Archive for November 23rd, 2005

金剛への第一歩
集団的な「浄化」儀礼と<聖数>の伝えるもの
「元カレンダー」と第三周の世界

Wednesday, November 23rd, 2005

20051118-tiara1.jpg

イエス死人の中(うち)より甦へりてのち、弟子たちに現れ給ひし事、これにて三度なり。(ヨハネ伝福音書 二一章 14節)

(磔刑死後、復活したキリストが弟子たちの前に現れたときの記述)

■ 神秘的事実としての数性

「この度」が何度目の世界なのかは誰にも分からない。仮に「周期性」を受け入れている「偉大な宗教家」にしても、具体的にはローマカトリックの枢機卿たちにさえ、果たしてわれわれの世界というのが正確に一体何度目なのかを「科学的事実」として、証拠と供に示すことはできないだろう。「世界史」の反復が事実であった*としても、残念ながらそれはどこまで行っても「神秘的事実」でしかない。「かつての世界を透視した」と主張する一連のいわゆる「神秘家」でもなければ(あるいは…でさえも…だが)、そのことの現実の証明はユングであってもエリアーデであっても可能だとは思わなかったであろう。彼らに出来たこと(そして筆者に出来ること)でさえ、思わせぶりな事実や事物といった「facts」の例証提示の積み上げでしかない。そしてそれを一つの「真実: truth, veritas」として繋ぎあわせるのは洞察でしかない。しかし「繰り返している」という人類の超歴史的な周期性は、あらゆる徴の放つ名状し難い「言葉」を通して、あらゆる時代と空間を超えて「語られて」きた。そしてそれを「表現」するにあたって、当面、今回が何度目なのかというのを「決めておく」ことは、その「隠されたもの」について語るのに便宜上有用なのである。それ以上でも以下でもない。そして、その繰り返し表出するある種の「数性」(具体的「数字」)自体が、「何度繰り返されたのか分からないが、とにかく繰り返されたのだ」という神秘的事実を指す「コード:符丁」となった。

* 死して復活する救世主という存在が、実は「死と再生」を繰り返す世界そのものの象徴であるという理解は、秘儀参入者にとって新約聖書『解読』の基本である。だが、その事自体が聞き慣れない(受け入れ難い)言説であるかもしれない多くの読者にとっては、そのように読み取れることの根拠を求めるであろう。そしてそれは自然なことだ。だが、あらゆる病の治療をし死をも克服せんと努め、現世の苦から開放すべく現れた「油を注がれた主: Messiah」という存在が、現代技術文明そのものの達成しようとしている目的と「方法的な特徴」とに合致していること(リン・ホワイト『機械と神』参照)、そして科学や技術が「偶像」として崇拝の対象となってきているかの文明への信仰と信頼(同『機械と神』:発電機としてのダイナモが礼拝の対象となっている現代世界)。そしてこの「現代人としてのわれわれにとっての主」が、ゆくゆくはわれわれが永年夢見て来たごとく、われわれを永劫に現世の苦から「開放」する解決策をもたらす未来の「上昇し下降する光輝」となることが、ほとんど約束されているかに見える以上、その「救世主」の象徴的機能を、単にデタラメな解釈であると唾棄できるほど単純な議論でないことが分かるであろう。この世界至上権の覇者(王)の殺害とその復活(もしくは覇権奪取)というパターンは、エリアーデの論述に先立つこと『金枝編』を編んだフレーザー卿によっても指摘されており、「世界の王: The King of Kings」としての主イエス・キリストの殺害とその復活は、まさにそうした祖型的「父殺し」のパターンをそのまま引き継いでいるものであり、まったく神話史の例外ではないのである(バガヴァッド・ギーターを思い出せ)。新約聖書に書かれている「記述」は、まさにわれわれの歴史的パースペクティブの中で「最新の層」に属する、西欧世界においてもっとも身近な神話なのである。もちろん、これはその神話の成立を可能にした2000年前の「史実」を契機として発展した可能性もあり、歴史的実在としての「ナザレのイエス」を全面的に否定する論でもないのである。一方、現世の煩悩苦から「開放」を試みたゴータマ・シッダールタが、仏教世界においてその歴史的実在やその鋭利な哲学とはまったく別個に、アジアの各地でその「遺体」を納めたと言われるストゥーパ(仏舎利塔)の形で足跡を残し、ひとつの「文明」を表するコード(記号)となったこともここで想起すべきである。

