Archive for October 10th, 2007

そりゃあ問題ですよ、樹さん

Wednesday, October 10th, 2007

いつもなら樹さんのブログにおけるコメントはなるほどと思うところが多いのだが、今回は素直に頷けない。申し訳ないが…

もちろん、アル・ゴア氏らが中心となってアジられている環境問題意識に便乗しようと言うのでもない。内田樹氏によれば、問題は温暖化ではなくて寒冷化だということで、温暖化における被害よりも寒冷化による被害の方が人類にとっては深刻さの度合いが大きいということである。

1年生のゼミで「地球温暖化」が取り上げられた。

地球温暖化を防ぐために、京都議定書の規定を守り、急ブレーキ、急発進を自制し、わりばしをやめてマイ箸を使いましょう・・・というような話を聴いているうちに既視感で目の前がくらくらしてきた。(中略) 地質学的なスケールで考えても、現在は「間氷期」である。地球は氷期と間氷期を交互に経験する。最後の氷期が終わったのが、約1万年前。黙っていても、いずれ次の氷期が訪れて、骨が凍えるほど地球は寒くなる。そのときには海岸線がはるか遠くに退き、陸の大部分は氷に覆われ、動植物種も激減するであろう。だから、私は温暖化には類的な立場からはそれほど怯えることもないのではないかと思っている。地球寒冷化よりずっとましだと思う。

(引用:「地球温暖化で何か問題でも?」@内田樹の研究室)

一面、それはそうなんだろうが、件の気温変動そのものがどうして起こるのか、そのメカニズムについては太陽を原因のひとつに挙げるだけで、人為の介在が温暖化、ひいては寒冷化を引き起す可能性についてまではあえて考えていないように見える。太陽そのものの生涯にまで言及し始めるが、それが何を導きたいのかはよく分からない(太陽そのものも不変ではなくて、いずれは滅びてしまうわけだから、そんなことを心配しても仕方がないというのだろうか? 地球環境の温暖化がそのようなレベルと同一に論じられるのだろうか?)。

このところ、自分にとって最もcredibleな環境変動論は、急速な温暖化(それが《何》を原因とするものであるにせよ)が、重篤な寒冷化の引き金になることを主張している。万が一にも温暖化の原因が人為によるものでなく、よりメガなスケール(たとえば太陽系規模)の要因があったとしても、人為が温暖化に拍車をかけることをして良いことにはなるまい。あるいは、少なくとも(何が原因であれ)温暖化が引き金になって起こるかもしれないことについて知っておいて心構えをつけておくことは無駄ではあるまい。

「The Coming Global Superstorm」の共著者の一人であるWhitley Strieber氏によれば、来るべき氷河期は急速な温暖化による極地方の氷山の大規模崩壊によって海に大量の氷が溶け出すことで海水が急速に冷却し、それによってドミノ式に「スーパーストーム」と呼ぶに相応しい文明のほとんどを死の縁に至らしめるような規模の激しい吹雪に地球の半球見舞われ、その際の雪や氷に覆われることによって、一気に地球は氷河期に突入するというシナリオを描いている。欧州の様な高緯度地域が現在のように、氷河に閉ざされていないのは、「メキシコ湾流」と呼ばれる暖流によるものだが、そのコースが変動することで欧州などはまた氷に閉ざされてしまうほどで、文明というものはそれほどに脆弱なのだ。映画『The Day After Tomorrow』は、その説に則って作られた超近未来SFだが、もっともあり得そうな暗黒の未来像だと思う。

だから、「怖いのは寒冷化で温暖化は問題にならない」とも読める内田樹氏の主張は、半分は正しく半分は正しくない可能性がある。まさにその「怖い寒冷化」が「大して怖くない温暖化」によってやってくる可能性について、われわれは意識を向けなければならないのだ。

(過去数万年における、氷河期と間氷期の交互の出現は、私の直感によれば、実はすべて地上に現れた「外ならぬ人類の登場」が引き金になって引き起されている、のである。これはまだ(おそらく)誰も言っていない新説である。)

ときに、環境論と科学者の関係についてフリーマン・ダイソン Freeman Dyson の述べていることは興味深い。ある種の科学理論が初歩的なところで間違っていても、それが導き出そうとするところが、大局的に「正し」ければ、その論全体を簡単には全否定できない(できるだろうがするべきでない)というようなことを、フリーマン・ダイソンは著書「Infinite in All Directions(邦訳『多様化世界』(みすず書房)」の中で書いているのだ。彼はカール・セーガンの有名な「核の冬」の理論が極めて基本的なところで間違っているし核爆発は地球に冬などもたらさないということが、科学者としてのダイソンの眼には自明だったが、「核の冬」の結論が導こうとしている警鐘、すなわち「核兵器開発の競争は人類のためにならない」という結論そのものには深く共鳴していたので、セーガンのセオリーを否定することが「正しい」ことなのか、科学者としてではなくて、人間としてどうすべきなのか倫理的な苦悩を覚えたと述べている。このことは科学者の言説として、核開発に関わった人間の言葉として改めて受け止め直せば、その言葉の重みが分かるだろう。つまり「科学的に正しいことが戦略的な正しさを導き出さない」ということなのだ。

これは多くの温暖化理論が初歩のところで間違っていたとしても(ということは、ひょっとして人為と温暖化は何の関係もないとしても)、温暖化が後に引き起すかもしれない人類に降り掛かる試練をあり得ない(あるいはわれわれの問題として扱うことが出来ない)と問題そのものを全否定する論理への加担の必要もないだろうということに逢着するのだ。