Archive for July 7th, 2011

「人類の進歩と調和」そして「進化」の乱用を巡る短いメモ

Thursday, July 7th, 2011

Twitterのつぶやきに書ききれなかった若干の内容を補足して転載。

高校生のとき、同級の悪友が「人類の進歩と調和」について小論文を書け、と言ってきて、それについて真剣に考えて以来、この言葉については敏感だ(その論題を出した彼は、「進歩と調和は相互否定的な概念であり、欺瞞的なスローガンだ」という当方の回答に非常に満足していた)。

なぜ科学や技術の進歩に「進化」などという生物学用語を和文ライターたちは当てるのだろう。進化できるのは人間以外の生物だけだというのに。そしていつ頃からこの語彙の乱用が始まったのか? もうこの乱用に付き合うのに飽き飽きし始めている。

「人類の進歩と調和」なんていうのはアンビシャス、というよりは何と欲深い願いかと思うが、それでも大阪万博当時の日本人は「(技術の)進化と調和」などとは言わない分別は持っていた。(しかし考えてみると「人類の進歩」という表現も変だ。進歩できるのは科学・技術だけだろう、そもそも。)

人類は、《進化》などという気の長い持久戦を早々に諦めて、外的な条件である環境改変の方に着手してしまった。環境への適応とサバイバルが進化の本質で、自らの変化のことだが、人類は「進化」ではなく、道具である技術を「進歩」させる方を選んだ時点で進化と縁を切った。

実際、考えが一巡してみると、70年代にわれわれはすでに「人類の進化と調和」と高らかに宣べ伝えるべきだったのかもしれない。生物学的進化は緩慢であり、また、周囲との調和無しには実現できないから。少なくとも人類は12,000年間は進化など全くしていない。道具を発達させたために生命的には「退化」した。(実に短期的な出来事だが。)

「食べない」ことを恐れない心

Thursday, July 7th, 2011

Twitterでのつぶやきをまとめて転載。

先進国が飽食を止めれば世界の飢餓が無くなるというのはおそらく本当。医療が病気を生産して医療業界を潤しめているように、われわれの「食べねば」という強迫観念と習慣的過食が食糧・食品業界の繁栄を支える。実はわれわれはわれわれが思っているほどに「食べる」必要はなく、栄養失調の心配もない。

「食べる」というエンタメは、映像の遥か以前に発達を開始した超大産業なのだ。この牙城はそう簡単に倒せない。医療費は国費を圧迫し、医療関係者が食べていけることのためにわれわれは多額の保険料を支払わされている。

医療費の爆発を抑えることのできる最終兵器。イスラムのラマダンのように、習慣としての定期的な「断食:ファスト」を行う。食事を抜いたり食べないことを恐れぬ心理を養成。国民は適度に痩せ、痩せることによって多くの習慣病は激減する。実は長期的には国益にも適っている。