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イエスとマグダラの「婚姻」の意味するところ

Tuesday, July 4th, 2006

何度でも繰り返すが、われわれにとって重要なのは、福音書の史実として裏付けられる側面ではない。聖書考古学上、それが重要なのは理解できる。だがわれわれにとって福音書の価値とは、その象徴的価値に外ならない。これについてはすでに何度か記している。

> 流行ったものは廃れてしまう(栄枯盛衰のことわり)

> 宗教の「第三の機能」への一瞥

史実としてどうなのかはともかくとして、「イエスとマグダラのマリアが結婚していた」というのは、象徴的には正しい。だがもっと正確には「偽キリストとマグダラのマリアは現在まで結婚(ずっと)している」となる。史実としてのイエスはおそらく(希望的には)磔刑に遭って死んだ。(もっと言えば、刑死していても良いし、はたまたそんな「史実」が無くても良い。)

そもそも福音書にあるような、「復活したイエスがマグダラのマリアの前に現れた」という記述は象徴的に理解可能である。だが、ここで忘れてはならないのは、真性のキリストは、マグダラのマリアに「余に触れるな」と言って退けている点だ。これは「マグダラのマリア」というコードが、日曜日に客を取る「地上的“教会”」の象徴であることを裏付けている。復活したイエスは“教会”を退けなければならない。そして(象徴的)キリストは実際に復活したにもかかわらず、「天に昇った」と短く記されているばかりである。これは復活後のイエスがあまり記述されないことの理由としても有用だろうが、象徴的存在となったイエスを、現実的(史実的)ドラマとして詳述することがナンセンスだからである。

“教会”を退けなければならないイエスは、象徴的事実としてのイエスと倫理的志向性としてのイエスという二つの意味合いの両方をほぼ半々の濃度で兼ね備えている。だが、聖典の中の「教義」としてのイエスは「余に触れるな」と倫理的警告を与えることをかろうじて行うが、地上的“教会”成立後のイエスは、象徴的事実という秘教的な意味合いを担わされて行くことになる。

一方、このたびのさまざまな研究や憶測に因って、生き延びた(ということになりつつある)「イエス」は、結局マグダラのマリアと婚姻し、「子孫」さえも世に遺したという。これは現在、史実として理解しようということが眼目になっているようだが、これは地上の“教会”(カトリック)を作るということの意味だ。これこそ、偽キリストとしての“イエス”を証すための新たな象徴的記述として理解することができる。そしてそれは今でも生き延びているのである。いや、生き延びているとされたことによって新たな象徴性を獲得するのである。

「イエスの血脈」(の実在)というのは、象徴的な意味で、確かに現在も「教会の中で生き延びて」いる。これは現在世をにぎわしているスキャンダラスな「学説」の登場を待たずしても了解されていたことだ。キリストについての記述の変容こそ、そのキリスト性の詐称を意味しているのであり、彼ら“教会”こそが、それを標榜するキリストのアンチテーゼ(反キリスト)自体であることを意味する*。これは、教会がキリストの史実的存在を伝える伝統の保持者であると同時に、彼らが敵と考えてきた《反キリスト》そのものであることの象徴的表現なのである。

* 『「キリスト」と「反キリスト」への一瞥』の中の原註を見よ