Archive for November 18th, 2005

古きもの、ひそやかなるもの、ひかえ目なる存在者たちの上に幸あれ

Friday, November 18th, 2005

先に有りしものはまた後にあるべし 先に成りし事はまた後に成るべし 日の下には新しきものあらざるなり 見よ是は新しきものなりと指して言ふべき物あるや 其は我等の前にありし世々に既に久しくありたるものなり 己前(まへ)のものの事はこれを記憶(おぼゆ)ることなし 以後(のち)のものの事もまた後に出づるものこれをおぼゆることあらじ。

『伝道の書』 第一章: 9-11

いまこそわれわれはこの声高に叫ばれるべき価値ある言葉に一瞥を与えよ。

私たちは何か新しいものをつくりたいのだろうか?(この天の下で…) 予想不可能なまったく新奇なものを作り出すことがわれわれにとっての創造だというのだろうか? 理解にするのに時間が掛かり、退屈で辛抱を要する手続き、いずれは分かるかもしれないという自分自身の感性と作者への信頼と期待、そして、未知なものを理解しようとする努力の果てに、ついには得られる楽しみや喜びというものはないのだろうか? この問いは敢えて応えるまでもなくわれわれにとって自明なことである。

しかし、それでも退屈を理由にさまざまな表現や作品が、そして退屈で旧弊に見える伝統的作法、作品が否定されて来た。あるいは否定されずとも無視されてきた。

舞台表現における予想不可能性というのはひとつの刺激ではある。聴いた事のないもの、観た事のないドラマ、期待を裏切る驚くべきどんでん返し、などなど。

しかし、予想がつくということで作品の価値は損なわれるのだろうか? それはひとつの物差しではあり得ようが、それで全てが計れると言うならば、沢山の重要なものを見逃してしまう鑑賞態度であるというべきであろう。始まりらしい始まり、展開らしい展開、終わりらしい終わり。予定調和と嘲笑的に人は呼ぶだろう。しかし予定されているのは調和だけでもあるまい。予定された崩壊、予定された不協和、予定された死。それに抵抗して調和を求める事が表現の中からも諦められたとき、その予定された崩壊、不協和、死は、嗤う者たちの「予定」の通りに実現するであろう。落ちないこと。死なないこと。しがみついている美にこそ努力する甲斐というものがあるのだ。そしてそれでもやがて死は来る。抵抗してこそ死は美しい。不協和な時代に不協和なもの、これほど分かりやすい時代迎合的な創作態度をはたして哲学と呼ぶべきなのか?

有名なベートーヴェンの第5交響曲の隅から隅まで知り尽くした聴衆は、果たしてそれを舞台でまた再び聴くことに何の意味も価値もないのだろうか? 作曲された作品というものは、そうした反復を可能にするものであり、または反復に耐え得る作品を作ろうという作家の動機と気概、そして次なる挑戦者さえ掘り起こした。また録音技術というものも、反復的鑑賞を前提としたものであり、反復を人々が求めていることの明白な証でもある。

そして同じ刺激を受けて同じ場所で感動するという多くの人々の抱くかもしれない期待そのもの、そして期待に応えようとする<芸能者>や技術者の努力というものが、予想可能性によって全て否定されるのであろうか? われわれはそのようにはまったく思わない。どのような完成されたものであっても、あるいは即興的で未完成なものでも、そのどちらにも、予想できることと出来ないこと、というはそれぞれ必ずあるのだ。そして予想できないからダメなものもあれば、一方予想できても良いものが必ずあるのだ。そしてそれの刹那を見出し歓喜できる者は幸いである。

予想可能性によって判断できてしまうのであれば、世界中のあらゆる「歌」には価値がないことになる。あるいは民謡のようなものさえも。口ずさめるものは予想可能な範囲内である。好きな歌謡をもう一度聴きたいという気持ち、何度歌っても感動してしまう歌曲。こうしたものには価値がないとでも言うのだろうか?

多くの人々の期待や予想に反する「表現」を舞台で打ち立てても、それが刺激として有効なのは、最初の一回目だけだ。刺激性を価値とするならば、その価値はその一瞬存在できるだけだ。驚きと意外性だけを求めてそれをその価値とするならば、果てしない刺激への追求でその一生は終わるであろう。そういう人生があまた在ることを否定もしないが、その価値を肯定もしない。

始まって終わるまで優に1-2時間かかる作品がある。あるいは数えきれない反復と僅かな変化だけで出来上がっている作品がある。触れて一度で理解できないものがある。一方で最初から面白いが、長い観賞に堪えない物がある。それでも同じものに二度三度を触れていくにつれて自分にとって意味のあるものへと内的に変容していく作品というものがある。それは心の中で起こる変容だ。

日本人にとって身近なところでは能を思い返してみれば良い。一度で理解出来ない能に価値がないなどという乱暴な判断を下す者はいないだろう。そのような判断を下す者にはそれに相応しい人生がある。伝えられるべき価値のあるテーマ(題材)を扱うものである限り、それは沢山の伝統保持者によって伝承され、生き残って行くべき価値がある。問題はその価値や意味に気付くのが簡単でない、それだけのことだけだ。

簡単に理解できないという理由で、庭園にひっそりと置かれている石灯籠や仏閣やモスクの屋根の上に輝く宝珠を無価値だと誰が言うだろう。ひそやかにしつらえられたその茶室の生け花にその選択の理由がないなどと誰が言うだろう。その「言語」の伝達する意味が理解できないのは、あなた自身の問題なのであり、それに十分な関心を払って来なかった、目を見開いて来なかった、耳を開いてこなかったあなた自身の価値判断がそうさせているだけなのである。「退屈」を大いなる問題としたいあなた方にとって、新しいもの、「創造」という名で偽装された無意味への傾斜と、そうした不毛な努力の反復に「すでに献身してしまった」ことを認めたくないあなた方だけの「都合」がそうさせたのだ。

今の時代に理解されないことが、あるいは1時間で理解されないということが、あなたの行なうことの価値にいかなる影響を与えるだろう? われわれにとっての創造とは(あるいは創造的精神とは)、われわれに<創造>があり得ない、<創造>が可能なのは唯一の第一原因たる「最初の存在」「最初の出来事」だけであることを、畏敬を以て認識する、そうした精神の動きだけである。そして人間の唯一「創造的行為」と呼ばれても良いかもしれないことが伝えて来た、たったひとつのことは、暗い小さな「鍵穴」のようなもの、その「形状」の伝えるものだけだったということなのだ。

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