この「符丁」は、脱聖化が進んだ今日の世界においても、いわゆることわざや金言の類として生き残っており、それらは個人または集団における神秘的な経験について納得できる「まじない」のような説明になっているのである。例えば、「二度あることは三度ある*」「三度目の正直**」などがそれである。

そのコードナンバーとは、ここまで来れば言うまでもなく、「三」である。「3」という数字に極めて高い聖性が込められていることは多くの人々が知るところである。そしてその「3」にこそ「永遠性」の強烈な含意がある。

■ 聖数と「元カレンダ」ー

1を3で割ったその数字は「0.3333333….」と3が永遠に連なる《循環小数である。3という数字の不可思議性と「永遠性」はこの辺りの事情によって背負わされた面もひとつにはあろうことが想像される。それはともかく、G・I・グルジェフが(彼の語るところが本当だとして)クムラン教団から伝授され、彼の「秘教的スクール」の生徒たちに教示したという「永遠のエニアグラム」にしてさえが、3の倍数と1を7で割った数字によって得られる循環数 (142857142857142857……)を原理としたものである。しかも興味深いことに後者は3, 6, 9の3つの数字(3の倍数)を含まない。それによってダイアルのように円周上に数字を割り振り、このようなエニアグラムを描くことが可能になる。これが「3の法則」「7の法則」として知られた秘儀であり、このエニアグラムによって数字の聖性が教示されたらしい。いずれにしても、この二つの数字「3」「7」は、とりわけユダヤ=キリスト教の秘教的伝統の世界においても「聖数」として共有されているのである。

グルジェフの紹介した「オクターブの法則」として知られているこのことは、正に「7」で繰り返される周期性、すなわち「8をもって1とする」という周期性の原理なのである。これについてはさまざまな迂遠な説明がグルジェフ本人、そしてその信奉者などの解説によっても成されているが、音楽的な音階を基礎に説明されるグルジェフの「オクターブの原理」は、実際の音階(ダイアトニックスケールという代表的西洋音階)、すなわち半音のインターヴァルを2つ含むわれわれの慣れ親しんだ1オクターブの実際とすっきり合致しているわけでもなく、その説明自体を真に受ける必要は余り感じられないのである。(これについてはコリン・ウィルソンによっても同様の指摘がある。)

20051113-ennea.gif

この二つの数字「3」「7」は、これから見て行くわれわれにとっての「元カレンダー」(暦)の中にもっとも露骨な形で顕示されるのである。

* disasters come in three // never two without a third // Why only two without three? などなど

** Third time does it. // Third time does the trick. // Third time is lucky. // Third time is the charm. などなど。

「元カレンダー」には一度言及しその一部を見てきたが、今回はこの「周期性」を検討する材料のひとつとしてそれをフルに提示する。便宜的に第4周(週)までを含んだが、われわれにとって問題になるのは、第3周までである。われわれは「六日間で世界創造をして七日目に休んだ」というユダヤの唯一神の生活祖型、および創造祖型をわれわれの生活規範として採用したのだが、その七日周期というものは西洋文化圏の中で、宗教行事やその他の習慣にも色濃く反映されているものである。このユダヤ教にその源流がありそうな七日周期を元に、「キリスト」が磔刑によって死に、三日目に甦ったという新約聖書上の逸話について若干の解釈をしていく。

  月  火  水  木  金   土

第1周      2  3  4  5  6   7

第2周      9 10 11 12 13  14

第3周   15 16 17 18 19 20  21

第4周   22 23 24 25 26 27  28

以下のことは「イエス」の歴史的実在を無条件的な前提としている話ではなくて、象徴存在としての意味しか持たないものとしても、それを検討することに十分な価値があるためである。

