Archive for June 5th, 2006

古代思想家による「生命の神秘」への一瞥
ペイゲルス著『ナグ・ハマディ写本』を読む [2]

Monday, June 5th, 2006

霊が身体のゆえに生じたのなら、それは奇蹟の奇蹟である。実際私は、いかにしてこの大いなる富(霊)がこの貧困(身体)のなかに住まったかを不思議に思う。エレーヌ・ペイゲルス著『ナグ・ハマディ写本 初期キリスト教の正統と異端』(page 72) 荒井献・湯本和子 訳(白水社)

これは、“グノーシス派福音書”として知られるいわゆる「ナグ・ハマディ写本」のひとつ『トマス福音書』の中でイエスが語ったという一節である。

本稿において、これを誰が喋ったのかという問題はこの際それほどに重要なことではない(クリスチャンにとっては重要だろうが)。だがこの短いふたつのセンテンスからなるノーション(意見・言説)は、高い完成度をたたえており、そのシンプルさと美しさを通して、名状し難い生命観を表出させていると、われわれは視る。

生命が単に肉体機械のアクションとリアクションの連鎖であるという言い方で説明・納得できると考える唯物論的な生命観ではなく、生命活動を支えるものが肉体を超えた何か精神的な(不可視の)存在を本質的前提としているのであって、それは「身体に宿っている」ものではあっても、精神活動そのものがすべて“肉体機械”の作り出す自動的な結果ではないということを確信を持って断定しているのである。筆者がこの断定に強く共感していると言えば、驚かれる向きもあるかもしれないが、それは「霊的活動」としての人類の生命活動を、この地上を生きる人類にとって、第一義的な重要さを持って捉えることを普段からあえて棚上げしているからに過ぎない。「霊的」という言葉を避けるのはあくまでも修辞上の便宜として有利であると思えないからに他ならない。

控え目に言って、「人間存在が精神と肉体が結びついたものである」ことを否定しないにしても、精神が肉体の作り出した単なる幻影だという考え方には共感できないというのが正直なところだからである(だって、それが百歩譲って「幻影」だとして、その「幻影」を視ている主体は誰なのかというのが一向に解決されない*ではないか)。したがって、「霊が身体のゆえに生じたのなら、それは奇跡としか言いようがない」という『トマス福音書』に見出せる著者の皮肉なトーンを筆者は深く理解できる。

* 自己を保存しようとする最も単純な構造を持つ生物でさえ、それが生存を望む最も原始的なエゴ(精神)さえも、何故そのような動機を獲得したのかというのは、いくらその仕組みを精緻に解明したところで説明は不可能である。物質と精神がそれぞれ全く別の由来を持つとしか説明のつかないところである。

「霊」と「精神」が、あるいは「精神」と「魂」が等しいものであるというような「とりあえずの大雑把な前提」については、本格的な霊学論者や神秘主義者からは反論もあろう。だが、便宜的に肉体や身体というものに対立する(あるいは対立せずとも性質的に異質であるという)概念としての、あるいは「身体で捉え難い不可視の(事物を捉える)実在」としてのエネルギー的実存の《核》を認定し、とりあえずそれを「霊的/精神的」と置き換えておくことは、議論の便宜上、許されるであろう。以上の単純化はあくまでも議論を不要に複雑にしないための方便である。

さて、「富(霊)がこの貧困(身体)のなかに住まった」という言い方には、今日の最先端の自然科学の専門家にとっては反論の余地が見出される部分かもしれない。「身体が貧困である」という言い方自体が、精妙な身体の仕組みについて現在われわれが識っているようなレベルで解明されていなかった古代の哲学に他ならないと言ってしまえば、それそれで理解の可能なことではあるからだ。だが、いかに「身体の精妙」についてわれわれがかつての思想家より多くを識っているにしても、それをもって霊的な富(精神活動)が、身体の作り出す自動的な作用: action と反作用: reaction の現出に他ならないとするのは、不可視の世界に対するわれわれの無知に他ならない可能性が依然としてある。それを「霊的」と呼ばなければならない必然性を筆者は認めないが、何か精神的な実在というのが、身体(肉体)の作り出す結果であると容易には認めないだけの自覚はある。

個々人の精神活動の深度や広さといった有り様が、個々の身体的特徴によって限定(決定)されているかに見えること自体は、一定の範囲で認めても良いことである。だがそれを以て身体的特徴とされる目に見える部分がむしろ先にあって、精神活動がそれの影響を受けているとだけ解釈すれば事足れりとするのも、十分ではない。なぜ身体が原因 (cause) で精神が結果 (effect) と断定できるのか? それとは逆に、身体的特徴とされる部分こそ、肉体にあらかじめ宿っている精神的実在の、むしろ反映(表出/表現)であると言って言えない訳でもないからである。つまり、どちらが原因でどちらが結果かということについては、われわれの議論は憶測の域を出ない「鶏が先か、卵が先か」の性質を乗り越えられないからである。それらの発生は同時であったのかもしれない。

「精神と肉体の二元論」というような心身の捉え方のアプローチ自体が、旧弊な議論の前提でしかないことは認めよう。だが、少なくとも、人類の行為が身体的機能によってすべて説明可能であるというような、今日再び脚光を浴びつつあるいわば「唯身体論」的な思想は、新手の唯物論的世界観を受け継ぐものでしかない、というのにわれわれは自覚的であらねばならない。だが、これはいずれ詳しく言及するかもしれないが、この二者を分けて考える便宜というのも、故なく出てきた訳でもない。

全く異なる由来を持った二つの実在の出会うところ、すなわち精神と肉体が相互に宿っている場所、というのが、生命存在の本質なのではないかということにわれわれの結論は逢着するのである。そしてそのように考えることで、さまざまな今日的課題や形而上学的な設問に正しく接近する前提を確保することになると考えるのである。

それは如何にAI(人工知能)と言うべき技術分野が発展し、今の科学技術によって成し遂げられないようなレベルの、遥かに複雑な応力と反応力の連鎖の系を、将来、機械によって創造可能になったとしても、それは決してわれわれが「生命」と呼べるような精神の活動を、それ自体が自覚し得ないだろうということを意味する。自動機械は、どこまで行っても生命を「吹き込まれたもの」ではあり得ないからである。反応はあくまでも自動的であり、そこには何らの自己観察(自覚/精神的主体)を要しない。われわれは、おそらく生命活動の神秘的な力(細胞や卵など)を直接借用することなしには、たったひとつの単純な生命さえも人工的に作り出すことは出来ないであろう。つまりわれわれの歴史は機械的身体のゆえに、それに「精神」が自然発生するというような「奇蹟の(中の)奇蹟」を科学技術によって実現することは、できずに終わるはずなのである(希望的ではあるものの)。

それがいずれできると主張し、その実現を信じられる貧困なる「精神」を、われわれは「幻影」と呼ぶのであり、われわれは到底それを《精神》と呼ぶことはできないであろう。そしてそれを追求する人類は、取り返しのつかない過ちのための礎石を、もうひとつ余分に地面に穿つであろう。