Archive for February 14th, 2010

交互に現れる夜の世界と昼の世界について #1

Sunday, February 14th, 2010

親愛なる友よ! 例えば音楽においては自然模倣によっては何事も為しえないように、芸術の中の芸術的なものは自然模倣とは何の関係もありません。(R・シュタイナー「アカンサスの葉」より)

Acanthus Leaves

画像引用元:ハーブの育て方や効能・ハーブで健康生活!

Acanthus Flowers

画像引用元:花の家:今咲いている花情報(神奈川県三浦半島)

Acanthus red cloth

画像引用元:ALBUM Fuente Boylston:生地アカンサス赤

Acanthus by W. Morris

画像引用元:インテリア備品>ウィリアム・モリス:輸入家具・雑貨の専門店 e木楽館 Acanthus Scroll (by W. Morris)

「アカンサスの葉」という節の中でR・シュタイナーがアカンサスの葉について開陳している具体的な意味解釈そのものを支持するかどうかは取り敢えず脇に置いておこう。だが、象徴図像に対する取り組みの重要さという点で、彼の話の中には大いに耳を傾ける価値がある。そうした象徴物への態度については、人智学者や神智学者でなくても、特定の宗派への信仰を保持しなくても、象徴そのものへの瞑想的なアプローチによってその本質に迫ることは可能なのである。

芸術的創造のこの内的・原理的なものを再び発見することがないならば、私たちの柱頭のフォルム、否それどころか私たちの建築全体のフォルムの根底にあるものが理解されることは決してないでしょう。今、象徴的に言えば《籠の仮説》を擁護する人は決して私たちのことを正当に理解はできないだろうということです。(ルドルフ・シュタイナー『新しい建築様式への道』第1講義「アカンサスの葉」page 30より)

R・シュタイナーは《籠の仮説》について、数行前で以下のように説明している。「コリントの彫刻家カリマコスがあるとき偶然底に置かれている小さな籠を見つけ、この籠の底の周りにこのアカンサスの葉が生えていた… それゆえ、彼はアカンサスの葉に囲まれた小さな籠を見て、そうだ、これがコリント式の柱頭を与えてくれる、と言った… これは考えられる最も純粋な唯物論です。」

(自分ならここは「最も素朴な唯物論」と訳すだろう。だがそれは置いておくとして、)彼がここで言おうとしていることは、われわれが何度も繰り返して説明している秘儀の顕教的説明と秘教的説明の意味の二重性に関連している。本当に重要なことは、歴史的な(唯物論的な)説明の中にはないということだ。民間伝承的に伝えられるなんらかの象徴物あるいは聖典の伝えるような象徴的物語の成立逸話が、字義通りに信じられる価値のあるものではなく、ある種の説明便宜上の単純化が、その象徴物の存在を後世に伝える役割を果たすものの、その根本的重要さの説明自体にはならないという話である。

ここでの例で蛇足すれば、彫刻家カリマコスが着想したと言われる理由を説明する歴史的な「事実」は、それが真実であったかどうかに関わらず、カリマコスが何らかのインスピレーションを授かった事実の一端を伝えるものではあるかもしれないが、その本当の理由やインスピレーションの内容そのものについては、まったく何の説明にもなっていない。つまり、こうした逸話を教育的理由で記憶しよう(させよう)とする人類の努力は、その「事実」を後世に伝えはするが、その内容的な本質は、《コリント式の柱頭》そのものからわれわれが直接受け取らなければならないのである。

こうした象徴物などの存在を後の世に伝えようと働く逸話は、典型的には観光ガイドが丸暗記できるようなものとして十分な簡略化と覚えやすい展開とを以て口伝されるが、その存在の伝えようとする《普遍的題材》とも呼びたくなるような本質的内容自体、そしてその価値が、その象徴物自体に対峙する個々人がそれぞれ受け取らなければならないという、ひとつの二重性を保持する。まさにこのパターンは、例えばマドレーヌ菓子が何故「貝の鋳型に流し込まれて作られるのか」ということの歴史的な説明(それを発案したのがマドレーヌという名の女性だったから、というような即物的な説明)、あるいはシュタイナー流に言えば、「唯物論的な説明」としては十分なのかもしれないが、それを記憶するだけで事足れりとしてしまえば、それを伝え聞いたことの真の重要性は受容していないことになるのである。

いかなる聖なるものも、それが伝えられるその仕方とは、世俗化されて受け入れやすい説明、そして分かりやすく覚えやすい説明という《乗り物》に載せられて、太古の昔から今日という時代まで運ばれてきたものだ。一見宗教性との兼ね合いさえもないかに見える事物が、きわめて神秘的且つ日常的に了解困難な内容の伝達に寄与してきたのか、ということに気付き、解き明かし得る謎の鍵として機能することを、われわれは何度も思い返す必要がある。

■ 関連文書

“ヴィーナスの丘”と褥の皺と [2]

秘儀(密教)は顕教によって伝えられる