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時間の道筋に立つ道標の象徴

Friday, December 23rd, 2005

飛び石のように、時間の一本線の流れの上に共有される一定の性質の徴が道標のように置かれていることを想像しよう。それが自分の母語の文字のようなものであれば、すぐに意味を読み解くことが出来るが、もしそれが自分の観たことのない文字であったとすれば、何かを伝えようとしていることを直ちに諒解し、その道標のサインの中に何らかの解読可能な徴とその意味を探すであろう。

ここで仮に、その道標で伝達したい内容が単純な数字であるとしたらどうだろう。そしてもし、あなたがその情報の発信者であるとしよう。しかもそれを伝達する相手が、自分の生前の周囲の人々に対してではなく、遠い未来に生きる人々に伝えたい内容であったとしたら。当然それを読み解く人々がいかなる言語を使っているのかは、分からない。文字も言語も全く異なった人々にそれは到達するかもしれない。というより、そのような人々にこそ情報を到達させることがゴールであると想定しよう。

すると、その数字を表す記号は数を数えることの出来る人ならば、誰にでも解き明かし得る単純な形態を持ったものであろうことは想像に難くない。例えば、漢字がそうであるように、「1」という数性を表すものは1本の棒で表されるかもしれないし、「2」や「3」はそれぞれ2本、3本の棒で表記されるかもしれない。

そして実際にそのようにして来たのが、主要な秘教的象徴図像の数々なのである。

このように考えれば、問題は簡単である。形が数字を表すということを識り、それぞれの図像が具体的にどんな数性を保持しているのかを解くこと。そしてそれらが「数」であることが分かれば、今度はそれらが何を伝えようとしているものなのかを、総合的に理解することである。

数の象徴は、文字通り世界中にばら撒かれている。そしてそれらの「数性」とそれが歴史に出現した時間の辺りに見当をつけることである。想像できるように、この出現の時期は厳密なものではない。