イエスの墓がどうかしたか?
Sunday, June 17th, 2007[イエスの墓]「発見」論争熱い欧米 エルサレムは冷ややか
すぐにリンクが切れるだろうから画像をに。
宗教の教示した神秘や驚愕的価値はこんなところにはないぞ。言っておくが。
私が以下のリンク先の記事などですでに何度も繰り返しているように、「史実としてのイエス」なるもの信憑性にいちいち一喜一憂して振り回されているようでは(それを否定する側とそれを肯定する側の双方にとって)まだまだ本当の意味で宗教の役割の意味や聖性の本源に触れるのにはほど遠く、なんら成長の機会がないとしか言いようがないのである。私はキャメロン氏の映画はそれなりに評価しているが、イエスの墓に夢中になるようではまだまだ底が浅い。
われわれにとって、イエスの史実性とはまったく副次的な価値しか持たないものである。イエスの存在が史実であれば、地球の表面のどこぞにその骨のひとかけらくらい残っていても不思議はない。だが、それはわれわれが探求することをやめないその対象なのであろうか? われわれは未だに聖杯を追い求める冒険者のレベルに留まっていていいのだろうか? その答えは断じて否である。
それではわれわれは信仰者として、「神の子」イエスを崇拝することでその役割を果たしているのか? 否。否。断じて否である。イエスを神の子と呼びたいその心がわれわれを欺瞞の壷の底に叩き落としているのである。何度も繰り返すが、聖書でさえイエスのことを「人の子」と呼んでいるではないか!
われわれにとってのキリストの価値とは、それがイエスであったのか、それが「救世の主」であったのかどうなのか、そのようなこととは何の関係もない。われわれにとって、「イエス」なるコードネームは、どこぞの聖書考古学者が生涯をかけて追い求めるような、物質的な対象物でもなければ、復活をして天に昇ったとされる信仰者の対象たる「神の子」でもない。
それは「死してまた甦る」という「死と再生」を表す神話的元型の、最もわれわれに近い時代を生き延びた「最後の神話」としての価値がある。そしてその「神話」を完成させるべく、現在進行形のプロットとして、われわれの文明が進捗しているという事実に、本当の価値が見出されるのだ。これは過去の象徴的物語であると同時に、未来を占うものである。
【過去の参考記事】
流行ったものは廃れてしまう(栄枯盛衰のことわり)
http://blog.archivelago.com/index.php?itemid=159554
宗教の「第三の機能」への一瞥
ペイゲルス著『ナグ・ハマディ写本』を読む [1]
http://blog.archivelago.com/index.php?itemid=159740
イエスとマグダラの「婚姻」の意味するところ
http://blog.archivelago.com/index.php?itemid=164039
これ以上何を言うべきであろうか? キャメロン氏には悪いが、彼が全く無自覚に造り上げた商業的大作『タイタニック』にさえ、それを解く鍵が象徴的に隠されているのだ。
http://blog.archivelago.com/index.php?itemid=116222
「死と再生」と「世界の更新」から観た『タイタニック』考