■ 「13日の金曜日」の意味すること

イエスが磔刑に遭い死亡したのが「13日の金曜日である」というのは伝承に過ぎず、その記述は聖書中にさえ直接は登場しない。ただしその当日「過ぎ越の祭り: Pesach, Passover」でユダヤ人達が忙しかったということから、それが過ぎ越の始まる当日の日没前の話だったことが分かっている。そして、過ぎ越祭の定義自体がNisan月(ユダヤ暦7月:現在の3-4月頃)の第14日のイブ(前日の日没後)ということになるので、現在のグレゴリオ暦とは関係がないものの、ひとつの月(陰暦)の13日目にあたることは聖書記述の解釈上矛盾がない。だが、現在われわれがそう認識している磔刑の「金曜日」については、「死して三日目に甦」ったのが日曜日であり、それがキリスト教信者にとっての聖日 (holy day)となっている現実を考えれば、やはり妥当である。そしてそれは今日、教会儀礼の「聖金曜日: Good Friday」となっている。

さて、現在のわれわれにとって分かりやすい元型的なカレンダーを想定することは今後の様々な説明のためにも有益である。そしてそれは第13日が金曜日となるカレンダーを想定すれば良いことである。そしてそれは当然のことながら、それは第一週の第一日が日曜日となるカレンダーということになる。これを「元カレンダー: Archetypal Calendar」と命名した。これによれば、13日の金曜日、日没前(おそらく日中*)は第二週の安息日(土曜日: サバト)の前日である。このカレンダーを基礎にその後の「キリスト」の動きを考えれば、彼が復活を果たしたのは15日の日曜日ということになる。そしてこの「15日の週」(第三週)がわれわれの住む世界ということになる。

* 十字架上で死が訪れた時、それは日中であるにもかかわらず「暗くなった」という記述があるため。おそらく日蝕が暗示されている。もちろんここには歴史的事実としてのイエスを想定する必要のない象徴的記述として受け取ってこそ諒解することのできる秘儀がある。

そしてこの日曜日はイースター: Easter Sundayとなる。以上の儀礼の流れは今日の太陽暦とはなんらの一致もないので、現実的な儀礼上の日にちは毎年変わる。したがって言うまでもなく聖金曜日が必ずしも「13日」になる訳ではない。しかし、このカレンダーを元に陰暦(月の満ち欠け)に当てはめれば、どのような「祖型的な時期」を反復的になぞるものなのかを理解することが容易になる。

そしてもし、キリストの死が世俗間における伝承の如く、「13日の金曜日」であると仮定すると、現在のわれわれがこの元カレンダーで示された歴史的時間の「どの地点」にいるのかを推量することさえ可能になる。ここでは詳述しないが、結論から言えば、世界の時間的な象徴群の指し示すところによれば、ほぼ「20日の金曜日」に近い(あるいはすでに20日の金曜日な)のである。われわれの世界は第三周の金曜日に差し掛かっていることになる。つまりここから「神々の安息日」は近い、つまりわれわれにとっての「休息」の到来は時間の問題である(末日)という論理が導引可能となる。

「歴史の終わり」をある程度正確に占うためには、その背景に《祖型と反復のパターンというものが存在することへの認識が前提となる。まったく反復のない直線的な時間しか存在しないと考える世界観の中には未来の予測も占いも成立しないのである。つまり末日的(終末・周末的)な預言というものには、こうした周期的時間という時間の反復的パターンに対する強い認識と自覚を伴っていると考えるべきなのである。

このように考えた時、この時代におよそあらゆる種類の新興宗教団体が登場し、終末論的トーンの予言が出てくるのは、ある程度まで「理にかなったこと」と言っても良い。彼らにはこうした「周期的時間」に対する強い認識がある。そして、その根拠は宗教によってそれぞれであろうが、その神秘性は、その根拠を部外者が包括的に理解することが困難であるからに外ならないのである。だが、ここで行っている一連の象徴解釈は、いくつかある鍵の中でも、それを可能にする「もうひとつの端緒: another one of clues」なのである。

■ 歴史の三層構造

また、この第三周にあたるという歴史の積み上げの三層構造の徴というのはローマカトリックを始めとして多くの宗教的な象徴図像の中に見出すことができ、またさまざまな現代美術の中にも見出すことができる。

