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「神々の沈黙」への備忘録 #1

Wednesday, April 2nd, 2008

神々の沈黙画像

まだ、150/600ページしか読んでいないのだが、あまりの興奮と感動のために、いくつかの備忘録を残しておきたい。もちろん、ジェインズが言っていることをすでに捉え損なっているとか、半ば意図的に曲解しているようなところはあるかもしれないが、それにも関わらず、これを書いておく必要があると判断したのだ。

ジュリアン・ジェインズが言ったように、「二分心の時代」から現在の「意識」(自我意識)の支配する時代(神々が沈黙した時代)へと、今から3000年前に移行したとすると(むろんそれを本当に3000前とするべきなのか、それ以前の、例えば6000年前という時代に起きたとするべきなのか、僅か数千年の差があるとしても)、それが何故こんな近々の過去(つい最近)に起きたのか、という彼自身が逢着した疑問に、やはり自分でも逢着せざるを得ない。

いわゆる脳の物理的・生理的な構造の変化が原因の一つであるにせよ、いわゆる進化論的な変化がそのように短い時間に起こることは考えにくい。ただし、一定の「脳の傾向」を持った人間が人口全体に占める割合というように統計学的な概念を導入して考えた時、一つの仮説が立てられるような気がする。(以下はポリティカル・コレクトネスを問題にする人々の前では口にしにくいことである。とりわけ「権威」の到来を待っているかに聞こえるかもしれないところなど。)

それは、現在われわれが知っているような意味での現代の近代資本主義や、技術文明、そして西洋のヒューマニズムというものが、以前なら厳しい自然環境による淘汰圧に耐えられずに滅びていた筈のヒトをその文明のシステムの傘の下で生かすことによって、ホメロスの時代ならあり得たような二分心的な「神との直接交流」を可能とする英雄的人間の類の占める割合がどんどん希薄化されて行ったということはありそうなことである。つまり、現在でも人口の一定の割合で見出すことの出来るいわゆる「統合失調症」と呼ばれ、今日でも「治療」の対象にさえなっている精神病患者達は、そういう英雄になり得た種の生き残りであるということが出来るかもしれない。

ただし、そういう種は、常に人口の一定の割合で生まれて来ようとし、また、それを去勢ないし排除するような文明でなく、それを畏怖し、また育て、またその指導に従うことを好しとするような文明であったなら、その才能を一挙に伸ばして、ホメロスの時代にいたような英雄になる可能性があったのである。

つまり、「統合失調症」が死なずに生き延び、全人口に対する彼らの割合が現在よりはるかに高かった時代は、いわゆる「二分心人達の文明」ということできて、それこそ「神との交流能力」が、生存の観点からは有利でさえあった時代であり、時代が下るに連れ、そうした人々が生存にとって危ういものである、むしろわれわれの生を脅かすものであるという、それまでとはまったく異なる文明観が存立したとき、この手の英雄達は沢山殺されたのだろう。こうした、かつてなら「生存に有利」とされた種が却って、淘汰されるべき対象として看做されるようになる。当然のことながら、そうした「種」が、とりわけ「狩られて」仕舞った後の文明においては、彼らはマイノリティの地に落ちてしまう。

神共に生きる。天使と供に生きる。こうした目に見えざる存在達と生きていた時代の名残というものは、今でも西洋文明の影響を余り大きく蒙っていない地域には残っているのではないか。例えばライエル・ワトソンがその著書『未知の贈り物』で描いている少女ティアの存在というのは、そうした「統合失調症」と、文明の側なら名付けそうなすべての条件を満たしているように見える。

しかし程度の差こそあれ、われわれの社会にもこうした「病」と名付けられそうな人間は思いのほかたくさんいて、神や天使、あるいは先祖達の声を間近に聞いているのである。それが病的な様相を呈したり、本人がその声に苦しんだり、他人に迷惑をもたらさない限り、そのことは話題にもならないし、問題自体にならない。

ヒトは神を見ようとする。神がいれば、それの元へひれ伏してしまおうとする。これは権威主義とも結びつきうるものかもしれないが、自分の心の広間で神と思える声が響き渡るとすれば、それに対して無条件に従ってしまうというその在り方は、むしろヒトが生物学的に(生得的に)持っていた能力ではなかったか?

神の声を聞いてしまう脳のある扉が突然開いてしまって、突然それが命じるままに自己をこの世から文字通り滅却してしまおうと考えた男の話が出てくるが、そうした行為に及んでしまった男の気持ちを私は分かる。天から轟くとしか言いようのないその声に一体誰が抗うことができようか? ジャンヌ・ダルクが生得していたのは、神の声を聞くという、その時代にとっては、おそらくやや希な能力であった筈だが、それを自分のその後の行動の指針にするほどその内なる声に従順であったということ自体は、驚くに値しない。つまり、その声を聞く者にとって、それに従うなどということは、「当然のこと」なのだ。