Archive for May 22nd, 2007

ジャーナリストDの死

Tuesday, May 22nd, 2007

【あるフィクション】

ある夜、一人のジャーナリストDが戒厳令下で知られる取材先のC市(E国)で殺害されたとの報道があった。

才気煥発な彼女は、その豊かな体験と感受性、そして鋭い批判精神とで独自の取材チャンネルを切り開き、ようやく国際政治の取材と報道の世界で成功しつつあった。不定期に取材先の世界各地から配信される「国際政治の裏の裏」というメルマガも5万人に迫るいきおいで購読者数を獲得しつつあった。複数の新聞や雑誌でも彼女の活躍について特集が組まれるなど、年齢的にも中堅の、知る人ぞ知る独立系ジャーナリストなのであった。

この悲劇的事件に対し、彼女が記事を書いていた新聞社と新聞協会はさっそく彼女の殺害が「民主主義とジャーナリズムに対する攻撃である」との声明を出した。報道と表現の自由に対するE国の隠然たる圧力の存在はすでに知られていたし、日本の「宗主国」のマスコミも次第にそうした論陣を張り始めていたこともあった。その声明は政治的メッセージとしてはタイムリーであったこととも相まって、ジャーナリストを殺害する卑劣を批判する選択には妥当性の面でまったく問題があるように思えなかった。

一方、彼女は女性活動家としての顔を持っていた。彼女が関わりを持っていた女性の人権活動で急進的なキャンペーンと運動を繰り広げていた某団体は、「この事件は全女性に対する挑戦であり、女性の発言を封じるための明らかなメッセージである」と受け取った。その考えを大いに反映した特集記事も、大手誌で代わる代わる掲載された。そしてそれなりに大きな反響をもってこれらの記事は受け取られたのであった。この団体は、Dが若い頃、そもそもジャーナリストになるきっかけを作ったほどの深い関わりを持っていたのだ。

また彼女は、イスラエルで行われているパレスチナ人への仮借なき弾圧の政策を受けて、世界中で盛り上がりつつあった「新・反ユダヤ主義」に関して、「国家としてのイスラエル」から「民族としてのユダヤ」(そしてユダヤ人として生まれた個人)はすべて区別して捉えるべきだ、という国家と個人の分離論を舌鋒鋭く主張した。そして再び各地で巻き起こりつつあった「反ユダヤ政策」や差別に断固反対する立場をとっていたことでも知られていた。そのため、彼女への銃撃はユダヤ民族に対する「間接的攻撃」であると考える平和活動家やユダヤ人活動家もいたのであった。現にイスラエルで、ある新聞の一面を大胆に使用した意見広告の形で、彼女の死に対する哀悼の意が表されたのであった。

だが何よりも彼女は日本国のパスポートを持つ「日本人」であったし、かつて紛争地帯で日本人の「迷惑行為」によって、若者の旅行者が誘拐された上、殺害されたときにおこった国内での悪名高き個人攻撃(バッシング)と「自己責任論」が、世界の平均的なジャーナリストの間で非難を浴びたこともあり、彼女の死に対し、このたび日本政府は正式に「怒りの態度」を以て迎えることにしたのだった。そして彼女を保護すべき義務を負っていたはずの受け入れ国のE国大使に対し、正式に抗議を行った。これは日本政府の行った「国権の発動」としては、初めて「まともな」対応であるとして、国内の左派評論家からも高い評価さえされることとなった。

忘れてはならないのは、彼女が実は元・在日朝鮮人であったことを知る一部の左派識者たちのなかに、彼女を襲い胸を貫いた銃弾には、実は在日に対する怨嗟の間接的連鎖があったと論評する者が現れた。なぜなら、彼女にはどうやらその特殊な民族的な背景のために、国内において取材を制限されたり妨害を受けた過去があり、そのために国内での取材基盤を失い海外に活動拠点を見出さざるを得なかったというのだ。彼女は名前を日本人名に改姓したうえで日本国籍を取ったにも関わらず、それが単なる表層上のスタンドプレイであり、その中身は結局根っからの「半島人」であることに変わらない、という揶揄もネット右翼から断続的なされていたことが一部では知られていた。また、外務省のマル秘の文書として、彼女の名前が「危険思想」を持った在日活動家としてのブラックリストにも載っており、そもそも「日本国政府としてはDさんを保護する気などさらさらなかった」と多くの仲間が感じていたのである。つまり彼女の日本国外における殺害には日本国内における人権侵害も絡んでいると真面目に考える人たちがいたのである。