ローマ法王のティアラの写真

20051118-Gregory-xvi-tiara-sm.jpg 20051118-pope18a.jpg

左:ローマ法王グレゴリー16世のティアラ 右:ティアラを冠るローマ法王ピウス12世

20051118-santa-sede_stemma.jpg

上:ローマ教皇庁の盾の紋章 (Court of Arm)。ティアラが正に主たる要素となっている。それほどの重要な意味を伝えるのが皇冠なのである。

この「三重冠」としても知られる「教皇冠」は、ラテン語で「トリレーヌム」、イタリア語で「トリレーニョ」と呼ばれ、宝石で装飾された三層構造の冠である。ビザンチン、あるいはペルシャに源流があり、今日の世界では「教皇制度の象徴」と考えられている。

The Papal Tiara, also known as the Triple Tiara, in Latin as the ‘Triregnum’, or in Italian as the ‘Triregno’,[1] is the three-tiered jewelled papal crown of Byzantine and Persian origin that is the symbol of the papacy.

つまり、「Tiara」の語源自体に数性《3の含意がある(イタリア語の「tertio」は「三番目の: third」の意)。

また、日本原子力研究所の高崎研究所にはTIARA (Takasaki Ion Accelerators for Advanced Radiation Application)という施設が設置してあることは特筆すべきである(原子力技術と数性《3》の関連性は、世界初の原子爆弾に付けられたコード名《Trinity》や、「三人よれば文殊の知恵」の「もんじゅ」を挙げるまでもなく、明白)。

高崎イオン照射研究施設のウェブサイト

新しいものでは、この三層構造、ないし「3の数性」を強く保ったものに日蓮上人の意を汲んだというある新興宗教団体の月刊出版物の名称がある。

20051123-civilization_phase.jpg

フランク・ザッパのアルバム「Civilization Phase III」

■ タローの三層構造

そしてもっとも元型的と呼ぶに相応しい「周期性」を反映した美術品(古文書)がタロー(タロット)である。これは愚者: The Foolの三週間に渡る「時間の旅」と、その間における注目すべき人物との「邂逅」「意識の成長」「建設」「破綻」などの時間的過程が描かれるのである。タローの中でも中核となる「メジャー(大)アルカナ」と呼ばれる22枚のセットは、まさにどのカードにも属さない元型的「ジョーカー」としての The Fool と、それを差し引いた21枚のカードによって成る。そしてこの21枚とは7の三倍、すなわち三週の時間経過を表すのである。それは下に示すようにまさに「元カレンダー」のように並べ直すことが可能である。

20051115-tarot_3weeks_b.jpg

↑クリックで画像拡大

ここにもそれぞれの週(周)における第六日(金曜日)にあたる箇所が、「死」(もしくは「聖婚」)との強い関連があることが明示されている。それは「赤」と「青」の死を賭した「聖婚」、「火」と「水」のぶつかり合い、「太陽」と「月」の合体、という最期的なイベントであるから、その結合こそは、偉大な者の婚姻(絶頂)、そして小さき者(われわれ)の無数の死なのである。「我等の死が神にとっての栄光である」という原理主義的な信仰も同じ根を持つ。

■ 「三度目の正直」としてのわれわれの世界

「茅の輪くぐり」が円相と3回繰り返される反復と関連があることはすでに言及済みである。ここには超歴史的文明が「3回繰り返した」と解釈されてもおかしくない徴がある。一方聖書に戻れば、冒頭に引用した「ヨハネによる福音書」の一節は、唐突に挿入される復活後のイエスに関する記述である。これは確かにイエスが復活後に弟子たちの前から姿を消してまた現れるのを三度繰り返したとも読める。だがもしそういう事ならば敢えて記述する意味がない。「復活して後、弟子たちの前に現れた」のをすでに三度繰り返していると解釈しなければ、そこには何らの深い意味を見出す事も出来ない。そしてそれは聖書のどこかで明瞭に言語化されなければならなかったのだ。無意味な記述など1行もない練られた末の「ヨハネ伝」であることを思い出さねばならない。

だが、その上で、真に問題なのは、その回数ではなく、繰り返されている歴史的祖型がある、という一点なのである。

20051123-the_end.jpg

「The End」石塚俊明(原画は渋谷のアピアにて観ることが出来る)