Archive for December 21st, 2005

“伝統”数秘学批判
──「公然と隠された数」と周回する数的祖型図像 [1]
序論(上)

Wednesday, December 21st, 2005

その秘密を解き明かすのに、母より得し十の指の他に、なにも要らぬ

『祈りの手』

数秘学 (numerology) というものについて、複雑に入り組んだ体系を持ったゲマトリアやカバラの理論を学習すること以外に理解可能ではないと考える向きがあれば、それは最初の大いなる錯誤である。しかもそれはきわめて狡猾に仕組まれた予定的な錯誤である。そして、そのような錯誤を期待している面があるのではないかと思わせるほど隠秘学(オカルト)というものは、全般的に過度な神秘主義と思わせぶりだが解き明かしうる筈のない韜晦と謎なぞに満ちている。

しかし、ここで証す内容は数秘学を始めとしたある種の隠秘学と緊密に関わっていながらも、それらのものに見出される過度の神秘化を排除して、誰にでも諒解できる形に明示していくことがひとつの目標である。

■ 序論

すっかり脱聖化されたかに見える今日の日常を生きる21世紀の人類にとって、次のようなことがどうして疑問となり得、それがまた解き明かし得るものであり、その解かれた謎が「これから通過しなければならない我々人類にとって『最大の出来事』を予知させるものとなる」と言えるのだろうか。そしてそれを誰かが真顔で語ったところで、一体どれだけの人がまともにその話を聞き、その結論を信じるだろうか。

・ なぜ、イエスは「十字架」上で死んだのか。

・ なぜ、イエスは他のふたりの「罪人」と供に3人で磔刑に処されたのか?

・ 三位一体とは何のことなのか

・ なぜ、聖母子像に描かれるマリアの額や肩には伝統的に輝ける星(八芒星)が描かれるのか。

以上のような「疑問」は、よほど宗教的な関心がなければ発せられることはなく、われわれのこれから取り上げようとする内容への一般の人々の関心を損なうか、「徴」の謎に関して誠実な関心を抱いている読者でさえ、かえって構える結果を導いてしまうかも知れない。われわれは神学論争を意図しているわけではないが、これから展開する論述がこうした論争にまで発展する要素さえ含んでいると断っておくのは適切であろう。今後の展開が、大いに西洋史の行く末を決めることになったキリスト教を始めとする「新・旧約聖書を基礎とした諸宗教」との双方向的な影響関係──しかもかなり緊密な関連──を持っている点を強調しておきたい。しかし、今日の世界において正当な理由を持った「宗教アレルギー」を自認する人でも、次のような「疑問」を持ったことならば少なからずあるに相違ない。

・ 誰が国旗のデザインを決めているのか。

・ われわれは何故「旗」の下で戦(いくさ)をするのか。

あるいは

・ 一体誰が、何の目的で、我々に「旗」を与えたのか。

これでもわれわれが読者の興味を喚起できないとすれば、そもそも人間の持っている象徴に対して全く無関心であるか、見る目を持ちつつも、世界が表出している「徴」そのものに何ら意義を見出さない種類の人間なのかも入れない。しかしだからと言って、そうした人々を非難しようなどともわれわれは毛頭考えてはいない。むしろその様な読者の新たな問題意識や関心を引き出すことができたら、それは小論の部分的成功であるとさえ考えるであろう。各論に少し踏み込んでみよう。

・ なぜ我々は星状五角形(五芒星)を我々の『星』だと考えるのか。

・ なぜ古代エジプトの時代を除く古美術品からは、こうした五芒星がほとんど見つからないのか。

・ なぜアメリカ合州国の国防総省は五角形(ペンタゴン)でなければならないのか。

・ なぜ日本は合衆国に『五弁の花びら』を持つサクラを送り、それが「ワシントンDCの春」を派手に飾り、観光名所となっているのか。

・ なぜクリスマスツリーの最上部には、星が輝いているのか。

何よりもわれわれにとって不思議なのは、これだけ様々な可視的な「証拠」がありながら、それを神的な「見えざる手」の神秘、もしくは陰謀(積極的な陰謀論肯定論者の方々にとっては考えにくいことではあろうが、それらが陰謀でなかったとして、そうした人類の不可思議な象徴主義)とも考えず、それらに注意を向けない事実である。

そう多くの人々がこうした疑問には答えられないだけでなく、まずそうしたことに疑問そのものを抱かないのである。みな総ては「そういうもの」だと無批判的に受け入れているからである。「芸術は長く人生は短い」ということが言われる。が、それは「人類の残してきた象徴体系の具現化は長いが、人生はそれを鳥瞰するに短すぎる」からである。最低でも2000年以上の年月に渡って刻まれてきた人類の象徴的足跡を把握するには70余年の人生では短すぎる、というのは果たして事実であろう。

