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反対物の一致 #1:原初的な前提

Wednesday, February 17th, 2010

夜があるから昼がある。そしてその逆も然り。闇があればこそ光もある。あるいは焦熱の日射地獄があればこそ木陰の楽園がある。冬があってこその夏であり、終わりに向かう秋があってこそ、年の始まりである春の喜びがある。こうした差異、あるいは反対物の存在によって、あるモノやコトの価値、ひいてはあらゆる概念自体の認知が可能となる。

善だけの世界もなければ悪だけの世界もない。真実も多くの虚偽があってこそ意味を持つ。これらの言わば認識論的な価値の存在の仕方の中にわれわれの住む世界がある。つまり苦も楽も、それらは互いにその反対物の存在によって存在を許されているのだ。考えてみて見るが良い。一体、全くの不正の無い世界で、どんな正義が意味を持つというのであろう? 一体、まったく自己中心性の無い世界で、どんな自己犠牲が意味を持つというのであろうか? 不正や利己主義の全くない世界において、どんな救世主(キリスト)が意味を持つというのであろうか?

われわれの世界が永遠にして不変であるなら、その存在の《価値》はないのかもしれない。われわれの生や人類の文明が、かくも「かけがえのない」ものとして考えられていること自体も、それらの不在、もしくは終わりが約束されているからこそなのかもしれない。いつでも在るものにわれわれは価値を見出し得ない。われわれは亡くなるものを得ようとし、また既に無いものこそ求めようとする。そしてわれわれがそれを求めたとき、それは善なるものである。であるならば、不在こそ存在の価値の基盤となる点に於いて、これもまた善である、とも言い得るのである。つまり死(=悪)という不在は、生という存在の基盤となる点に於いて、善なのである。

かくて、《反対物の一致》という価値観の大転換が行なわれるのである。

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