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反対物の一致 #4:死を伴わない発展はないことについて

Monday, February 22nd, 2010

(あるいは)

何故われわれが(非)宗教的終末論の必要を主張するのかについて

Pieta

発展は一種の変化であり、方向的にはとりわけ未完から完成への変化であり、また未成熟から成熟への変化である。また「発展」という言葉には濃厚な肯定的価値判断が含まれている。こうした発展系の変化の別名は、しばしばわれわれの慣習として肯定的に《成長》とも呼ばれる。そして、こうした種類の《変化》は、その目的であるように見えるところの、完成や成熟でその状況遷移が終了するのではなく、完成は崩壊(もしくは解体)へ、成熟は枯死へと向かう種類の変化であることを見逃すことはできない。つまり、発展や成長には永久の発展も永遠の成長もあるわけでなく、その発展系の事物の誕生には、死による終焉が待っているのである。

成長はまた、ある一定以上に進化した生命個体の特質でもある。それは一定の条件が揃えば避けられない方向性である。また、あらゆる生存環境上の変化が生起する以上、それへの適応を行なわなければ生命は死滅するので、適応という変化を行なわなければならない。それが個体レベルではなく、種というグループ単位において行なわれ、変化の内容をその種の特性として遺伝子に固定化させ子孫に相続させる時、それは「進化」と呼ばれるようである。

いずれにせよ、個体のレベルにおいても集団のレベルにおいても生きているものは変化する。そしてその変化は、個体レベルでは成長であり、集団のレベルにおいては進化として理解されている。(そしてそのいずれもが通俗的世界観においては完全に肯定的観念として受け入れられている。)こうした変化が個体や種のよりよい生(あるいは「完成」)のために採られるものであると解釈し、それを「発展」という名で呼んできたのはあながち理解できないことではない。未熟よりは成熟、未完よりは完成が、人生の局面では肯定されてきたからである。

しかし、変化するということはわれわれその生を生きる者にとって、完成や成熟の後に待っている老衰や腐敗、そして最終的には死が一セットである以上、苦痛なのであるということは、すでに言を俟たない。それは生を苦と捉える仏教思想にも通じるものですでにそれは十分に検討されてきたことだ。

だが、これが自分自身に引きつけて考えることのできるひとつの個体の死という次元では諒解容易な観念も、人類史をひとつの大樹のような系、すなわち《文明》として捉えた場合、歴史の誕生に、歴史の死という終末がセットとなっていることは、なかなか受け入れ難いものがあるかもしれない。われわれを生かしているこの体系(システム)自体の死は、その体系によって生かされているわれわれはなかなか客観的に捉えることができない。始まりがあって終わりがあるのは、人間の組織であればすべて例外なく真なのであるが、自分という個体の死を理解できても、この文明がすっかり終わってしまうということは想像が難しいのである。

しかし少し考えてみれば分かることだが、有史以来の歴史を鳥瞰しても明らかなことであるが、どんな文明も国家もすべて興って栄華を窮めたものは滅びているのである。ローマ帝国が全盛であったとき、あるいはペルシア帝国が隆盛を楽しんでいた頃、誰がそれらの来るべき崩壊を実感できたのか? それは一部の歴史家や哲学者のみであった。人の一生と同じく、文明や歴史には始まりがあり、そして終わりがある。生まれでたものは死に往かねばならないのである。それは経済成長という名の「発展」についても同様である。成長する以上、成熟期があり、それを越えれば爛熟しそれは腐敗への道を落ちて行くのである。したがって、経済や文明に人格があり意志があったとすれば、「わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである」(ヨハネ黙示録 22章13節)という言葉は、あたかも彼らが発する言葉のように聞こえてくる。

中国で伝えられてきた不老長寿の妙薬などというものは、個体の寿命の延長策として通俗化されて知られているが、そもそもは生命の木としての人類の世界を如何にして永続化させるかという哲学が発祥であったと考えることもできる。[これについてはまた別の機会に]

そうしたとき、発展や成長を今日のように善なるものとして(肯定的にのみ)捉えるのでなく、敢えて悪として、(否定的に)捉える《哲学》が登場できるのである。変化のないものは永遠である(永遠と変化は相互に背反し合う)。そして変化のない永遠が平和である(変化は平和の最大の敵である)。そして永遠のために哲学が登場する(永遠のために変化を否定するものとして哲学が存在する)。すなわち、その哲学は永遠を、いや《永遠の生》を如何にして現世に実現するかを考える学問である。だが、こうした哲学に先立って(変化を否定し)永遠の実現を課題とした人類の運動が存在する。

それがtradition(伝統)であり、またconvention(因習)であり、それらは宗教以前においては単に《掟:commandment》の形で人類の活動に制御(ブレーキ)を与えるものとして機能した筈である。このようにすっかり通俗化(脱聖化)した今日的人類の視点から見れば否定されて久しいこれらのことが、実は「永遠の哲学」の名残であったことを、われわれは遅からず思い出すことになるだろう。それは、繰り返される変化の果てに進化/発展が極を迎え、そのために多くの犠牲を巻き込みながらわれわれの世界がついに崩壊して終わるや否や、世界の辺境で運良く生き延びた《生き残り》によって開始される筈の運動なのである。

ひとつの世界の終わりと同時に開始されるこれらのことの目的は、その終わりをもたらした原因の排除である。それは無遠慮で無慈悲なほどに徹底した排除であろう。だが、それは広く歓迎されその価値が疑われることはなかったし、それほどの徹底さが必要なほどに、起きた破壊と悲劇の規模は大きかったのである。つまり、そのような終わりを招来させないために、「崩壊することの分かっている塔を建設しない」こと、すなわち「文明を始めない」ことが、悲劇回避に関して最大の効果を期待できる予防策だったのだ(そして予防策となるだろう)。そしてその運動の形骸化されたものが、われわれの知っている「宗教」という名前で知られる、人間による人間のための組織的な集団行為なのである。

その文脈で読み始めて、初めて宗教や神話の扱っている「事の起こり」の意味が明らかになる筈である。

画像:El Greco, Pietà, 1571-1576

死んだ「人の子」を抱えて嘆き悲しむ聖母:これは文明と歴史とを失って慟哭するわれわれの未来の、(そしてかつての、遠い父祖たちの)姿である。

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