しかしながら、この小論にて訴えたいことのひとつは、われわれの思いこみや世界のあり方について当たり前のように受け入れ、疑問さえ抱かない象徴的図像の中に世界の重大な運命に関する秘密が隠されているという点である。文字どおり、それらは表にありながら巧妙に隠されているのである。例えば、多くの人々が自国や近隣諸国、あるいは大事なつながりを持った国々の国旗を知っているが、どうしてそれらがそのようなデザインとなったのかという「本当の」理由は一般に知られていない。国旗がいつからその国の国旗になったのかという真相さえ知られていないものも多くあるに違いない。にも拘わらず、その国旗を見てそれを特定の国を表すシンボルであると人々が認識するという不思議をどのように説明したらよいのだろう。一般教養的説明によれば、フランスの三色旗の「青・白・赤」が「自由・平等・博愛」を意味しており、合州国の星条旗の13本の紅白の縞模様が独立戦争で戦った13植民地州を示している、というような理由になるのであるが、それらデザインの「真に意味するところ」をどれだけの人が知り得ようか。

われわれは地球上に国際的な陰謀組織が歴史を作っているとか、あらゆる象徴の存在の責任を彼らに帰すべきだというような結論を急ぐことはしない。しかし、「公然と隠された数」に関わる研究を進めるにつれて、世界の歴史的動向の重大な部分を決定できるような「特殊な立場」や「申し合わせ」が存在するのではないか、少なくとも象徴を体系化してそれを左右できる「専門家」の存在をある程度想定すべきではないかという考えに取り込まれそうになる。とりわけ、象徴そのものの顕現がいきおい明瞭になってくる近代以降(あるいは英国国教会設立以降、あるいはキング・ジェームス1世の登場以降)においては、ある一定の「専門家」たちの存在は、象徴作品の出現に関してとりわけ重要な役割を果たしていることを否定できないであろう。だが、それでも有史以前から既に続いている象徴図像に共有される約束事が、そうした「専門家」だけに占有されてきたものだと結論づけられる程、事情は単純ではない。

国旗等のシンボル決定に直接実行力を持っている不可視的な権力存在を『象徴主義的歴史主義者』と便宜的に呼ぶことにしよう。この象徴主義的歴史主義者たちは、世界に散らばる象徴体系を巧みに用いることで、全くもって異なる以下に示すような2つのことを試みたと言える。

ひとつは、われわれがこの小論を通じて扱っている国旗等の「可視的証拠」、すなわち象徴体系を残すことで、彼らの権威や「権力の集中的な実在」を世界にアピールすることをある程度まで可能にした。その言わば「闇の権力者」(彼ら支配者の構成員が全く民主的とは言えない方法で選ばれている以上、その様な呼び方は相応しいと言わねばならない)の存在が隠されたものであり、自己存在のあからさまな証拠が露見することを許さないということは注目されても良い。

第二点として、その他方には、自分たちの存在そのものが「根底から確認不能である」ことも望まない、といった厳然たる相矛盾した傾向も同時に存在する。つまり、彼らにはある特定者だけが秘かに確かめることの出来る伝達方法が必要であったと考えられるのである。確かにこれは大いなる逆説である。権威として自己の存在が認められることを試みると同時に、公的な存在確認の妨げを試みるのであるから。

この矛盾のため、巧妙な徴の顕現と隠蔽、そしてその隠された記号の解読法の「制限的な公開」が必要となった。しかし、この部分で彼らにとってさえ解決不能な課題が噴出することになった。

それは「どのような暗号であれ、解読不可能のものを作ることは出来ない」という理由のためである。さらには、逆説的であるが、暗号は読まれにくい事が前提であると同時に、ある制限的対象に向かっては特定のメッセージを伝えなければならない。したがって「完全に解読不能な暗号」は伝達手段として実用に供することができない。

暗号が暗号として機能するには、それを読むための確固たる約束や解読を可能とする鍵が必要とされるので、メッセージの送信者と受信者の間には、当然、暗黙、あるいはあらかじめ定められた「解読法」が存在していなければならない。こうした約束事というものは、決められた時点以降、永久に隠し通していくことができない。そうした暗号や象徴主義というものは、いずれ遅かれ早かれ、偶然ないしは第三者による「飽くなき探求」によって、いずれは解き明かされる運命にあるからである。

「暗号」といった呼び方の是非はともかくとしても、秘教的象徴は象徴という「通信手段」におけるいわば「開かれた秘密」である。それらは人目に触れるところに日常的に放置してある。しかし、「1.解き明かすのに困難なほど象徴体系が入り組んでいる」「2.象徴が解き明かされる事が可能な“暗号である”という『事実そのもの』が人に気付かれない」という事情のために、その様な「秘密」の存在は、結局のところ、その大半が認知されることさえなく、したがって解読可能の前提で重大なこととして取り組まれることさえまれなのである。

また、こうした「解読」作業は、権力者や為政者たちが歴史のコマを進めてしまった後に、遅ればせにその効力が諒解される場合が多いため、つねにエポックの一歩後をゆかざるを得ない不利が拭いきれない。象徴から諒解できることを他者に伝えることの困難とはここにもある。

だが象徴世界への深い包括的理解は、過去の想起する価値のあるエポックへの理解を深めるが、同時に未来についての洞察を可能にするのである。つまりそれを周囲に受け入れてもらえるかどうかは別問題であるが、世界や歴史を眺めるときの、自分自身のきわめてメタ=アナリティックな指標 (standard) を得ることになる。ハシデウ風に言えば、まさに「超歴史的秩序」の意味解釈を可能にする視点を手に入れることになるのである。

[2] 序論(中)