Archive for February 20th, 2006

“伝統”数秘学批判
――「公然と隠された数」と周回する数的祖型図像 [6]
積み重ねられる数的祖型

Monday, February 20th, 2006

伝統数秘学批判:「公然」と隠された数と欧州中心的な「文明史」と象徴体系の指し示す内容について [7] “2”の時代(後半)に進む前に、一旦、重要な寄り道をする。これは今後展開されていく、各「数性」への論述理解に必要な前提を提供するものとして、欠かせないものであると考えるためである。

■ 積み重ねられる数的祖型

地上におけるわれわれの日常的な視点からは、「数字」で象徴される「週七日間」に相当する歴史区分というものは受け入れ難いものであろうし、“D day”とでも呼べるような劇的なエポックが歴史の動向に作用し、その出来事を境に世界の様相が一変してしまうというような歴史観を容易には受け入れ難いであろう。実際、そのように明快に主張してしまえば、相当の不正確は逃れ得ない。したがって、より正確を期する努力をここで一旦しておくことは意義無きことではない。

歴史の一般論として、確かにある特定の事件の起こった日が、歴史的に重要な一場面として記憶されることはあるだろうし、それがその後の世界の行き先を決める一大潮流を作るきっかけになることもあろう。だが、これも至極自明なことであるものの、実際の歴史の流れや転換というものは、一朝一夕に行なわれるものではない。

例えばフランス革命にしても、「新大陸」における植民地アメリカの大英帝国からの独立にしても、そのいずれもが一夜にして起こった訳ではない。新勢力は時間を掛けた周到な準備と繰り返される失敗の果てにその力を拡大し、運よければやがて覇権を握るのであり、衰亡していくひとつの勢力も一夜にして歴史から姿を消す訳でもない。

こう言うことが許されるなら、「“D day”とでも呼べるような劇的エポック」に、ある<徴>が最初の兆候として示されることはあり得、その後も視覚化されたその「兆候」がひとつの運動(movement) の旗印として機能し続けることがある、ということである。

本質的に、歴史の転換とは保守する側と変革する側の間の、幾世代にも渡っての闘争であり鬩ぎ合いである。最終的に変革を標榜する側が時代を塗り替え、塗り替えた方が今度は保守する側に回るというのが歴史の範型である。それは悠久の昔から変わらない。だが、保守する側が変革を進める側に簡単に支配権を譲る訳ではない以上、ふたつの勢力の拮抗する場面においては、象徴に関しても新旧勢力を表す二つのものが同時に存在することにある。あるいは「拮抗」そのものを表現する象徴がこの世に現れる。無論、拮抗する前段階でも、新勢力の出現の初期に、その勢力が旧勢力を置き換えるものであることを誇示するために、<徴>が先行して登場することがある。

大抵の場合はこうした<徴>はどこからともなく登場し、それが広く認知される頃にはそれがなぜそのような形になったのかということを、敢えて人々が問わないほどにすでに定着しているはずである。あるいは時代が下ってくると、特定の個人にある徴の誕生の責任が求められるようなケースもある。いずれの場合も、ある特定の「象徴」は、われわれの心理の隙間に忍び込み、元型的イメージとして居座るだろう。数的象徴が祖型(元型)の一種であるとすれば、それはあらかじめわれわれ人類が(あるいは欧州文化圏の人々が)共有している内的実感と一致するからなのであろう。

また、忘れてはならないのは、旧勢力が新勢力に支配権を譲ったとしても、旧世界が文字通り「滅亡」を意味する訳でない以上、旧勢力を象徴する<徴>自体は、新勢力が覇権を握った後でも温存される。つまり異なった時代を象徴する<徴の共存>が生じる。<徴>は、新しいものによって古いものが完全に上書きされるのではなく、新旧が共存するのである。したがってあくまでもここで問題なのは、こうした徴の現れる頻度であり、またその頻度の「ヤマ」がその<徴>の数性を反映するかのように、その数字の順序通りに登場してくるということに注目すべきである。そして新しい徴がいつ頃から疑問の対象とならず日常的な象徴物として現れるのか、という、あくまでも登場頻度の程度を中心に勘案する以外に無いのである。

一旦その徴自体の持つ厳密な文法、あるいは数的図像同士に存在する法則が掴めれば、その象徴の出現頻度のヤマ場は、あたかもそれが歴史の道沿いに立てられる道標(みちしるべ/マイルストーン)の様に、あるいは日本庭園における飛び石のように、時間軸上に、ほとんど「数学的」とも言うべき「ある一定の間隔」をおいて置かれているのが眼前にありありと見えてくるであろう。こうした時間認識がまさに「超歴史的視点の獲得」に等しいのである。それは多くの場合、効果的に示されたイニシエーション(ないしそれに準ずる体験)によってもたらされるが、その初期段階の認知によれば、それは、あたかも「神の見えざる手」が人間世界への「聖なる浸入」を図り、人類史に介入を果たすかのような様相を呈したものとして認識されるだろう。神的なもの(聖なるもの/大いなるもの)が実在するという確証として、そうした名状し難い体験が一定の神秘主義者にはもたらされてきた。だが本稿には、その<実在>が、この理由を以て「証明されたと」主張する目的を保持しない。ただ、こうした数性を保持した数的図像を通して祖先達が何かを後世に伝えようとしたこと、あるいは伝えることができると信じられたこと自体、文明自体の超歴史的回帰という前提なしにはあり得なかったということが、控え目に述べられるだけである。

人間の世界観は時代とともに塗り替えられていき、人類はそれぞれの属するパラダイムにおける支配的な世界観以外の仕方で世界を観ることが難しい。だが、象徴は容易に塗り替えられない。組織的なイコノクラズム(聖像破壊)が存在すれば別であるが。忘れてはならないこととしてもう一度繰り返せば、<普遍的題材>を扱う数的祖型群は、ひとつひとつその<徴>を歴史の上に「積み重ねていく」のであって、正確に言えば「塗り替える」訳ではない。歴史的エポックをきっかけに転換されて行く歴史の流れは、旧勢力に属する<徴>を視覚的な刻印として残したまま、新勢力の<徴>を歴史の書棚に新たに「加えていく」のである。そしてその数的祖型を反映する図像は「歴史の終わり」が近づくにつれ、その「全七巻」の徴を、全て今回の歴史の周回として「歴史の書棚」に揃えるであろう。むろん、「七日目」にはついに休息するわれわれが、その七巻目をそれとして目にすることは、おそらく無いのであるが…