Archive for March 1st, 2006

「あのう… 一応とりあえず、ポツダム宣言無視っていうことで、よろしかったですか」*

Wednesday, March 1st, 2006

* 「広島への原爆投下」のほんの十日前(7月26日あたり)、首相官邸内で行なわれたであろう「話し合い」のさなかに聞かれたとされるある秘書官の言葉(うそ)

盟友石川が、自身のblogで日本語の「過去形」の持つ「ソフト化効果」と呼びたくなる言語習慣について、極めて深い洞察を含んだ文章を書いていた。これは必読。『時空をバイパスする迂遠な表現としての「よろしかったですか」語』

まずは、基本的に書かれていることには感銘を受けた。うむうむ。

「よろしいですか」よりも「よろしかったですか」の方が語気としてはソフトな感じの印象を受けるのは何でだろうという素朴な疑問からおそらく出発して、こうに違いないという興味深い結論を導いているのだ。つまり、<< 間違いの発生の原因が相手にあることはお互いに了解していつつも、その「明言」を避け >>る意図のせいではないかというもの。例えば、ウェイターが「○○の注文でよろしかったですか」について、仮に「よろしいですか」と言ってしまうと、<< たったいまこの場に提出された注文内容について、注文主のあなた自身は了解しているか、という有責「確認」であるのに対して、「よろしかったですか」は、注文された内容の責任を、お客からいったん引き取 >>るというわけである。そこで石川はこう書く。

>> 「私はあなたの注文は○○であると理解したのだが、この解釈は妥当だったか?」という設問、責任が「わたしに移った」というポーズなんじゃないだろうか。

実際、「私はあなたの注文は○○であると理解したのだが、この解釈は妥当だったか?」の「解釈」には、とても深い洞察があると思える。とりあえずこの指摘こそが重要だと考えられる。そしていろいろなことがこのセオリーで説明できるようになるとさえ信じる。これは、「日本語には時制(tense)というものがなくて、あるのはaspect(形勢/相)だけだ」という日本語の言語構造論をおそらくサポートするものであるかもしれない(たぶん)。

ただ、最後の部分なんだけど(実はここの部分が拙論の要なんだけど)、これはボクに言わせると次のようになる。

“「私はあなたの注文は○○であると理解したのだが、この解釈は妥当だったか?」という設問という体裁を採りつつ、責任が「誰にもない」ということにしてしまいたい、いや「卑怯は全員で分担しましょう」というサインなんじゃないだろうか”

つまり私は今回あなたの過失を責めません。その代わり今度私が過失した時も責めないで下さい、というものかな。もし共犯関係ならお互いにお互いのせいにしないということにするという「申し合わせ」になる。

こういうのが「まちがって○○ちゃんの日誌がウチのカバンに入っていました」という日常レベルの会話の中で使われるのは構わないんだけど、国家の一大事や、家族の生存に関わるような状況でやられると、「オイお前、それってどーゆー意味だ? 自分の言葉に責任を持て、もっとちゃんとワケの分かったような言い方で説明しろ!」と言いたくなるだろうし、絶対言うね、オレは。

でも主語がなくても成立すると言われる日本語に付きものの特性、こう言ってはなんだが、敢えて言えば「卑怯の分担」という慣習を、日常的に子供の頃から当たり前のように身に付けさせられてきて、それによって「互いが守られている」という甘チャンの状況が、ビルの「耐震偽造」といった重大事について、狡猾にも「どこの誰にも責任がない」状態を業界全体で作り出したり、60数年前みたいに何となくコクミン全員で戦争に突入しちゃおうという空気が出来てもそれを批判できないようなことにもつながってくる、とボクは「突っ込み」を入れたくなる。被害者は誰に不満や改善の訴えをすれば良いのか分からない。そして大悪党をみすみす見逃す原因にもなる。そして権力者は血税の好き放題の浪費という支配権だけを獲得するくせに、政策の失敗の責任は取らないし、「敗戦」という「政策の最大級の失敗」にさえ、ホッカムリをする。そして弱者は泣き寝入りするしかないという、ほとんど政治家が政治家と呼ばれるに相応しくないような状況を許してきた。

われわれの社会では、兎角「努力目標になってます」みたいな表現も含めて、努力すべきなのが、御上のあなたなのか私なのか、それとも両方なのか、それを決めたのは誰なのか、その発話者自身なのか、それとも発話者はすでにどこぞで決まったことを単に報告するだけの代弁者に他ならないのか、その辺りがぼーんやりした表現になっていて、そんなものはあちらでもこちらでもあって、それはもうわれわれの民族的性癖そのものになっている。ここまで言うと、日本を「卑怯者の天国」たらしめ、支えているのは、そいつらの喋る言葉にこそ元凶があるんじゃないか、とまで思ってしまうのである。

英語がエラいなどという気はさらさらない。だが、たまたま英語にしなければならないような状況があると、日本語の弱点も狡猾さも一気に露呈されるというのは、翻訳する人間の日常で起こっている。「主語不明にて翻訳不能」(解釈なしには英語に出来ない)みたいになることがしばしばだ。そして主語を不明にしてあるのは、単にそれで成立するのが日本語だから、ではなくて、実はそうした日本語を成立せしめている日本人の(書き手の)心理にこそ本当の原因があるんじゃないかとさえ考えたくなる。そして、やはりそうした言葉の成立にはちゃんと理由があって、ある文章が場合によっては自分についてでもあり、他の場合においては相手についてでもあり、と、事後にどちらにも恣意的に解釈できるような「あそび」として確保してある。ま、裁判とかになった時に、強い者が自分の都合の良い解釈が出来るようになっているのが日本語だ、と穿った言い方も出来るような卑怯者の天国における状況に支持を与える「喋り」なのである。

そんな言い方して、「よろしかった」でしょうか?

『瘡蓋』聖痕異歎* ─ Scabies - Heretic Lamentation of Stigma

Wednesday, March 1st, 2006

PDF版を作成。

http://www.archivelago.com/Garden/Cloisters/2006/kasabuta-seikon-itan.pdf

* 異歎:「異端」と音は同じ。『歎異抄』が正統な「異端説批判」であるなら、それを 逆転させて「異歎」とする。「異歎」には「異なることを賛嘆・称揚しよう」という気 持ちを込めた。また受難に対して、大多数とは異なる意味の嘆き(Lamentation) が存在 することを主張する意図も反映する。そしてそれ自体が所詮は「異端」に過ぎないだろ うと自嘲を込めた造語。