Archive for February 5th, 2009

《知》と《信仰》の間に横たわると言われる隔たりについて

Thursday, February 5th, 2009

2009.2.2のメモから

「知の限界」という問題意識は、その後の正統多数派キリスト教会で、グノーシス派の思想が異端派の馬鹿馬鹿しい空想としてまるごと排斥されてしまうため、表だって生産的な形で継承されることはなかった。言い換えれば、「信仰」と「知」が機械的に二者択一的なものとされてしまい、時代は暗黒の中世*に入っていく。(筒井賢治著『グノーシス――古代キリスト教の“異端思想”』p. 214 「結びと結論」より

gnosis

正統派の言う「信仰」の対象…

グノーシス派の指し示そうとした「知」…

これらのヴェクトルが別方向に伸びていったというのが紀元2世紀に起きた最初の悲劇だ。筒井氏のこの「まとめ」ほど簡潔に信仰と知の「対決」の起源を言い切った言葉はないのではなかろうか?

そも、グノーシス派の指し示そうとした「知」とは、何についての知であるのか? この「知」に関する具体的内容は、本書では深く言及されない。せいぜい神話に繰り返し出てくるところの、「罰せられるべき好奇心」についての思わせぶりな言及に留まる。新書のようなこの紙面でそれ以上深く分け入るのはおそらく不可能であろう。

繰り返そう。そも、グノーシス派の指し示そうとした「知」とは、何についての知であるのか? それは超歴史的世界観への観想であって、その事実性への確信である。その確信が「好奇心としての知」の相対性、そして何よりも明らかな危険性を規定したのであり、その「危険性への認識」が「信じること:信仰」の端緒を成した。

だが、現在、「知」は「信仰」への反意語に過ぎず、「信仰」は「知」の限界をして「それ見たことか」と勝ち誇ったように指弾し、《知》を否定する自我として機能するに至っている。一方、「知」は「信仰」の科学的厳密さを欠く不完全さを以て耳を貸すに値しないものとして無視する。だが、これほどの悲喜劇があろうか。

本来、《知》が信仰することの理由を明らかにし、《信仰》が危ない好奇心(知)を戒めるための制動装置(ブレーキ)として機能したにも関わらず、そしてあらゆる終末論を唱える宗教的なるものの本源が、この危機への認識、すなわち、われわれの祖先の最も古い《知》まで遡るものであるにも関わらず…

いまや、それらは相互に否定し合い、軽蔑し合うことで、それぞれが最も離れた方向へと、制御できぬ彼方へと、引き離されていこうとしているのだ。

ここで何度でも反芻されなければならないことは、あらゆる宗教は、古代の人類の引き起こした大災厄からの学びを反映している、という一点である。そしてわれわれにとっての古代とは、われわれにとっての近々の未来と瓜二つであるということである。

もうひとつ明らかにしなければならないことは、「知」は知でも、災厄を引き起こす「好奇心としての知」と、他でもない人類の手によって引き起こされた災厄についての記憶としての《知》のふたつが、区別なく同じ「知」という言葉で伝えられていることである。だが、そのどちらも人間の好奇心によって維持されているという点においては、そして、記憶を伝えようとする使命を帯びた《知》が、宗教のドグマ(教義)化された時に、結局、預言の自己成就性をまさに発揮して、その《知》が知るところの知識が、またしても人類を滅ぼすような性質のものに反転する逆説にさえなるということである。

一方、信仰の方は、信じるか否かというレベルの問題ではなくて、実際にあったことを体験として知っている、という段階から、(われわれにとっての「ヒロシマとナガサキに原爆が落とされた」という事実と同じく)自分の親や祖先たちが知っていたという段階への移行、そして、記憶が薄れるにつれ、「信じなければならない本当にあった話」という段階を経て、「無条件に信仰しなければならない話」と変質するのだ。だが伝えられるべき内容が重大であるほど、それは無条件に受け入れなければならないもの、すなわち信仰の対象となる。この点で、本来の信仰というものが、いかほど《知》と隔てられたものであろうか? いささかの違いもないのである。

(more…)