皮肉なことに、彼女がある仏教系の新興宗教団体に属する熱心な信者であったことも知られていて、ニューエージ系の若者たちからは時折彼女が寄稿する神秘体験のレポートが人気を博していて、いわば「その方面」でも彼女はカリスマ性を発揮していた。実際、この事件のほとぼりが冷めた頃、思い出したように、彼女の殺害は、自分たち宗教団体への攻撃として受け取らざるを得なかったと、この宗教団体が「非公式に」だが、団体関連の月刊誌を通してコメントしたのであった。

ところが、取材先で彼女を知る者たちが口を揃えて主張するのは、彼女が取材中に親しくなったあるイスラム教徒の青年実業家との親密な関係であり、実は以前取材中に知り合ったキリスト教の原理主義の傾向のあった元ボーイフレンドが、警察をそそのかして彼女を撃たせたのだというまことしやかな噂も現地では広がったのであった。イスラム教徒にとってはこれはイスラム教への攻撃であった。

つまり、彼女と関わったあらゆる組織、団体、職業領域、教団などは、それぞれに彼女を襲った銃弾が、自分たちへの攻撃であったとまじめに解釈したのであった。すなわち彼女への攻撃は、ジャーナリズムへの挑戦であり、女性への変わらぬ差別意識のもたらしたものであり、ユダヤ民族への攻撃であり、日本国への攻撃であり、在日朝鮮人に対する偏見であり、新興宗教への不当な警戒心であり、はたまたイスラム教への攻撃であったのだった。

彼女の死は、関わりのあったどの組織、どの団体、どの職業領域、どの教団においても象徴的な意味を持つことになった。そして受け取る人間の数だけ彼女の死には「意味」があり、どれにも共通なのは、「Dという個人を集団や組織との同一視すること」を解釈の基礎としていることだった。そして彼女Dという個人を個人として捉えることをしようとはしなかった。Dへの攻撃は、個人に襲いかかった単なる事故であり、無意味で、不条理な「不運」とは、誰も思いたくなかったのだ。

だが真相はこうである。

彼女は大変な愛煙家であって、灯火管制を敷かれた戒厳令下のC市で、夜間ちょっと涼もうと思ったのか、うかつにも宿泊先の安ホテルの玄関から外に出て、そこでタバコに火を付けたところを若い狙撃手に射殺されたのだった。どうも彼女はE国で禁止されていた密輸品のお酒も「嗜(たしな)んで」いたらしく、それが本当だとすればどうやらDの状況判断は甘くなっていたのであった。事実、彼女の遺体の血液からはその酩酊状態が伺えるほどのアルコールも検出された。部屋には荒らされた形跡も盗まれたものもなく、書き掛けの原稿、数本のビールの空き瓶と飲みかけのウォッカの瓶が見つかっただけだった。彼女を狙撃した見回りの若い歩哨は、彼女が何者であり何人(なにじん)であったかの確認までは、彼の立ち位置と距離からはできなかったし、ましてやDが「女であることなどカミサマも知る由がなかった」(と彼は言ったのだった)。つまり彼女の選択的な殺害は全く意図していなかったのであった。

運悪くこの日は、多くの政治犯が収監されているC市郊外の刑務所から数名の囚人が脱走し、市内に入り、彼らが合流したと想像される組織からものと思われる、首相暗殺を予告する挑戦状が官邸に送付されていたことがあり、街じゅうにいる警察機構は非常な緊張状態にあったということであった。だが、そのような本当のことは、エロ漫画が満載されているようなタブロイド判のスポーツ新聞以外は報道しなかったので、真面目な一流新聞を読んでその内容を信じる紳士淑女たちには知る由もなかった。

そうした今回の過熱した報道合戦が起こる数週間前に日本で起こった事件。あるステーキレストラン「ペッペル・ランチョン」の店長以下数人が婦女暴行容疑で捕まったために、そのレストラン・チェーンにまったく客が来なくなり倒産間近で外資によって買い叩かれそうだというニュースが広まったのだった。だが、そんな小さなニュースを吹き飛ばしてしまうほど、このひとりの女性ジャーナリストの死のニュースで持ちきりになったので、この二つの事件の深層に、「個人を組織と同一視する」という人間の「心理的傾向」と、社会的動物としての「心の限界」について、あえて思い返す人はいなかったのである。

(完)