け手」あって初めて意味がある形状(徴/コード)ということになっていく。例えば、「元の形」がそもそも何を意味したのかが想像できないほど変形してしまっていても、「特定の意味」を持つものとしてその徴の運用者と読解者がいる限り、「約束が要請する形状」として伝わっていく。漢字などが良い例。もともとあった呪術的な意味合いなどはどんどん薄れていって、世俗にかろうじて関わりのある意味部分だけが生き残って一義的な意味は失われる。そして二義的三義的意味合いだけでその象徴が持続的に利用される。

つまり、「象徴の解明」とは漢字の元の形状やそのオリジナルの意味を研究する学(白川静氏がやってきたような)、に似た様なものということになります。

ここまでくれば「三鈷,五鈷は人類が不在でも機能上の意味のある形状なのでしょうか」という問いについて答えはもはや自明であり、もちろん「人類が不在なら意味はあるはずが無い」となります。つまり、漢字がそうであるように、現在のような「形式」をもつ生き物として人間がいなければ、漢字から何か読み取れるものも読み取る者も無くなる。最初から最後まで人類にしか関係がない。ここには神も仏も(異星人も!)いない、無慈悲なほど「形而下」の問題です。であるからこそ、逆説的ですが、「神秘」なわけです。

この辺りをもって、おそらくぴかさんは「金剛杵の解釈」を錯視図形と呼びたいところなのかもしれません。そうだとしてもむろん驚きませんが。ただ、「プラグ」の問題は、或る「より大きな全体的な絵」における各論に過ぎず、このことだけをもって解釈の真偽を云々しても始まらないのです。むしろこうした細かな一事を以て「より大きな題材」に到達するのではなくて、より大きな題材に対する認知(尋常ならざる認識)が先にあって、こうした各論的な象徴の解釈が後から可能になるわけです。

これはエリアーデの敬愛したハシデウの「歴史に関する大胆な仮説」の第3番において書かれているように、「聖なる現象の根源的な意義を把握することによって、われわれは歴史の解釈することができるようになる。なぜなら、その理解こそ解釈の過程全体を生み出し、導き、体系化する意味の「中心」を用意するものであるから」が暗示していることです。(わっかりにくい表現ですが…)これは、私が言い換えれば、「聖なる現象の根源的な意義(と歴史の秘密)を把握することによって、われわれは象徴的物品(のすべて)をドミノ式に解釈することができる」となるわけです。

「エンジンの点火プラグ」という極めて俗的な「人間の要請」に応えて出来上がった物品が、聖なる意味を持つという「聖俗の転倒*」は、この分野においてはまず一大前提でもあり、その辺りの論考はエリアーデのみならずリン・ホワイトの『機械と神: Machina ex Deo』でも「ダイナモ」を例にして取り上げられていますよね。もっとも俗なものが礼拝の対象になるんですよ。もちろん、人間が俗なるが故に成就する(してしまう)聖なる結末がある(脱聖化の果てに聖がある)ということですね。もちろん冷静な理性が考えれば考えるほどグロテスクなことですが。

* こうした「性質の転倒」ということでいうと、(他者を殺め)「攻撃をするための道具」が「自己を高め護身する何か」という風に一見意味が逆になっているとしか思えないケースもある。なんで武器が生命を守るということになるのかと一瞬思ったりするが、それは今でも軍事力(武力)については似たような根強い「信仰」がある。一方、最も弱いものが一番強いという逆説もある。

ただ自分の経験から言うと、点火プラグというのはその持ち運びやすい大きさ、摩耗しにくいデザイン、適度に複雑な構造、などなどで「ご神体」としては極めて好都合だというのは実感としてあります。幼少の頃、空き地に落ちていた古い点火プラグのいくつかは、近所の仲間同士で分け合って、しばらくは「聖なる武具」のような意味を持つ有り難いものとして秘密の場所に隠したりして大事にとってあった経験があります。大人が見て、それは単なるクルマの部品で、もう古くなって壊れているものだと言いましたが、われわれ子供にとってその聖なる価値は揺るぐことがなかった(それが雷を発生させるものだということも知らなかったのに)。いまでは、点火プラグのキーホルダー*というようなカーマニアにとってさえある種のステータスシンボルとしても機能している事情は理解できる。とにかく、「全体」にとって重要できわめてエッセンシャルな「部分」であり、しかも取り出し可能で携帯できるサイズである、ということです。まさかエンジンやダイナモが聖なるものであったとしてもそれを携帯して持ち歩くには重すぎますからね。

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*「脱俗化」された点火プラグ

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「脱聖化」された五鈷杵

「プラグ」の関連図象としては、「ダイナモ」の他に、東洋では「宝珠」「蓮のつぼみ」(国技館のタマネギ頭から)があり、イスラム圏のモスクのドームがあり、西洋世界では「パイナップル」「優勝カップ」「sevre」「ボーリング・ピン」バリエーションとしては「fleurs de lys」から「アザミ: thistle」の紋章まで、そして重要なものとしては家具や家具時計のトップに位置する「フィニアル: finial」などがあります。今後はその辺りもひとつひとつ図版を挙げて取り上げていこうと思っています。

なにしろ、こうなってくるとエリアーデもユングさえも具体的に言及していない領域になってきますから、そういう内容の言葉の開陳にぴかさんは立ち会っている訳ですよ(なんてまたentee一流の誇大妄想が出てしまった)。